〜呪縛的なキス〜

 

 

 

 

 

 

 

 

唇に何かが当たった瞬間、ボクの身体は思いきり後方へと飛退いていた。ボクの頭が“何が当たったのか?”という疑問に答えを導き出すよりも先に。

ほんの一瞬だったから、感触なんて全然分からない。けれど、その直前に“モニカがいきなり顔を近づけてきた”という事実が、ボクを激しく動揺させていた。

無様に尻餅をつき、ボクは声も出せずにモニカを見上げる。すると彼女は、可笑しそうに笑みを零しつつ言った。

「どうしたの、ユリス?」

「ど、どうしたのって! い、今……!」

咄嗟に出した自分の声は、呆れるくらいに上擦っていた。

 

 

 

 

――――キス。

自分にはまだ縁遠いものだと思っていた行為。それを唐突にされた今、ボクの頭は滅茶苦茶に混乱し、身体は急激に熱を帯びていっていた。

予兆は無かった。多分、間違ってないと思う。

モニカと二人で買い物に出掛けた際の、帰り道。少しばかり寄り道をした為、空に浮かぶ月が輝きを帯びる時刻になっていた。

そして、人影が殆どなくなった橋の上。不意に名前を呼ばれ、振り向くと眼に映ったのは、今まで見た事が無かった至近距離での彼女の顔。

予想だにしてなかった事に虚を突かれ、ボクが眼を瞬かせた時、唇に柔らかい感触があった。

キスされたのだと頭が判断を下すよりも先に、身体が反射行動を取り、ボクは今の状況に至る。

これから先、何をどうするべきなのか、全く分からない。いや、そんな事を考える力が、今のボクには無い。

少々不適切な例えかもしれないが、酷い風邪を患った時と同じ感じだ。熱に浮かされ、何かを考える気力も、何かしようとする体力も奪われる。

ただ、唯一にして最大の違いは、不快感が無い事。代わりに感じるのは、苦しい程の恥ずかしさだった。

「ちょっとユリス、いつまでそうしてる気?」

モニカが呆れたように溜息をつき、ボクに向かって手を差し伸べる。

けれど、今のボクにその手を取るという行為はとても出来ない。普段は何気なく触れていた彼女の手が、今はまるで女神の手のように思えたから。

すると、痺れを切らしたモニカが強引にボクの手を掴んだ。刹那、ボクの口から意味不明な言葉が飛び出る。

「うへあっ!?」

「ちょ、ちょっと! 変な声出さないでよ! ほら、ちゃんと立って! 早く帰らないと、夕食に間に合わないわよ?」

「う、うん」

モニカに促されてボクが立ち上がると、彼女はスッと手を離し、何事も無かったように先を歩き出す。

その様子は、全くもって普段の彼女で、ボクは困惑する。

――ひょっとして、キスされたと思っただけで、本当はされてなかったのか?

自然とそんな疑問が浮かんだが、ボクはすぐにそれを否定した。

理由はたった一つ。ボクの唇には、確かにモニカの唇の感触が残っていたのだから。

 

 

 

 

この出来事があって以降、ボクとモニカとの間に、特別な何かが起こったりはしていない。

ボクは毎日メンテナンスショップへ出掛け、彼女は毎日遊んだり街の外へと飛び出したり、時には家でルネ達と談笑したりして過ごしていた。

今まで通りに時間が流れ、今まで通りに生活を送るボク達。まるで、あの出来事が無かったかの様に。

――――だけど、たった一つだけ、変わってしまった事があった。それは……。

「……何よ、ユリス?」

「へっ?」

「だから何よ? 人の事ジロジロ見て」

「っ!? あ、いや、その……ゴメン」

ボクは謝罪の言葉を口にしつつ、慌ててモニカから眼を逸らした。

――……まただよ、もう。

そう心の中で呟くと、ボクは恥ずかしくなって指先で頬を掻く。

最近、少しでも気を抜くと決まってモニカを眺めている自分がいた。

理由は……認めたくないが分かっている。あのキスの事を、ボクは全然忘れられないのだ。

一瞬だったが、凄く柔らかくて温かった唇。その感触が、未だ鮮明な記憶となってボクの中に留まっている。

だから、ついついモニカが近くにいると、どうしても彼女の唇に眼がいってしまうのだ。

いや、唇だけじゃない。整った顔立ちや長い髪……不埒だとは思うけれど、丸みを帯びた身体にまで、視線を彷徨わせてしまうようになっていた。

そして実感する。モニカは女の子……それも、相当に恵まれた美貌を持っている女の子だという事を。

勿論、そんな事は前から分かっていた。だけど、あのキス以来、ボクはそれを強く意識してしまっている。

まるで、あのキスに何かのおまじないでもあったかのように……ずっと。

「ちょっと、ユリス!」

「うあっ!?」

いきなり大声を出され、ボクは我に返る。

咄嗟に何かを言おうとしたが、それよりも早く彼女が苛立った声で言った。

「本当に何なのよ!? 私の顔を見てたかと思えば、観察するみたいに私の身体眺めて! 何か変な所でもあるの!?」

「あ、ある訳無いだろ! 君の身体に変な所なんて!!」

反射的にそう叫んでしまった後、何気に自分が凄い事を言っているのに気づき、ボクは小さく「あ」と呟く。

でも、幸か不幸かモニカはそんなボクの呟きが聞こえなかったようで、勢いよく立ちあがると両手に腰を当てて口を開いた。

「じゃあ説明してよね! ハッキリ言って、ここ最近ずっとなんだから! 君が私をジロジロ見てるのは!」

「だ、だからそれは……っ……」

キスされた時の光景が蘇り、ボクは黙りこんでしまう。そんなボクに、モニカは強い口調で訊ねた。

「それは? 何よ?」

「えっと……その……つ、つまり……」

「あ〜もうっ! じれったい! 男の子なんだから、ハッキリ言いなさいよね!」

「っ……うるさいな! 何でもないよ!!」

売り言葉に買い言葉でそう叫ぶと、ボクは足早にその場を立ち去り、自分の部屋へと向かう。

背中越しにモニカの甲高い声が飛び続けていたが、怒りで沸騰している今の状態では耳に入らなかった。

「流石に……マズかったよな、さっきのは。後でモニカに謝っておこう」

自室に戻り、少しだけ冷静になってそう独りごちた途端、急激な眠気に襲われた。

それに抗う力も気も無かったボクは、すぐに眠りに落ちていった。

 

 

 

 

ふと眼が覚めたボクは、誰かに身体を揺さぶられている事に気づく。

だけど、まだ眠っていたかったボクは、少し呻き声を出しただけで、眼を開ける事はしなかった。

すると当然、身体を揺さぶられる力が段々と強くなっていく。そして暫くすると、聞き慣れた声がボクの耳に聞こえた。

「ほら、ユリス。起きなさいよ」

「ん……モニカ……?……っ!?」

思いもよらぬ展開に、ボクの眠気は一瞬の内に吹っ飛んでしまった。

勢いよく上半身を起こしたボクは、呆れ顔のモニカに上擦った声で抗議する。

「な、何でモニカがボクの部屋にいるんだよ!?」

「何でって、起こしに来たのよ。決まってるじゃない」

「だから、何で君がボクを起こしに来るの!?」

「だって君がずっと寝たまま部屋から出てこないだもん。もう夕食の時間、とっくに過ぎてるよ」

「え、ええっ!?」

慌てて時計を見ると、もう既に日付が変わる時刻に差し掛かろうとしていた。

自分ではほんの少しだけ休んでいたつもりだったのだが、実際は数時間も眠っていた事になる。

「ほ、本当だ……完全に寝過ぎたな、ボク」

「そういう事。で、さっきまでルネが、君の分の夕食を残したまま頑張って起きてたんだけど、眠そうにしてたから私が代わったのよ」

「ルネから頼まれたの?」

「何で、そうなる訳? 私が自主的に代わったのよ!」

憤慨した様子で腰に両手を当てながら、モニカは膨れっ面をした。

「ルネには日頃からお世話になってるし、たまにはお手伝いしようかなって。だけど、君が全っ然起きてこないから、こうして起こしに来たのよ」

「……そうだったんだ。ゴメン、モニカ。迷惑かけたね。それと、ありがとう」

ボクがお詫びとお礼を言うと、彼女は照れを含んだ笑みを浮かべる。

「どういたしまして。ま、明日になったらルネにも言っといた方が良いわよ。それで、夕食はどうするの?」

「そうだな。やっぱり、食べとくよ。正直、今日はもう眠れそうにないし」

「もう、早くに寝ちゃって夜に眠れないなんて、赤ちゃんと同じね、本当」

悪戯っぽい笑顔に変わったモニカが、前屈みになってボクを覗き込んできた。

間近に迫ったその綺麗な顔に、ボクの脳裏にまたあのキスの記憶が過ぎる。同時に、意識が彼女の唇へ集中していく。

それは時間にすれば一秒と満たぬ僅かな時間だった。けれども、その刹那の間に、ボクは自分でも信じられない行動に出ていた。

何故、そんな事をしようと思ったのかは、全然分からない。その事を考える頃には、既にボクは行動に移っていたのだから。

――――そう。気づいた時、ボクは自分からモニカに唇を寄せていた。

 

 

 

 

「ゴ、ゴメン!!」

我に返った瞬間、ボクは大声で謝りながらモニカから身を離した。

その際にバランスを崩して後頭部を壁にぶつけるが、その痛みを感じてる余裕は無かった。

自分がした行為の重大さに、ボクは慌てふためく。彼女が無反応なのが、更に困惑を誘った。

「い、今のは、その……えっと……あの……!」

「……あの時の仕返し?」

モニカが小さくそう呟き、ボクを見る。

「へ?……っ!?……や、やっぱり君、あの時ボクに……!!」

「ええ、したわよ。キス」

「し、したわよって! なんだって、あんな……」

「理由なんて、一つしか無いでしょ?」

ベッドに両手をつき、ボクに覆い被さるようにしながら、モニカは近づいてきた。

ボクはというと、さっきの彼女の台詞に呆然としていて、身体が硬直してしまっている。

自分の心臓の音が嫌になるくらい大きく聞こえる中、妙な艶のある声でモニカが言った。

「ずっと前から……したいなって思ってたの。それで丁度あの時二人っきりで、何だかムード感じたから。つい……ね」

「つ、ついって! ボクがあれから、どれだけ君に……っ……」

反射的に恥ずかしい事を口走りそうになってしまい、ボクは咄嗟に口を噤む。

しかし、変な時だけ鋭いモニカは、勘付いてしまったらしい。声も無く笑った後、口を開いた。

「私にキスしたくて、仕方がなくなっちゃった?」

「っ!!……あ……う……」

穴があったら入りたいとは、正に今のボクにピッタリの言葉だった。

もう何を言っても、何をしても墓穴を掘る気しかせず、ボクは俯いて黙り込む。そんなボクに、モニカは衝撃的な言葉を囁いた。

「それならそうと、ハッキリ言ってくれれば良かったのに。……私は、ずっと待ってたのに」

「え?」

驚いて顔を上げたボクは、思わず息を呑む。

――――ボクのすぐ前には、眼を瞑り、少しだけ唇を突き出しているモニカの顔があったのだ。

「モ、モニ……!!」

「……しよう?」

悲鳴交じりのボクの声は、モニカの小さな声で中断される。それくらい、彼女の声には強い力があった。

言葉を弄して逃れる事は出来ないと、ボクの中の何かが告げる。

与えられた選択肢は二つ。眼前の唇を己の物にするか、否かだ。そして、もし前者を選んだならば……多分、もう後戻りは出来ないと思う。

これは、ある意味では呪いとも言えるのかもしれなかった。進んでしまえば、きっと大変な事が待っているのだから。

――――けれども……それでもボクは、前者を選んでしまった。

軽はずみと言われれば、それまでだ。だけど、こんな場面で思慮深く行動できる子供が、果たしてこの世にどれだけいるだろうか?

ボクは震える手を伸ばして、モニカの両頬に添える。そのまま優しく、だけどしっかりと彼女の顔を固定して、ボクは彼女にキスをした。

それは、さっきボクがした無意識のキスとも、以前モニカがした不意打ちのキスとも違う。お互いが望み合って行われた、確かなキスだった。

「ん……ふ……」

唇を通して伝わるモニカの香りが、ボクを狂わせる。いつしかボクは、彼女を強く抱きしめ、彼女の唇の奥へと自分を進めていた。

苦しそうに漏れる彼女の声も聞かず……いや、聞いてるからこそ、尚更行動がエスカレートしていく。

「んん!……んふうっ!!」

モニカが身を捩り、ボクはそれを抱きしめる事で封じ込める。

何度も何度もその事が繰り返されたが、やがて彼女の身体から力が抜けるのを感じて、ボクはようやく冷静さを取り戻した。

同時に自分の欲深さを思い知り、慌ててモニカの唇を解放する。すると彼女は、大きく口を開けて、忙しない呼吸をし始めた。

「かはっ!……はあっ……はあっ……」

「モ、モニカ……ゴメン、大丈夫?」

「……ユリスのエッチ」

「う……」

言われても仕方がない言葉に、ボクは思わず唸る。

そんなボクに、モニカは眼を瞑り口で呼吸しながら、更に畳み掛けた。

「君がこんなに強欲なんて知らなかった。……スケベ」

「あ……う……」

反論の余地も無い。

冷や汗を流しつつ、ボクがどうにか謝罪の方法を考えていると、不意にモニカが小さく笑った。

「でもね……」

「えっ?」

「私、嬉しかった。君が、ここまで私を欲してくれた事が」

「……モニカ」

ボクが呟くと、それが合図だったかの様に、モニカが眼を開ける。

そして再び笑い……すぐに無表情になった。

「ねえ、ユリス?」

「な、何?」

「……君がこんな事をしたいと思う女の子って、私だけだよね? そう思って……良いんだよね?」

「あ、当たり前だろ! ボボ、ボクは別に女の子だったら誰だって良いなんて、そんな不埒な考えは持ってないよ!!」

自分でも不思議なくらいムキになってそう言うと、モニカは微かに震える声でボクに訊ねる。

「本当? クレアやエイナ様にも、同じ事したいとか思ってない?」

「な、何でそこでクレアや母さんが出てくるんだよ!? 大体クレアはともかくとして、母さんにキスしたいなんて思う訳無いだろ!」

「あっ、やっぱりクレアにはしたいんじゃない!」

「え?……あ、ち、違うって! 今のは、そういう意味で言ったんじゃなくて!」

「動揺してるのが怪しい!」

「だから違うってば!……って、何でボク達喧嘩してるの?」

不意に冷静になったボクは、独り言の様にそう呟く。すると、モニカも不思議そうに首を傾げた。

「あ、本当……こんな状態なのにね」

「こんな状態?……っ!?」

まだモニカがボクに身を委ねている状態なのに気づき、ボクは咄嗟に彼女を抱き締めていた両腕を離そうとする。

けれども、それよりも先にモニカが、ボクの行動を先読みしたかの様な口振りで言った。

「ユリス、手を離さないでよ」

「へ? な、何で?」

「決まってるでしょ? 私、今身体に力が入らないんだから。……君のキスのおかげで」

「だ、だって、それは……!」

条件反射で反論しようとして、その材料が皆無なのに気づき、ボクは言葉に詰まる。

すると、モニカが呆れた様に微笑んだ。

「うん、私が誘ったんだよね。でも、君があんなに深いキスをしてくるなんて、全然思わなかった」

「……ゴメン」

「だから、謝らなくて良いって。……ほら、ユリス」

「ん?……っ!?」

モニカが再び瞳を閉じて、唇を小さく突き出す。

「もう一回、しよう? 君の好きな風にして良いから……」

「……っ……」

この期に及んでも、ボクの心から迷いは消えていなかった。

――せめてもう少し……何かに導かれる様に進めたのならば。

自らの意思で選ぶ事。それは大事だけれど、だからこそ簡単に出来る事じゃない。

「……ユリス……」

モニカが微かに唇を動かし、ボクの名を呼んだ。自然とボクの眼はその唇へと向けられ、次いでボクは息を呑む。

綺麗な唇だった。この唇に自らのそれを何度も合わせた事が、何とも不思議に思える。

そんな中、まだ足りないとボクの心が叫んでいた。――もっと欲しい、ずっと欲しい……と。

妙な事で、結局ボクが進む切っ掛けになったのは、そんな思いだった。

――――先程キスした時から……いや、きっと彼女にキスした時から、ボクが彼女の唇に囚われていたという事。

進んでも進まなくても、きっとそれは永遠に変わらない。ならば進もうと……進みたいと、ボクは思った。

緩ませかけていた両腕に再度力を込め、ボクはモニカを抱き締める。

そして、徐に彼女に顔を近づけ始めると、眼を瞑ったまま彼女が呟いた。

「繰り返しみたいだけど……他の人に、こんな事しないでよ?」

――――その言葉への返答代わりに、ボクは深く彼女にキスをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


あとがき

 

毎回毎回ユリスが優位に立っている話だと思ったので、今回は珍しくモニカを積極的にしてみました。

何だかんだ言って、彼女の方が年上ですから、こういう展開も有りなのではないかと。では。

 

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