〜今だからこそ〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君が好きだ」

言った途端、何かが割れてしまう様な音が聞こえた気がした。

それが錯覚なのか、それとも何か直感的なものを通して聞こえた現実なのかは、ボクには分からない。

けれども、これだけは分かった。今、何かが変わってしまった事。何かに何かの力が働き、動かせてしまった事は。

「……っ……」

至近距離――少しだけ手を伸ばせば、簡単に触れる事が可能な距離でボクを見つめる彼女が、軽く唇を噛んだ。

同時に徐々に頭が下がっていき、前髪が彼女の表情を覆い隠す。その中から、微かに彼女の苦しそうな吐息が漏れてくる。

――――それは果たして、ボクの言葉に対してどの様な反応を示した物なのか?

測りかねたボクは、同じ言葉をもう一度口にした。

「君が好きだ」

ビクリと彼女が身体を強張らせる。一度目に比べれば、随分とスムーズに舌が回った。心の方も、平静……とまではいかないが、変にかき乱されたりはしていない。

こういう事に関しては、零と一の間にはとてつもない差が有るのだろう。ボンヤリとそう思ったボクは、此処に来て初めて彼女の名を呼んだ。

「モニカ……好きなんだ、君が」

言いながら、そっと彼女の髪へと手を伸ばす。けれども、指先がその紅い絹に触れようとした瞬間、ようやく彼女が声を発した。

「どうして……?」

涙声だった。

「どうして……今になって言うの?」

顔を上げた彼女は、非難と言うよりかは哀願する様な声色でそう言った。

そこに有った憂いを帯びた瞳には、涙が滲んでいる。それを見た瞬間、ボクは自分がとんでもない重罪人になった気分に襲われた。

息がつまり、声が出なくなる。伸ばしていた手も、無意識の内に引っ込めてしまっていた。そんなボクに、彼女は畳み掛ける様にこう言う。

「もう遅いって、分かってるでしょ? なのに、何で?…………何で!?」

叫んだ彼女が顔を振り被り、その際に飛び散った涙がボクの頬に冷たさを与える。すると、まるでそれが合図だったかの様に、鉛色だった空からポツポツと雨が降り出し始めた。

瞬く間にその雨は勢いを増し、激しい音と共にボクと彼女の身体を濡らしていく。けれども、ボク達はどちらも動く事無く、その場に留まっていた。

「何でなの?……何でなのよ!?」

ずぶ濡れの表情で、彼女はボクを見つめながらそう叫んだ。その彼女の表情に、不謹慎ながら色気を感じてしまったボクは遅れを取る事になる。

刹那の時間、見とれてしまっていたボクが我に返った時、彼女は踵を返して走り出していた。慌てて追いかけようとしたボクだったが、それに気づいた彼女が叫んだ言葉に、思わず足を止めてしまった。

「来ないで!! これ以上、苦しめないで!!」

好きな女の子にこんな事を言われて、ショックを受けない男子なんかいないだろう。

だからボクは降りしきる雨の中、再び伸ばしていた手をそのままに、徐々に遠ざかっていく彼女の背を眺めながら立ち尽くす他に無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モニカの心情は理解していたつもりだった。

彼女なりに一生懸命に考えた、可能な限りボク達二人が共に傷つかない行動だったのだろう、と。

けれども、ボクはそんな彼女の行動を肯定する訳にはいかなかった。

肯定してしまえば……何も言わずに彼女が去って行くのを見送ってしまえば、この先ずっと後悔を抱えて生き続ける事になる。

だから、彼女がボクを公園に呼び出して「お別れの時が来たの」と告げた時、ボクは自分の想いを彼女に告げたのだ。

良い返事は期待していなかった。状況が状況だし、そもそも返事自体、別に聞こうとも思っていなかった。

ただ溜まっていた想いを吐き出したかっただけ…………今、冷静になって考えれば、随分と自分勝手な行動だと他人事の様に思えた。

「……っ……」

降りしきる雨の中、ボクは何気なく空を見上げる。激しい雨が痛みと冷たさを顔に浴びせてくるけれど、それが逆に心地良かった。

不意にボクは、眼が熱くなっていくのを感じる。それが涙が滲んだ事を示すものだと気づいた時、ボクの脳裏にモニカの叫びが蘇った。

――どうして……今になって言うの? もう遅いって、分かってるでしょ? なのに、何で?…………何で!?

その言葉と彼女の声色、そして表情から考えて、ある意味嬉しい返事であり、同時にとても悲しい返事でもあった。

確かに、余りにも遅すぎたのかもしれない。でも、だからこそボクは彼女に言う事が出来た。

もう後が無い状況に陥った時に生じる、ある種の開き直り。それがあったからこそ、ボクは自分の想いを口にする事が出来たのだ。

それが正しい事なのだと、確かに思っていた筈だった。――――しかし、今となっては……。

「間違ったのかな?…………ボクは」

思わず口から零れたその呟きは、雨の音によってかき消される。

後悔。罪悪感。虚無感。絶望。そんな、ありとあらゆる暗い感情が怒涛の勢いで押し寄せてくるのを感じ、とうとうボクの眼から涙が流れ始めた。

久しぶりに、声を上げて泣いてしまいたかった。きっと、それもこの雨の音がかき消してくれると思ったから。

瞳を閉じたボクは、闇一色に染まった世界で全身の力を抜く。正直、もう限界だった。ただ、この潰れそうな気持ちを泣く事によって和らげたい。

どうせ、今此処にいるのはボクだけだ。誰かが邪魔する訳でもない。ならば、楽になろう。そう思って、ギリギリの所で堪えていた涙腺を自らの意志で崩壊させようとした時だった。

突然、全身に降り注いでいた雨の感触が無くなり、雫が布を打つ音が聞こえ出す。驚いたボクが眼を開けると、そこには青い傘が視界一杯に広がっていた。

「風邪をひきますよ」

「っ……ルネか」

濡れた顔を拭った後、ボクはボンヤリと付き合いの長いメイドに眼を向ける。

するとルネは、こちらに差していた青い傘――ボクの傘を差し出し、ボクがそれを手に取ると持っていた自分の傘を差す。

「泣いていらしたのですか?」

「っ……まさか」

図星を突かれたボクは一瞬怯んだが、すぐに取り繕うと苦笑しつつもらった自分の傘の内側を見上げた。

しかし、やはりというかルネは鋭い。苦しそうに眼を伏せると、彼女は徐に口を開いた。

「変なところが大人になりましたね、坊ちゃま。昔はもっと素直で、隠し事も下手でしたのに」

「っ……」

完全にバレていた。どこから見られていたのかは定かでは無いが、もしかしたらずっと前から近くにいて、ボクの呟きも聞かれているのかもしれない。

恥ずかしさと諦めの気持ちに襲われたボクに、再び眼を開けたルネは続けた。

「モニカさん……もうじき、未来に帰られるそうですね」

「……ルネも知ってたの?」

「少し前に話してくださいました。そして、こう仰ってました……『近い内に、ユリスにも言わなきゃ』と。先程……その件を聞かされたのですね?」

「…………うん」

ボクは暫しの間を置いた後、小さく頷いた。

その時のボクの表情から、ルネは何かを読み取ったらしく、酷く辛そうに声を発した。

「告白なさったのですね?」

「……っ……」

これ以上無いくらいに痛い所を突かれ、ボクは反射的にルネから眼を逸らす。

けれども彼女は、そんなボクを咎めようともせずに、昔からの優しい声で「坊ちゃま」とボクに囁いた。

「何?」

「……モニカさんの所に行ってあげてください。仮に言葉でどんなに拒絶していようとも、きっとモニカさんの本心はそう望んでいます」

「っ……そうかな?」

「ええ、きっと。これでも私、モニカさんと親しくさせてもらっていますから。女同士……何となく、分かる事です。ですから……ね? 坊ちゃま」

「……」

まだ心は揺らいだままだったけれど、ボクはルネの言葉に促される様にして顔を上げる。

それを見た彼女は満足そうに微笑むと、いつものメイドらしい畏まった礼と共に口を開いた。

「どうぞ、行ってらっしゃいませ。私は温かいココアをご用意して、お帰りをお待ちしています。勿論、数はお二つで」

「……………ありがとう、ルネ」

先程までの後ろ向きな気持ちは無くなり、ボクの眼から涙は消えていた。

誰かが背中を押してくれる。それが、どんなに心強い事を身に染みて感じながら、ボクはルネに背を向けて走り出した。

行先は、迷う事も無い。彼女――モニカがこの街で一番気に入っている場所だ。

何の根拠も無いけれど、不思議と強い自信がボクには有った。その自信に全てを委ねて、ボクは降りしきる雨の中を駆け抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

未だ振り続ける雨が水面に幾多の波紋を作り、それら一つ一つが一瞬の内に消え、また新たな波紋が生まれていく。

その為に濁り、奥底が見えなくなっている池に掛けられた一本の桟橋。その先端で、膝を抱えて蹲っているモニカを見つけ、ボクは更に足を速めた。

幸いと言って良いのか分からないけど、この激しい雨でボクの足音は殆どかき消されている。だから、顔を伏せた状態のモニカに気づかれずに、ボクは彼女に近づく事が出来た。

そこでボクは、モニカが肩を震わせている事に気づく。身体を丸め、ひたすら雨に打たれ続けているその姿は、まるで幼子の様だった。

かなり年季の入った桟橋を軋ませながら、ボクはゆっくりとモニカの傍へと足を進ませる。

いくら激しい雨とはいえ、そろそろ彼女の泣き声が聞こえてきてもよさそうなものだったが、不思議とそれは聞こえてこなかった。

恐らく、懸命に声を堪えて泣いているのだろう。そう察したボクは、切なさに胸が締め付けられるのを感じながら、尚も歩を進めた。

モニカのすぐ真後ろまで辿り着くと、ボクはそっと彼女の頭上に傘を差す。すると、異変に気付いた彼女が顔を上げ、一拍の間を置いてこちらに振り向いた。

「っ!?……ユリ……!!」

ギョッとした表情を見せたモニカは中腰になり、すぐにボクから視線を外す。けれど、ここに逃げ道が無い事を悟ると、観念した様子で立ち上がった。

「風邪ひくよ」

項垂れ、前髪で顔を隠した状態の彼女に、ボクはルネに言われた言葉を述べた後、力無い笑みと共に続けた。

「君って、何か苦しかったり辛かったりしたら、絶対此処に来るよね。どんな時でも……必ず」

「何それ? まるでストーカーみたいね台詞よ」

「かもね」

拒絶めいたモニカの言葉にも、ボクは少しも怯まなかった。

ここでまた迷いを表面に表してしまえば、今度こそ彼女はボクの傍から離れていってしまうだろう。だからボクは、懸命に恐怖と後ろめたさを押し殺しながら、モニカへと手を伸ばした。

すると、それに気づいたモニカが弾かれた様に顔を上げ、哀願の表情でボクを見る。

――もうやめてよ。これ以上、私の心をかき乱さないでよ。

幻聴か? 或いは本当に彼女が小声で呟いたのか? そんな涙で濡れた声が聞こえた気がした。

けれどもボクは……いや、だからこそボクは、尚も手を伸ばしてモニカの肩に触れる。直後、彼女が身体を強張らせるのを手を通して感じたボクは、素早く彼女を自分の方へと引き寄せた。

急な事にバランスを崩し、ボクへと倒れ掛かったモニカが身を離そうとするよりも先に、ボクは彼女の背中に腕を回す。

傘を差している為、片腕のみの拙い抱擁になってしまったが、モニカはそれを振り払おうとはしなかった。彼女の力から考えて、容易い事なのは明白なのに。

(これが、さっきのボクの告白に対しての答えなんだね?)

反射的にそう聞きたくなったが、寸での所でボクはその言葉を飲み込む。

再び震えだした彼女の身体、そして必死に抑えている嗚咽が、彼女の気持ちを痛いくらいに伝えてきている。

――――それだけで十分だ。欲をかいてはいけない。直接モニカの声で、愛の言葉を聞きたい等とは……。

「ねえ、モニカ?」

暫くして、ボクは彼女に声を掛けた。だけど、返事は期待していない。ただ、聞いてくれればそれで良い。

そう思いながら、ボクは言葉を投げかけた。

「君はこう言ったよね? 『どうして今になって言うの?』って」

「……」

「その通りだと、ボクも思う。でも……でも、格好悪い事だけど、今になったから……今だからこそ言えたんだ」

「……」

「後が無い状況、迷っている時間が無い状況、他に選択肢が無い状況……そう思える、今だからこそ」

「…………ゴメン」

突然、モニカが呟いた。酷く震えた、彼女が本当に悲しんでいる時にしか出さない声で。

「モニカが謝る事はないだろ?」

「……そうね。ううん……そうなのかな?」

「そうだよ。きっと」

「…………ゴメン」

再び謝罪の言葉を口にすると、モニカはギュっとボクのシャツを握りしめた。

そして、か細い声で「本当は……」と呟く。

「すごく嬉しかったんだ。ユリスが私の事、好きって言ってくれて。だからこそ、悲しくて苦しかった」

「っ……モニカ」

「今でも……正直、苦しいよ。でもそれは、何処か心地良い苦しみなの。とても、とても……」

何度も頷きながら、モニカは涙で掠れていく声で懸命に言葉を紡ぐ。

それから暫くして、彼女は「私も、ユリスが好きなの」と言った。それは愛と言うよりも罪の告白の様に、ボクの耳に聞えた。

「前から、言いたくて仕方が無かった。返事はどうだっていい。言って、楽になりたかった。だけど……」

小さく、それでいて激しく頭を左右に動かしながら、モニカは続けた。

「変に記憶に残して欲しくなかった。縛りたくなかった。ユリスに……君にそんな思い、させたくなかったから」

瞬間、ボクの中で何かが弾けた。そっと持っていた傘を手放すと、ボクは両手で彼女を抱きしめる。

一向に衰えない冷たい雨も、少しも苦にならなかった。それを上回る温もりが、全身を満たしていたのだから。

凄い力だと、ボクは思う。これさえあれば、きっと未来も変えられる……普段のボクなら絶対にしない、根拠の無い自信がボクを支配していた。

「モニカ……お別れにはさせないよ」

泣きじゃくり始めた彼女に、ボクは言った。

「いつか、いつか絶対に会いに行くよ。父さんみたいに、許されない事だと納得なんかしない。必ず未来に行く方法を発明して、君に会いに行くよ。だから……」

モニカを抱きしめる両手に一層の力を込めたボクは、自分でも不思議なくらいに堂々と彼女に告げた。

「それまでキスはお預けにしたいんだけど……待っててくれるかな?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――その言葉に返事をする代わりに、モニカは雨の音に負けないくらいの大声で泣いた。溜まっていた蟠りを、全て解放するかの如く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


あとがき

 

この二人にとっては永遠の課題であろう『別れ』のお話でした。

許される事ではないけれど、それでも気持ちは抑えられない。そんな二人を感じて頂ければと思います。では。

 

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