時の砂〜the past〜
――――ステラ・ポト
「はあっ、はあっ……大賢者様、これは?」
「あ〜それは……うん、向こうかね……あ、いや、やっぱりこっちにしておくれ」
「……っ!……は、い……」
大賢者クレスト――リンに顎で使われながら、モニカは両手で荷物を運びつつ唇を噛んだ。
(あ〜もうっ! こんな用事だって分かってたら、来なかったのに!)
少しの間でも政務から逃れられると、この件に飛びついた数時間前の自分が恨めしい。
これだったら机に噛り付いて山積みの書類と格闘していた方が、まだマシだった。
(にしたって、この散らかり様……どれだけ整理整頓してないのよ! まあ、私もあまり言えないけど……)
「ほれ、モニカ、手が止まってるじゃないか。若いんだからテキパキ働くんだよ!」
「……はいはい」
「『はい』は一回」
「はい!」
自棄気味に返事をしつつ、モニカは荷物を言われた場所に降ろし、また次の荷物を取りに行く。
『ステラ・ポトで人手が必要。至急、応援求む』――それが、リンからの用件だった。
休憩の時間に廊下を歩いていたモニカは、数人の兵士達がこの件で何やら困っているのを目撃した。
どうやら誰が赴くかを相談していたらしく、外出の理由が作れると思った彼女は、すかさず自分が行くと言い出したのである。
すると兵士達は心から感謝した様に礼を述べ、王妃に話までつけてくれると即座に行動してくれたのだ。
それに気を良くしたモニカは意気揚々とステラ・ポトにやってきたのだが、そこで待っていたのは単なる大整理の手伝いだったという訳である。
(……よくよく考えれば、変だったのよね。普段は散々『外出は禁止!』って言う癖に……あいつら、こんな用事だって知ってたわね)
あの時の兵士達の顔を思い出すと、どうしたって苛立ちが込み上げてくる。モニカは憎らしそうに奥歯を噛み締めながら、一人心の中で誓った。
(帰ったら剣の特訓だとか言って、思いっきり憂さ晴らししてやるわ!)
「モニカ! ボンヤリしてるんじゃないよ! 次はそれ!」
「っ……分かりました! 大賢者クレスト様!!」
――とにかく、さっさと終わらせて帰りましょう。
そう決意しつつ、モニカはリンが指し示した荷物へと近づく。
「ふう、今度は植木鉢か。……あれ? 何、この砂?」
かなり巨大な植木鉢を見下ろしながら溜息をついたモニカだったが、ふと違和感を覚えて身を屈め、鉢の中の砂に指を入れる。そして軽く砂を掬い上げ、まじまじと観察してみた。
(普通の砂じゃないわね、これ)
とても柔らかいのに、鋭い硬さが時折感じられるという、何とも不思議な感触がする。
妙な興味深さを覚え、モニカが弄繰り回していると、後ろからリンの声が聞こえた。
「それは『時の砂』だよ」
「……『時の砂』?」
聞いた事の無い単語にモニカは立ち上がると、いつの間にか近くに来ていたリンへと振り返る。するとリンは軽く頷いた後、口を開いた。
「『星の砂時計』は覚えているだろ? あれに使う砂だよ。そのまま使えば、過去へと時間を溯らせるだけじゃなく、未来へと時間を進める事も出来るのさ」
「へえ、そうなんだ。……っ!? ち、ちょっと待ってよ! だって時間移動の技術は……!」
「安心おし。これを使って時間移動をしようなんて人間はいないよ」
慌てたモニカが言い終わらぬ内に、リンは軽く杖を振りながら言った。そんな彼女に、モニカはキョトンとした表情で首を傾げる。
「どうして?」
「この『時の砂』をそのまま使うのはね、とても危険な事なんだ。まず、過去の時間か未来の時間か、使ってみるまでどちらに行くか分からない」
「あれ? 使った人の思いが一番強い時間に行くんじゃないの?」
「だから、それは『星の砂時計』にした時の効力だよ。それから時間移動していられる時間も不安定。後、これが一番厄介なんだけど……元の時間に戻って来られる保証が無いんだよ」
「……えっ?」
思いがけない言葉に、モニカは絶句する。やがて我に返った彼女は、声を振るわせながらリンに尋ねた。
「それって、つまり……行ったきりになっちゃうって事?」
「そう。まあ、数日とかそれくらいなら何とかなるがね……数年、数十年、数百年という時間を移動して戻って来られないとくれば、使おうなんて気にならないだろ?」
「う、うん。確かにそんな技術なら有っても使わないわね。でも、何でそんなの此処に置いてあるの?」
「不用意に捨てるのも危険だし、処分するのも大変だからねえ……正直、あたしも持て余してるのさ。本当、どうしたものか……っと、話し込んじゃったね。ささ、モニカ! 早く運んでおくれ!」
「はあっ……はい」
手伝いの真っ最中と言う現実に引き戻され、モニカは溜息をついたが、それでも渋々ながら『時の砂』の入った植木鉢を持ち上げる。
しかし、予想していたよりも植木鉢はかなりの重量が有り、彼女は思わずよろけながら声を出した。
「っとと! け、結構重いわね、これ……」
「普段から大剣を振り回している者が言う台詞じゃないだろ。ほれ、あっちだよ」
「……分かったわ」
――本当、人使い荒いんだから……。
心の中で悪態をつきながらも、モニカは植木鉢をえっちらおっちらと運んでいく。と、その間に、ふと彼女は考えを巡らせた。
(この砂を使えば……過去にも行けるのね……)
そう呟いた瞬間、脳裏に金の髪を持った少年の顔が過ぎる。ハッとしたモニカは、慌ててそれを打ち消した。
(バ、バカ! 何を考えてるのよ、私は……)
眼を瞑り激しく首を横に振っていたモニカは、自分の足元がどんな状況か見えていなかった。
直後に聞こえた、少々悲鳴交じりのリンの叫び声で、ようやく彼女はそれに気づく。
「っ、モニカ! そこは段差……!」
「えっ?……っ!? きゃああっっ!!」
盛大に足を踏み外し、モニカは植木鉢を手放しつつ派手に転倒した。身体の彼方此方を強打しつつ、段差を勢いよく転がり落ちる。
そして、やっと身体が止まったかと思うと、ダメ押しとばかりに大量の『時の砂』が彼女に降り注ぎ、最後に植木鉢が背を打った。
「たたた……もう散々よ、全く……」
「モニカ! 早く砂を払い落とすんだよ!!」
痛む身体を摩りながら起き上がろうとしたモニカに、リンが焦った様な口調で叫ぶ。
そんな彼女を不思議に思ったモニカは、ヨロヨロと起き上がりながら尋ねた。
「な、何よ、急に大声で……?」
「さっき言っただろう!? それは『時の砂』だって!!」
「え?……っ!!」
リンが言わんとしている事を察し、モニカは反射的に自分の身体を見やる。
すると、全身に降りかかった『時の砂』が、夜空で煌めく星々の様な輝きを放っているのが眼に入った。
――――しかし、それも束の間の事。急いで『星の砂』を払い落とそうとしたモニカの意識は、瞬く間に薄れていった。
不意に身体が宙から落下する感覚に、モニカは意識を取り戻して眼を開ける。すると、眼前には地面が迫っていた。
慌てて体勢を変えて顔面着陸は免れたものの、腕を強打してしまった彼女は苦痛に顔を歪める。
「痛っ!……っ、全く乱暴な時間移動ね。誰も使おうとしないのも分か……っ!?」
ブツブツと呟きながら身を起こしたモニカだったが、やがて見慣れた景色が広がっている事に気づき、言葉を失う。
(まさか……此処って……?)
記憶は薄れ掛かっているが、見間違う筈も無いとモニカは確信する。
――――そう……想い人の生まれ故郷であり、自分にとっても大切な街だったのだから。
「パーム……ブリンクス……?」
呆然とその名を口にしつつ、彼女はグルリと周囲を見渡してみる。
何処を見ても見覚えのある物ばかりだ。今、自分が居る噴水が有る公園に、少し離れた所に有る教会と豪邸。更に向こうに見える橋に、その先の街並み。
ただ心なしか、全体的にくすんだ雰囲気が漂っている様に感じられた。上手くは言えないが、以前に自分が居た時よりも活気が無い様だと、モニカには見えたのである。
(気のせいかしら?……っ! もしかして、私が来てた時代よりも更に過去なのかな?)
リンの言葉を思い出しながら、モニカは自分がどの時代に飛ばされたのかを考える。
幾らなんでも此処が、事が終わり復興を進めていったとされる未来のパームブリンクスでは無いだろう。となると、やはり過去の時代だと考えるのが自然だ。
そう考えれば、この街の違和感にも説明がつく。まだ外界との接触が無く、完全に閉じ籠った街であった過去のパームリンクスであるならば。
(でも、待って。遥か昔の時代のグリフォン……いえ、ダークエレメントね。そいつを倒した筈なんだから、別に外界と遮断させる理由も無いんじゃ……?)
ふと、そんな事を思い浮かんだモニカは、再度頭を巡らせる。しかし、所謂タイムパラドックスと呼ばれる難解なこの問題を、考えるのが苦手な彼女に解ける筈も無い。
やはりと言うべきか十数秒経過したところで、モニカは苛立たしく頭を振って考えるのを止めた。
「あ〜やめやめ! ジッと考えてたって分からないわ。……っ、そうか! バース鉄道が開通してるかどうかで、ある程度は分かるじゃない!」
ポンと手を打ったモニカは、我ながら名案だとばかりに笑みを浮かべる。そして、すぐさま駅へと向かって駆け出した。
すると、自分の髪からパラパラと何かが飛び散るのを、彼女は眼にする。不思議に思ったモニカだったが、すぐにそれが『時の砂』だと分かると、気にするのを止めた。
(まっ、いいか。そんなに鬱陶しくも無いし)
そう思ったモニカは止めかけていた足を再び強く動かし、駅へと向かった。
「う〜ん、やっぱり開通してないか……って事は思った通り、此処は昔のパームブリンクスの可能性が高いわね」
随分と長い間、駅が使われていないのを確認したモニカは、両手を頭の後ろで組みつつ周囲を歩き回る。
そして、『時の砂』についてリンが言っていた事を思い返した。
(どれくらい時間移動していられるか分からないし、元の時代に戻れる保証も無い、か。まあ、それならそれで……っ! やだ、私ってば)
つい不埒な事を考えてしまい、彼女は軽く自らの額を叩く。想えばリンの手伝いをしている時も、この事を考えてしまっていた。
それは少しでも気を抜くと、必ず浮かんでくる考え。絶対に考えてはいけないのに、どうしたって消えてくれない考えだ。
「……苦しいな……叶わない恋って……」
俯き加減になりつつ、モニカがそう呟いた時だった。ふと聞き覚えの有る……しかし、何処か幼い声が聞こえ、彼女はハッと顔を上げる。
「はあっ……はあっ……遅刻だわ!」
(っ!? この声……っ、あれって、まさか!?)
素早く声のした方に顔を向けると、そこには絹の様な金の長髪を靡かせて走っている十歳くらいの少女の姿が有った。
幼いながらも整った顔立ちのその少女に、モニカは見覚えが有る。――そう、幼いけれども確かに彼女は……。
「……クレア?」
思わず小さく声に出したモニカは、無意識にクレアと思しき少女の後を追った。
しかし、少女はモニカに気づく様子も無く、酷く焦った感じで走り続ける。……と、彼女が走る先に有る家の影から、ひょっこりと人影が現れた。
瞬間、モニカは心臓を掴まれた様な感覚に襲われる。全身に稲妻が駆け抜け、呼吸も忘れそうになった彼女は、歩を止めてその場に立ち尽くした。
――――現れた人影の正体が、輝く様な金の髪にエメラルドの瞳をした、少女よりも少し年下と思しき少年だったからである。
「ユリ……」
「ユリス、ごめんなさい! 待った……かしら?」
反射的に彼の名を呼ぼうとしたモニカに被せて、少女が彼――幼いユリスに駆け寄りながら謝罪する。
「当たり前だろ、クレア。もう十五分も遅刻だよ」
「っ、そうね……ごめんなさい……」
両手を腰に当て、呆れ交じりにユリスが苦情を言うと、少女――クレアは決まりが悪そうに髪を弄った。
モニカからはクレアの表情は見えなかったが、どうやら暗い顔をしていたらしい。
慌てた様な仕草を見せたユリスが、「あ、えっと……」とオロオロしつつクレアの肩に手を掛けた。
「ま、まあ待ったと言っても、そんなに長い時間じゃなかったし、気にしてないよ。だから、そんな悲しそうな顔しないで。ね?」
「うん……ありがとう、ユリス。それと……本当にごめんなさい。今度、お詫びするから」
「だから気にしてないって。あ、でも、どうしてもって言うなら、前に飲んだお茶が欲しいかな。あれ美味しかったし」
「あら、それだったらまだ家に有るわよ。後で一緒にお茶する?」
「あ〜残念だな。今日はもう少ししたら、用事が有るんだ。また、今度にしようよ」
(……っ……)
モニカは二人に近づく事も、またその場から立ち去る事もせず、ただ二人の遣り取りを眺める。そうしながら、ふと彼女は『ある事』を思い出した。
(そう言えば、幼馴染だったのよね。ユリスとクレア)
かつてユリスから聞かされた時は、特に何とも思わなかった。しかし、今こうしてその言葉を裏付ける光景を見せつけられると、何故か無性に悲しくなってくる。
自分が彼と出会うずっと前から、彼にはこんな仲の良い女の子が居たのだ。知りたくも無かった事実を突き付けられたモニカの胸に、チクリと刺された様な痛みが奔る。
(っ!……何よ、この気持ち……違う! 私は……)
「それでユリス。その……頼んでた物は?」
「うん、出来てるよ。え〜っと……はい! ちゃんと直しておいたからね」
そう言いつつユリスが笑顔でポケットから取り出したのは、可愛らしいデザインをした小型の懐中時計だった。恐らく、クレアから修理を頼まれていた物だろう。
この頃から既に機械いじりの才能が有ったのかと、モニカは軽く嘆息しつつ感心する。しかしその直後、クレアが思いもよらぬ行動をしたのに、モニカの表情は凍りついた。
「うわあ、本当に直ってる。ありがとう、ユリス。……はい、お礼」
(……!?)
不意にクレアが両の手でユリスの顔を固定し、徐に自らの顔を近づける。
――――それが何を意味する行為なのか……モニカは十分過ぎる程に理解できた。
「わっ!? ちょ、クレア! くすぐったいよ!」
仄かに紅潮した顔をしたユリスが、恥ずかしそうに頬を手で押さえながら言う。すると、クレアが軽く首を傾げた。
「あら、嫌だった? パパはこうしたら、いつも喜んでくれるんだけど」
「っ、あの町長は……まあ、でも……ありがとう」
「ふふ、どういたしまして。あ、私そろそろ帰らなきゃ。それじゃあね、ユリス」
「うん。またね、クレア!」
笑顔でユリスに手を振りながら、クレアは自宅へと帰っていく。その姿は本当に可愛らしい物であったが、モニカにとっては非常に憎らしい物に見えて仕方が無かった。
胸がズキズキと痛み、知れず握りしめていた拳がブルブルと震えている。此処に至って、モニカは自分が抱いている感情に向き合わざるを得なかった。
(私……嫉妬してる。クレアに……)
――――そう、自分は嫉妬していた。お礼だとはいえ、ユリスの頬にキスをしたクレアに。
胸の内で、黒い炎が燃え上がっているのを感じる。こんなドス黒い感情を抱いている自分を、モニカは怖く……そして悲しく思った。
(バカね、私って……)
様々な感情が湧き上がり、涙が滲んでくる。それを感じたモニカは、無意識に俯いた。
早く元の時代に戻りたいと、彼女は心から思う。この時代にいたとしても、自分にとって嬉しい事は何も無いのだから。
この時代のユリスは、自分の事を知らない。彼の心に、自分の入る余地は無い。それを今更ながらに理解したモニカは、またしても胸が痛むのを感じ、ポツリと呟いた。
「……痛いな……」
「その怪我が?」
「っ!?」
突然返事が聞こえてきたのに、モニカはハっとして顔を上げる。
しかし、そこには誰もいない。気のせいかと彼女が思いかけた時、下の方から再び声がした。
「お姉さん、こっちこっち。下下」
「え?……っ!! ユリ……」
「ん?」
「あ、いや、え、えっと……な、何?」
いつの間にか近づいてきていたユリスに驚き、反射的に名前を呼びかけたモニカだったが、寸での所で思い留まり誤魔化しながら彼に尋ねる。
するとユリスは、彼女の腕を指差しながら答えた。
「だから、その怪我。何処かで擦り剥いたんでしょ?」
「怪我?……あっ、本当」
言われて初めて、モニカは自分が怪我をしていた事に気づく。余り大きな怪我では無かったが、それにしたって今まで気づかなかったのは不思議だ。
どうも、この時代に飛ばされた事に、意識の殆どが行っていたらしい。何となく恥ずかしくなったモニカは、心配そうに自分を見上げてくるユリスから視線を外しつつ言う。
「……大丈夫よ。そんな大した怪我じゃないから」
「ダメだよ。小さな怪我でもちゃんと手当てしないと、雑菌が入っちゃうんだから……あ、そうだ、お姉さん、こっちに来て」
「きゃっ!? ちょ、ちょっと!?」
いきなり手を握られ、モニカの心臓がドクンと高鳴った。
――――自分が知っているユリスの手よりも、ずっと小さく柔らかい……だけど同じくらいに温かい手。
そんな手の感触に動揺したモニカは、つんのめりそうになりながらユリスに引っ張られていった。
(へえ……此処は変わってないのね)
モニカがユリスに連れて来られたのは、メンテナンスショップだった。
彼の見た目の年齢から推測して、凡そ自分が知る五、六年前のショップだと思うのだが、内装は全くと言っていい程に変わっていない。
(スターブルは……いないのか。でもユリスって、この頃から此処の手伝いしてたのね)
何だか懐かしい気持ちになり、知れず笑顔になった彼女の手から、不意にユリスの手が離れる。
驚いたモニカだったが、彼はそんな彼女に「どうぞ、座ってて」と言いつつ奥から脚立を取り出した。
そしてそれを棚の前に設置すると、カンカンと音を立てつつ段を上り、棚の上に有った小さな箱に手を伸ばす。
しかし僅かに高さが足りなかった様で、小刻みに震える脚立の上で、ユリスは爪先立ちをし始めた。
「!?……ちょっと、危ないわよ!」
思わず声を掛けたモニカだったが、ユリスは少し苦しそうな声で返事をした。
「だ、大丈夫だよ、これくらい……うわあっ!?」
「!!……ユリス!!」
上手く設置出来ていなかったのか、脚立が派手な音を立てて崩壊し、乗っていたユリスの身体が宙を舞う。
それを眼にしたモニカは反射的に彼の名を叫び、落下していた彼の身体を素早く受け止めた。
そのまま庇う様に両手で抱き抱えると、彼女は大きく息を吐いた後、ユリスに向かって声を荒げる。
「もう、だから言ったじゃない! もう少しで大怪我……ユリス?」
何故かユリスは微動だにせず、身体を硬直させている。そんな彼を不思議に思ったモニカは、抱き締めていた腕を緩めて彼の顔を覗き込む。
すると、林檎の様に真っ赤に染まっているユリスの顔がそこに有った。
「ど、どうしたのユリス? そんなに顔を赤くさせ……あっ」
ようやくモニカは、彼の異変の原因に気づく。慌てて自分の胸からユリスを離すと、彼女は込み上げる羞恥心を必死に抑えつつ口を開いた。
「ご、ごめん! 苦しかった?」
「う、ううん……別……に……」
蚊の鳴く様な声でそう呟いたユリスだったが、直後恥ずかしさを紛らわせるかの如く大声で「そ、そうだ!」と言うと、モニカから離れる。
そして、床に落ちていた箱を拾い上げると、その中から消毒液と絆創膏を取り出した。
「は、早く怪我の手当てをしないとね。ほら、お姉さん、腕を出して」
「……クス。はいはい」
ユリスの慌て振りが何だか可愛らしくて、モニカは思わず笑みを零しつつ彼の言う通り腕を差し出す。
するとユリスは不愉快そうに少し顔を歪めたが、直ぐに「少し痛いと思うけど……」と前置きをしつつ、消毒液を彼女の幹部に塗りつけた。
「っ、痛!」
「あ、ごめん。でも、ちょっとだけ我慢してね」
「え、ええ、平気よ」
予想以上の痛みが奔ったが、モニカは申し訳なそうに声を掛けてきたユリスに笑みを返す。
(何だか不思議な感じ……あの冒険の時は、逆の方が多かったのに)
不意に追憶を始めた彼女の手当てを、ユリスは黙々と着々を進めていく。
しっかりと消毒液を塗りつけると、余分な液をガーゼで丁寧に拭き取り、その上から慎重に絆創膏を貼る。
簡素だが十分な手当ては、一分程度の時間で終了した。ユリスは絆創膏がキチンと張られているかを確かめた後、満足そうに頷く。
「よし、完璧。お姉さん、もう大丈夫だよ」
「どれどれ……うん、これなら平気ね。ありがとう、ユリス」
自分でも絆創膏の具合を確かめたモニカは、ユリスに礼を述べる。すると彼は、不意に怪訝そうに首を傾げた。
「あれ? ボク、お姉さんに名前言ったっけ?」
「え? あっ……い、言ったわよ、ちゃんと! 忘れちゃったの? あ、もしかして、さっきの出来事で頭が混乱しちゃってるんじゃない?」
「っ!……そ、そう……かもね……」
いつの間にか自然に彼の名を呼んでいたモニカは、咄嗟に出鱈目を言う。するとユリスは、平常に戻りかけていた顔を再び真っ赤にさせて俯いてしまう。
どうやら、思いの外に効果は有った様だ。そう判断した彼女は、一つ安堵の溜息をつく。しかしその直後、自分の視界に煌びやかな光が入ってきた事に、ハッとして眼を見開いた。
(『時の砂』? 何で急に輝きだし……っ!! 元の時代に戻る合図って事!?)
「?……お姉さん、何その光?」
ユリスもモニカの異変に気づいたらしく、俯かせていた顔を上げ、彼女を指差した。それに対してモニカは「あ、これは……」と曖昧に返事しつつ、思う。
(そっか……そうよね。ユリスと一緒に居られるなんて、結局は無理なのよね)
不意にモニカは、無意識に寂しそうな笑みを浮かべる。直後、「どうしたの、お姉さん?」と言ったユリスに眼をやると、彼女は彼の顔をジッと見つめた。
――――間違いなく、彼はユリスだ。自分が大好きな……ずっと傍に居て欲しいと願った男の子。
少し幼いけれど……ほんの僅かな時間の間だけれど、こうしてまた彼を見る事が出来た。それだけで、自分は十分幸せ者の筈だ。
なのにモニカは、更なる欲望を抑えきれない自分が居る事に気づく。そして、それを咎める自分が居ない事にも。
(最後の最後なんだし……これくらい良いよね)
自分勝手な判断を下し、彼女はそっとユリスの顔に両手を伸ばし、優しく挟み込む。丁度、先程クレアが彼にしていたのと同じ様に。
「お、お姉さん? な、何、急に?」
「手当のお礼よ、ユリス。受け取って」
言うが早いか、モニカは戸惑いの表情を浮かべているユリスの唇に、瞳を閉じながら自分の唇を重ねた。
刹那、彼が身体を竦みあがらせるのを感じる。見えないけれど、彼がまたしても頬を紅潮させているのが、手に取る様に分かった。
柔らかく温かい感触が、モニカの心を満たしていく。このまま永遠に時が止まればと思った彼女だが、流石にこれ以上至福の時間に浸っている訳にはいかなかった。
モニカは名残惜しくも唇を離し、完全に放心状態になっているユリスと眼を合わせる。そして、精一杯可愛く見える笑顔を作りつつ、口を開いた。
「じゃあね、ユリス……バイバイ」
「お……あ……え……」
ユリスは呂律が回らないながらも何か返事をしようとしたが、彼女はそれを聞かずに彼に背を向け、メンテナンスショップを出た。
その間にも、『時の砂』の輝きはドンドンと強まっていく。モニカはふと足を止め、見納めになるであろうパームブリンクスを見渡した。
(神様……私の願いを……少しでも叶えてくれて、ありがとう)
心の中で呟くと、自然と涙が零れ落ちてくる。彼女は軽くその雫を拭うと、人目に付かない路地裏へと走り、辿り着いた先で静かに眼を閉じた。
――――刹那、モニカの身体は眩い光に包まれる。数秒後にその光が収まると、彼女の姿はパームブリンクスの何処からも消えていた。
モニカは知らなかった。自分がした行為が、歴史を大きく改変させてしまった事を。彼女がそれを知るのは、元の時代……いや、改変された元の時代に戻ってから数日後。
突然、自分の部屋に現れたユリスに抱き締められ、直後深く口付けされながら、こう囁かれた時である。
――苦労したよ、タイムマシンの開発は。でも、絶対に諦めなかった。人のファーストキスをいきなり奪っていった、誰かさんに会いたかったからね。
あとがき
L5アンソロ提出作品その2です。個人的には書いてきた中で、最も女の子らしい弱さを持ったモニカだと思ってます。では。