〜遠回り〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いつ来ても、此処は厳かな気持ちにさせられるね」

手にユリの花束を携えたユリスが、隣を歩くモニカに声を掛けた。

「ええ。いつ来ても……感傷的になっちゃうわ」

軽く俯きながら、彼女はそう言う。少し前の頃から髪留めを外し、昔と違ってストレートヘアーにしている紅い髪が靡いていた。

「特に今日は、大事な話をしなくちゃならないんだもの」

「そうだね。だけど、大丈夫。きっと……きっと父さんは喜んでくれるよ」

寂しげに笑ったユリスは、ふと自分達が歩いている場所を見渡す。

――――静かな丘の上、一面に広がる無数の十字架。

そのどれも一つ一つに、この世に二つと無かった命が眠っている。そして今、自分達が向かう先の十字架にもまた……掛け替えのなかった命が眠っているのだ。

随分と遠回りしてしまったと、ユリスは思う。本当ならもっと早く、もっと別の形で事を報告出来た筈なのに。

いくら悔やんでも仕方の無い事だとは分かっている。だが、分かっていても悔まずにはいられなかった。

(親不孝だな、ボクは……本当に……っ)

不意に眼が熱くなり、ユリスは慌てて眼を伏せた。隣を歩くモニカに、涙を見せない様に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ユリスが自分の心に戸惑いを覚え始めたのは、17歳になった頃だった。

この頃、彼はそれまで手伝っていたゼルマイト鉱山洞の発掘作業から解放され、メンテナンスショップの運営に専念していた。

毎日歩いて邸宅から店へと向かい、夕方頃には帰宅して余暇を過ごす。そんなルーチンが出来上がっていた頃である。そんな彼の近くには、相も変わらずモニカの姿があった。

――――もう彼女が居る理由は皆無だと言うのに、何故まだ彼女はこの時代に居るのだろう? 元の時代に戻らなくていいのだろうか?

「別に、ずっとこっちに居てる訳じゃないもの」

いつだったかユリスが訊ねた時、モニカは笑ってそう答えた。

「ちゃんと、時々は戻ってるし、大丈夫よ。それに、私この時代が気に入っちゃったのよね。という訳で、これからもよろしく、ユリス!」

そう言って差し出された手。初めて出会った時を思い出す事だ。あの時も、こうして手を差し出された。そして自分もまた手を差し出し、戸惑いながらも握手を交わした。

けれどもこの時、ユリスはモニカの手を取る事が出来なかった。昔と同じ様にする事が出来なかった。ただ、苦笑交じりに「わかったよ」と言うだけで彼女に背を向けてしまった。

そして同時に、ハッキリと自覚した。自分の心の中に有る、これまでは無かった戸惑い。

――――モニカが傍にいると苦しい。

突然自分を襲ってきたこの感情が、それからの日々、ユリスを苛ませていた。

これまでは何とも無かったのに、彼女から挨拶されるだけで、軽く触れられるだけで、笑顔を見るだけで胸が締め付けられる。

なのに、逃げ出したいとも思えない。苦しいけれど、時が過ぎて元に戻れば、その苦しさが恋しくなる。

上手く説明できないこの気持ちを、ユリスは誰にも知られたくなかった。もし知られれば、説明をしなければならなくなる。そうなったら、言葉を濁すしかない。

彼にとって、それはあまり恰好の良い事では無かった。だから、彼は無意識の内に他人と距離を保つ様にし始めた。無論、原因であるモニカは殊更に。

朝、ユリスは早くに起きて急いで身支度を澄ます。モニカと顔を合わせるのは、出掛ける時の僅かでしかない。だが、その僅かな時間でさえも彼は苦しみを感じていた。

室内用の気楽な服を着た彼女が、欠伸交じりに「おはよう」と言う。それに対して、彼は眼を合わせずに「おはよう」と返す事しか出来ない。

そして邸宅を出て、決まって苦しみに襲われる。――――何故、昔の様に真っ直ぐにモニカの顔を見れないのか、と。

このままではいけないと思いつつ、帰宅して彼女を鉢合わせればまた似た様な態度をとってしまう。そして、複雑な感情に襲われ、暫しそれを反芻する。

終りの見えない、そんな繰り返し。辛酸であり甘美でもあるそんな繰り返しが、延々と続いていた。

勿論、ユリスがこの感情を『恋』と認識する事は無かった。そしてまた、彼にその事を教える……教えられる事の出来た者もいなかった。

せめて彼が、誰かにこの事を相談していたのなら、もっと違う未来が有ったのかもしれない。

――――しなくてもいい……いや、するべきでは無かった遠回り。決して取り戻す事の出来ない空虚な時間。

その入り口が待っていたのは、ユリスが18歳になってすぐの事だった。

 

 

 

 

 

 

 

「っ!」

不意に眼元に柔らかな指先が有り、それに気づいたユリスは驚いて顔を上げた。

「泣いてたでしょ?」

直後、少しばかり意地悪さが含まれたモニカの声が耳を打つ。ユリスは無意識に苦笑いを浮かべると、彼女の方を向きながら頷いた。

「ちょっとね……後悔の念が浮かんだ」

「きちんと私を紹介できなかった事?」

「うん」

モニカの問いにユリスは再度頷くと、徐に空を見上げる。

彼のモヤモヤとした気持ちとは正反対の、清々しい青空がそこに広がっていた。

「本当、儚い物だよな。命って」

 

 

 

 

 

 

 

 

――ジラードが体調を崩した。ここじゃ身体に堪えるだろうから、迎えにきてやってくれ。

ヘイム・ラダのボルネオからこの知らせを聞いた時、ユリスは特に取り乱す事も無かった。

単に風邪を拗らせたのだろうと思い、年齢の事で軽く嫌味でも言ってやろうかと考えながらヘイム・ラダへと足を運んだ。

しかし、いざ父親と対面してその顔色を見た時、直感で理解してしまった。――――これはただの風邪では無い、と。

ベッドに横たわり、忙しなく呼吸を繰り返すジラードの顔色は恐怖を覚えるくらいに青く、大量に発汗しているのに身体が氷の様に冷たい。明らかに重症だと、素人目でも分かる容態だった。

それでもユリスは表面上、努めて冷静に振る舞って父親をパームブリンクスまで運び、すぐに医師のダックに診せた。

――――とにかく、医師に診てもらえば大丈夫だろう。

そんな安心感が、ユリスを何とか落ち着かせていたのだ。だが、実際は違った。何度検査してもダックは首を捻るばかりで、まともな診断を下す事は出来なかった。

長年医師を勤めてきた彼でさえ初めて見る症状らしく、申し訳程度に解熱剤を処方するという形で終わってしまい、後は安静にして回復を待つという、あまりにも単純な診断結果が下された。

当然、そんな診断で納得出来たユリスではなかったが、心底悔んでいる様子のダックを責める事は出来ず、膨れ上がった不安と共にジラードを邸宅へと背負っていった。

「全く……数年ぶりの帰宅が……こんな形とはな……無様なものだ……」

玄関を前にしてそう言ったジラードの顔を、ユリスは今でもハッキリと覚えている。そして、その後に暫し続いた会話の内容も。

「きっと疲れが溜まってたんだよ、父さんは。良い機会だから、ゆっくり休んで。ボクも久々に親孝行にでも興じようかなと思ってたから」

「フ、完全に……年寄り扱いだな。だが…………ありがとうと言っておこう……」

「……病気になると弱気になるって本当だね。父さんの口から『ありがとう』なんて言葉が出てくるなんて」

「…………そうだな。思えば……お前にまともな……礼を言った覚えは……皆無だな……」

「元から期待してなかったから、変に自分を責めないでいいよ。余計に身体に障るだけ」

「フフ……お前にこうも……気遣われるとはな……私も……もう年だな、やはり……」

「っ、ほら! 変な感傷に浸ってないで、部屋に行くよ。出来るだけ揺らさない様にはするけど、少しは我慢してね」

「…………ユリス………」

「何?」

「彼女と……モニカとは……どう……なっている?」

「っ!……何だよ、急に? 別にどうもないよ。ほら! 苦しんだから何も喋らないでいなよ」

「……大切に…………するんだぞ」

「……ちょっと、父さん?」

「くれぐれも……私と……エイナの……」

「はいはい、そこまで! もう部屋に着いたよ。今日はもう寝る事! 何だかよく分からないけど、話なら元気になってから聞いてあげるよ。だから早く治す事! 分かった、父さん?」

「…………ああ…………」

数年ぶりに昔のベッドに潜り込んだジラードは、か細くそう呟くと、ユリスに向けて苦しそうに笑って見せた。その笑顔に、ユリスはどうしようもない痛みと不安に襲われた。

――――父親に笑顔を向けられたのは、果たして何年振りか? 正直に言えば、覚えてる限りでは初めてな気がしてならない。

だからこそ、彼は落ち着かなかった。理由は分からない。いや、違う。分かってはいるが本能がそれだと決めるのを避けていた。

故にユリスが出来た事は、ぶっきらぼうに「お休み」と言いながら、ジラードの身体を軽く摩る事だけだったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

それから一か月後に、ジラードは亡くなった。

あまりにも呆気ない死去に、ユリスは悲しみの感情を抱く前に途方も無い虚無感に襲われた。

死因は言うまでもなく、例の病。解熱剤を処方しても、一向に熱が下がらずに苦しむ日々が続いたかと思うと、ある日を境に今度は不気味なくらいに身体が冷えていき、昏々と眠る日々が続いていた。

そして、そのまま彼は息を引き取った。最期の顔は物語の件(くだり)で良く有る様な安らかなものではなく、さりとて病の苦しみで歪んでしまった様な顔でも無く、酷く無表情なものだった。

通夜や葬儀の間、ユリスは自分が何をし、何を喋っていたのか良く覚えていない。まるで仕事をするかの様に淡々と手続きを済ませ、形式的な作法をこなしていき、ふと気づけば何もかもが終わっていた。

彼が父の死をようやく実感したのは、それからである。彼の日課に、ジラードの墓へ参拝するという項目が新たに加わった。

夕暮れ時に墓へと参り、眼前の十字架に祈りを捧げる。特に話す事は無い。ただ、自分とは違う世界に行ってしまった父の安らぎを願うだけだ。

そんなユリスの傍には、決まってモニカの姿が有った。彼女も彼と同じく、毎日ジラードに向けて熱心に祈りを捧げていた。

実の所、モニカの方がジラードの死を悲しんだのではないかと、ユリスは思う。単なる性格の違いかもしれないが、葬儀が終わる時までずっとて泣きじゃくっていたモニカに、ユリスは妙な羨ましさを感じていた。

そして同時に、父との最期の会話が蘇る。彼は、モニカを大切にしろと言っていた。

――――果たしてそれは、『どんな風に』大切にしろという意味なのだろう?

疑問がユリスの頭に生まれ、一向に消える気配は無かったが、彼は深く考える事はしなかった。

とにかく今は考えるよりも動き、悩むのを避ける。そうすれば、やがて時間が何もかも忘れさせてくれるだろうと思ったのだ。

けれども、それが間違いであったのだと、ユリスはすぐに気づかされる事になる。

 

 

 

 

 

 

 

それは、父の死から一ヶ月の時が経った日だった。

この日もユリスは、モニカと一緒にジラードの参拝にやってきていた。けれども、この日はいつもと少しだけ違っていた。理由は、この日が二人にとって、ある特別な意味を持つ日だったからである。

「今日で、もう五年か。早いなあ、時が経つのって」

「……そうだね。初めて会った日から、もうそんなに時間が流れてるんだ」

祈りを捧げ終わった二人は、一日の役目を終えて沈みゆく夕日を眺めながら言葉を交わす。そして一頻り、思い出話に花を咲かせた。

最近の二人にとっては、非常に珍しい事だった。裏を返せば、この日がそれだけ特別だという証明でもある。

――――アトラミリアを巡る、世界……そして時代をも巻き込んだ壮絶な戦い。その始まりの一つとも言える、自分達の出会い。

今でもハッキリと覚えているあの日から、既に五年。言い換えるなら、モニカと出会ってから五年が流れている。

それを再確認したユリスの心が、不意にズシリと重くなった。彼は思う。果たしてその五年の内、自分とモニカが本当の意味で近くにいたのはどれくらいだったのか、と。

そして、そんな彼に追い打ちをかける様に、モニカがポツリと呟いた。

「だけど、今の私達は……あの頃よりも遠いわよね、距離が」

「っ……そう、かな?」

「そうよ」

無意識に上擦ってしまったユリスの言葉に、彼女は即答する。その声には、僅かながら怒りと悲しみが含まれている様に、ユリスは感じた。

「こんな風に二人で会話する事自体、いつからか無くなってたでしょ?」

「……うん」

「君は私を避けてた。ずっとずっと……」

「そんな……つもりは……」

「避けてたでしょ?」

「…………うん」

問い詰められた彼は、俯いて表情を隠しながらモニカに頷く。すると彼女は暫くの沈黙の後、何処か苛立たしそうに再度口を開いた。

「ねえ、ユリス。私、何か君に嫌われる様な事をしたの? 怒らせる様な事をしたの?」

「まさか」

反射的に彼は顔を上げ、モニカを見つめながら首を横に振る。

同時にモニカがとんでもない勘違いをしているのを察し、どうにかその誤解を解こうと思案するが、それが纏まるよりも先に彼女がせつなそうに顔を顰めて叫んだ。

「なら!」

その迫力に、ユリスはたじろいで軽く身を退く。するとモニカはハッとした仕草を見せ、数回頭を振ると今度はか細い声で呟く様に言った。

「なら……なんで避けてたのよ?」

「それは……」

――――恥ずかしかったから。

ハッキリとそう言えれば、どんなに楽だろう。いつからか自覚し始めていた彼女への想いを、婉曲的にでも伝えられたのなら、どれだけ良いだろう。

けれどもユリスは、まだ自分の心を持て余し続けていた。それが結局、彼に曖昧な態度を作らせる。何度か苦しそうに嘆息した彼は、やがて重々しく口を開いた。

「ボク自身も、良く分からない」

「…………そう」

モニカが失望の溜息をついた。そして徐に踵を返すと、事も無げに言う。

「私さ、もうこの時代には来れなくなるの」

「えっ?」

思ってもみなかった言葉に、ユリスは眼を見開いてモニカの背中を凝視する。

彼女ならば、当然その視線に気づいた筈だ。しかし彼女は微塵も振り返る事無く、言葉を続けた。

「もう私も二十歳になるし、あんまり自由にしてられないの。これでも王女だから、色々と政務もしていかなきゃならなくなるしね。だから、もう暫くしたらこっちとの行き来は止めるつもり」

「そう……なんだ」

「……それだけ?」

呟きながら、モニカが振り返った。

反射的にユリスは、彼女から眼を逸らす。心に突き刺さるのは言葉だけで十分だった。その上、視線まで受け止められる程、彼の器は大きくない。

「どういう、意味?」

「どういう意味って……他に何か言う事が無いの?」

――――少しだけ焦れたモニカの声。それが物語る彼女の本心。

分かったからこそ、凄く嬉しかった。出来る事なら、それに応えたかった。けれども結局ユリスの口から出たのは、当たり障りの無い言葉だった。

「……色々頑張ってね。モニカが幸せになるのを、祈ってるよ」

「っ……ありがとう」

微塵も嬉しくなさそうに礼を言いながら、モニカは再度踵を返すと「先に戻ってるわよ」と邸宅へと歩き出す。

その背中が見えなくなるまで、ユリスはその場に立ち尽くす。やがて彼女が完全に視界から消えると、ユリスは重い心を抱えたまま重い足取りで自宅へと歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

「何、ユリス?」

「えっ? あ……ゴメン」

いつの間にか、モニカの顔をジロジロと見てしまっていたらしい。ユリスはハッと我に返ると、彼女に謝罪をしつつ照れ隠しに頬を指先で掻く。

「ちょっとね、昔を思い出したんだ」

「昔? それって、いつ?」

「……それは言えないな」

苦笑交じりにユリスが答えると、モニカは「ああ」と手を打った。

「もしかして、私がお別れを言った時?」

「っ……随分と鋭くなったね、モニカ」

ユリスが観念した様にモニカの言葉を肯定すると、彼女は嬉しそうに眼を細めた。

「まあ、今更責めないけど……その時にちゃんと言ってくれてたらなあ。もっと早く一緒になれたかもしれないのに」

「……ゴメン」

「いいわよ。責めてないって言ったでしょ? それに謝罪なら、あの時にちゃんと言ってくれたし」

 

 

 

 

 

 

 

宣言通り、モニカは数日後に未来へと戻っていった。

いつもの様に身軽な状態ではなく、しっかりと自分の荷物を携えた状態で、彼女はパームブリンクスの皆に見送られ、光の中に消えていった。

ユリスは最後の最後まで、彼女に何も言う事が出来なかった。諦めた訳では無い。吹っ切れた訳でも無い。ただ、自らの心を曝け出せなかったのだ。

彼は皆に紛れて、見納めになるであろうモニカの姿を見送った。その刹那に視線がぶつかった気もしたが、気のせいだと彼は片づけた。

そしてユリスは、モニカのいない日々を過ごし始める。尤も、表面上は大して変化はない。朝に店を開き、夕方に邸宅へと戻る。その繰り返しだ。

最初の頃こそ、時折居る筈の無い彼女の姿を探す真似をしていたが、それも一年の時が過ぎると自然にやめていた。

それからまた一年、二年と変わり映えの無い日々が過ぎる。決して幸福では無かったが、さりとて不幸とも呼べない期間。

少なくとも、この時のユリスはそう思っていた。だから、それが単なる強がりだったと知るのは、大分先の事となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

――――ユリスが病に襲われたのは、彼が二十三歳になる数か月前だった。

原因は不明である。ある日突然に、彼は尋常では無いくらいの高熱に倒れたのだ。

身体中が燃えるくらいに熱く、それとは正反対に身体の芯は凍えてしまうくらいに寒く感じる。そう、それは奇しくも父ジラードを死に追いやったものとよく似た病だった。

この時のユリスは意識が朦朧としていた為、殆ど記憶を残していない。ただボンヤリとした中で、自分も父親と同じ様に死んでいくのかと半ば諦念めいた気持ちを抱えていた事だけは、ハッキリと覚えていた。

しかし半年後、彼を蝕んでいた熱は急速に消え去っていき、同時の芯の部分には温もりが蘇ってきた。完治するにはまだまだ時間が掛かったが、それでも死を免れる事は出来たのだ。

要因はダックである。ジラードが病に侵された時、初めての病に何の力にもなれなかった彼は、密かに独自であの病の研究を続けていたのだ。

そして、ようやく出来上がった薬。それがユリスを救ったのである。

「せめてもの償いじゃよ。気にしなくて良い」

ユリスが何度も礼を言う度に、ダックはそう言って嬉しそうに……しかし、何処か寂しそうに笑う事を繰り返した。

――――更に数か月後。

ユリスが丁度二十三回目の誕生日を迎えた頃、彼はようやく自力で動ける程度に回復した。

回復したと言っても、かつての様な健全な状態には程遠い。少しでも激しく身体を動かせば途端に熱が急上昇し、無理をすればすぐに寒気に襲われた。

ダックの薬はあれから定期的に服用しているが、未だ完治には至らない。それでも僅かずつだが良くなっているのを実感できた為、彼はあまり悲観的にはならなかった。

メンテナンスショップの方は、まだ閉店したままの方が良いと周りに勧められ、再開の目処は立たなかった。とにかく病気を治すのが先だと、会う人会う人が口を揃えてユリスにそう助言していた。

彼はその助言に素直に従い、長い療養生活を過ごしていた。規則正しい生活を強いられたものの、不思議と窮屈さは感じられなかった。

ただ、まだ病が治っていない事が原因か、妙な孤独感に襲われる事が度々有った。すぐに消えるとはいえ、その際にはどうしようもない寂しさで胸が苦しくなる。

そんな時に思い出すのは、決まってモニカだった。彼女を想う気持ちは、病で倒れたのを境に恥ずかしさが取り外され、率直に彼の中を満たしていた。

余りにも遅すぎたのは分かっている。それでもユリスは時折、特に眠りに就く前にそっと窓の外へと手を伸ばし、モニカを想う事が多くなった。

――今頃、どうしているんだろう? もう誰かと結婚して、国を治めているのだろうか?

そう考えて、悲しくならなかったと言えば嘘になる。けれども、嫉妬や憎しみに至る事は無い。

もう会えないのならば、せめて彼女の幸せを願いたい。それが自分に出来る、せめてもの事だとユリスは考えたのだ。

だから彼は、伸ばした手を戻して瞼を閉じる時、決まって心の中でこう呟く。

――お休み、モニカ。どうか、明日も幸せに……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから幾許かの月日が流れた頃、ユリスは久しぶりに高熱に襲われた。

ダックの薬で大事には至らなかったものの、その日はかつての様にベッドに縛り付けられる羽目になってしまった。しかも下手に意識がハッキリしている分、あの時よりも余計に辛いものがあった。

水と簡単な栄養スープを摂取するのみで、夜までの時間が過ぎていく。そして丁度日付が変わろうしている時刻になって、ようやく彼は熱から解放された。

すると今度は、自身が掻いた大量の汗を不快に感じた。ベッドのシーツや着ていた服は何度か変えてもらったが、それでも全身がベタ付いているのは気持ち悪い。

ユリスは徐にベッドから身を起こすと、何処かフワフワした感覚のまま浴室へと向かった。

少しだけ冷たくしたシャワーを浴び、身体を清める。それが終わった後に冷水を一杯飲み干すと、随分と気持ちが良くなった。

だが、皮肉な事に眠気までもが消えてしまい、ユリスは暫しガランとしたエントランスで時間をつぶす事にした。

階段に腰掛け、輝きを失っているシャンデリアを見上げる。そして、ふと初めてモニカがこの邸宅に足を踏み入れた時の事を思い出した。

――へえ、随分と豪華なシャンデリアね。お城に有るのと良い勝負よ。

彼女の声が耳に蘇り、懐かしさにユリスの頬が緩む。だが、それはほんの刹那の事。すぐに懐かしさは虚しさと寂しさに変わり、彼は大袈裟に頭を振ると溜息と共に立ち上がった。

「……部屋に戻ろう。眠くなくても、ベッドに転がってたら、その内に眠れるさ」

自分に言い聞かせる様にそう呟くと、ユリスは俯きながら自室へと戻る。程無く自室へと辿りついた彼は、慣れた手付きでドアを開けようとした。

けれども、ふと違和感を覚えてノブを回しかけていた手を止める。

(あれ?)

僅かだが、風の音と木々が揺れる音が聞こえてきていた。確か出る時は、窓を閉めていた筈である。

まさか泥棒でも入ったかと一瞬考えたが、自室の外に侵入できる様な場が無い事を思い出し、ユリスはすぐにその考えを取り払う。

――――しかし、だとすれば一体どういう事なのだろうか?

不思議に思ったユリスは暫くドアノブに手を掛けたまま動きを止めていたが、やがて意を決して徐にノブを回した。

小さな音と共にノブが回り、彼は少しずつドアを開いていく。そして視界に飛び込んできた『ある物』に思わず眼を見開き、声に成らぬ声で叫んだ。

「っ!?」

誰かが窓際に立ち、こちらに背を向けて夜空を眺めている。仄かな月明かりの中で、長い紅髪が風に靡いて気持ちよさそうに揺れていた。

見間違える筈もなかった。いや、そんな風に疑う事もしなかった。ユリスは何かに突き動かされる様に部屋へ入ると、高鳴る鼓動を持て余しつつ華奢な背中に向けて言った。

「何……で……?」

彼女の名を呼ぶよりも先に、まず口からでたのはそんな率直な疑問の言葉だった。言い終えてから、彼女が気分を害してしまったのではという不安に、ユリスは駆られる。

しかし、それは杞憂に終わった。彼女はゆっくりと振り向き、そして静かに微笑む。かつての少女の顔ではなく、上品な色香を纏った女性の顔がそこには有った。

「心配になっちゃったんだ」

声の方は、あの頃とまるで変わっていない。耳触りの良い、澄んだ声。

ユリスは今すぐにでも彼女を抱きしめたい衝動に駆られたが、その想いに反して身体は微動だにしなかった。

恐らく、余りに想定外の事に四肢を動かす神経が麻痺しているのだろう。だから彼は、何とか動く口で彼女に問う。

「どういう意味?」

「あっちでね、見つけたの。稀代の発明家ユリスが病に侵されて、長い長い闘病生活を送ったって記録が。それで私……いてもたってもいられなくなって」

「でも……王女としての務めは?」

「っ……母上から、直々にお役御免の言葉を頂いたわ。母上が再婚して、もうすぐ子供が生まれるの。レイブラントは、その子が継ぐの。だから今の私は、何の後ろ盾も無い身」

そこで言葉を切ると、彼女は笑みを消してユリスを見つめた。その瞳には、ハッキリと憂いの色が有る。それが何を指し示しているのかを、彼は容易に察する事が出来た。

彼は彼女に近づきながら、徐に言う。

「此処に、いてくれるの?」

すると、彼女は大きく頷いた。

「君が……構わないって言ってくれるなら。私は……君の傍にいてあげたい。ううん、傍にいたいの」

ここまでが限界だった。ユリスは勢いよく彼女の背中に両手を回して引き寄せ、無我夢中で抱きしめた。

泣くのは格好悪いと思ったが、涙が止まらない。愛しさと申し訳なさが募り、彼の心を締め付ける。

「ゴメン!……本当にゴメン!……ボクが、臆病なばっかりに、こんな……こんなに遅く……!」

「いいの……いいのよ、ユリス。ほら、『終わり良ければ全て良し』って言葉が有るじゃない。ね?」

おどけた様子で彼女が言ったが、その声にはやはり涙が含まれていた。ユリスは尚更強く彼女を抱きしめると、もう心の中でしか呟くことは無いだろうと思っていた彼女の名を呟いた。

「モニカ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと気が付くと、太陽は夕日となって沈みかけていた。

空の彼方がオレンジ色に染まり、穏やかな光が無数に有る墓を照らす。まるで、死者に安らかな眠りを与えるかの様に。

「もう、こんな時間か」

「本当。不思議ね、お祈りしてると時間ってこんなに早く過ぎちゃうんだ」

ユリスとモニカは、暫く赤々と燃えている夕日を眺める。命の灯。何がどうとは言えないが、そんな風に二人は思った。

「綺麗ね」

「うん。こんな綺麗な物を、モニカと一緒に見る事が出来て幸せだよ」

「ちょ!?……何よ、急に」

不意打ちの気障な台詞に、モニカの顔が夕日に負けないくらいに赤くなる。

そんな少女の様な彼女の反応に、ユリスは堪えきれずに笑みを零した。

「はは、ゴメンゴメン。ふと思った事をつい、ね」

「っ……バカ。それより、ほら! まだジラードさんに報告してないでしょ?」

「……そうだね」

照れ隠しに話題を変えたモニカの言葉に、ユリスは素直に従う。

彼はジラードが眠る墓へと振り返ると、その前に跪きながら口を開いた。

「父さん。随分と時間が掛かってしまったけれど……ボクは、モニカと結婚します」

ユリスがそう言った途端、不意に強い風が霊園を吹き抜けた。それに何かを促されたかの様に、モニカも彼の隣に跪き、眼前の墓に頭を下げる。

「多分、父さんが生きてボクの傍に居たなら、『要領が悪すぎるから、こんなに遅くなったんだ』とか小言を言ってただろうね。それはボクも、その通りだと思う。余りにも、遠回りしてしまった」

そこで一旦言葉を切り、ユリスは眼を伏せる。そして再び眼を開くと、隣にいるモニカを一瞥してから続けた。

「だけど今、こうして彼女は此処に居る。この上無い幸運を、ボクは掴む事が出来た。もう手放しはしない。ボクは、ずっとずっとモニカと一緒に生きていきます。

そう、あの時……最期に会話した時に、父さんがボクに忠告してくれた事を、ボクは決して忘れません。ボク達は父さんと母さんみたいな結末には、決してなりません。だから…………」

 

 

 

 

 

 

 

 

――――だからどうか、天国で見ていてください。きっとボク達は、幸せになります。

言いながらユリスが頭を下げた時、一筋の雫が墓の底面を濡らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


あとがき

 

またしても『別れ』がテーマな、ユリモニ話でした。いやあ、本当この二人だとこればっかり書いてる気がします(汗)

元々は『モニカとの結婚をジラードへ報告するユリス』というのを主軸に書こうと思っていたのですが、どういう訳かこんな結果に。

話の都合上、原作では生存しているジラードが死んでしまう始末。いや本当、彼のファン(いますよね?)方どうもスイマセンでした。では。

 

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