〜世界をバスタオルで遮って〜
「ねえ、お兄ちゃん?」
「うん?」
「ポーラお姉ちゃんとのファーストキスって、どんな感じだった?」
「なっ!?……って、うわあ!!」
トレーシーの突拍子もない質問に、ネスは驚いてベッドから身を起こそうとしたが、端にかけていた手を滑らせてバランスを崩し、盛大に転落する。
鈍い音と共に頭を打って暫く蹲った後、ヨロヨロと起き上がりながら彼は言った。
「な、な、何なんだよ、全く! いきなり変な質問するな!」
「……もしかして、まだなの?」
そんな兄に向けて、トレーシーは心底呆れた表情で尋ねる。
言外に「恋人になって、何年経つと思ってるのよ?」という言葉が見え隠れしているのを感じ、ネスは不愉快そうに顔を歪めた。
「ほっとけ!」
吐き捨てる様にそう言うと、彼は不貞寝を決め込もうと布団に潜り込む。しかし、直後に聞こえたトレーシーの言葉に、ピタリと動きを止めて彼女を見やった。
「待ってると思うんだけどなあ、ポーラお姉ちゃんは」
「待ってる? どういう意味だよ?」
「そのままの意味。大体、何でそんなに躊躇するのよ? もう相思相愛なのは明らかなんだし、遠慮なんかいらないでしょ?」
「そ、それは……」
ネスは口籠り、妹から視線を外して忙しなく眼をキョロキョロさせる。
――何でそんなに躊躇するのよ?
トレーシーに言われずとも、彼自身もそれは思っていた事だ。
想いを伝え、晴れて恋仲になってから早数年。教科書がある訳ではないが、流石に『そろそろ』とはボンヤリ考えていた。
いや、そんな体裁を気にした言い回しは正しくない。言葉を飾らずに言えば、ネスは純粋に『したい』と思っていたのだ。――しかし……。
(どうしても……踏み切れないんだよな)
心の中で自嘲気味に呟きながら、ネスはポーラとの思い出を回想する。
これまで何度か、切っ掛けとなりそうな場面は有った筈だった。デート帰りにオネットとツーソンを結ぶ森陰を歩いている時とか、デパートのエレベーターの中で二人きりになった時とか。
けれども彼は、どうしても先に進めなかった。繰り返しになるが、理由は分からない。恥ずかしさは勿論有ったが、それも決定的な要因とは言い難い。
いくら考えても答えは見つからず、いつしかネスはこの事を考えるのを無意識に避ける様になり始めていた。
ただ、ポーラと一緒に居られれば、それで良い。子供じみた考えかも知れないが、同時に純粋な考えとも言える筈。そう思う事で、納得していたのだった。――けれども……。
(本当、何をやってるんだろうな……僕は……)
強烈な自己嫌悪に苛まされ、ネスは両手を握りしめながら俯く。すると、そんな兄を見かねたトレーシーが、優しい口調で言った。
「ねえ、お兄ちゃん?」
「……何だ?」
「今お兄ちゃん、自分が嫌に思ってるでしょ?」
「……」
鋭い奴だな、とネスは心の中で毒づく。昔から年齢不相応に大人びた所があったが、最近は更に磨きが掛かった気がする。
そんな感想を抱きつつ「だったら?」と返そうとした彼よりも先に、トレーシーはまるで母親の様な笑みを浮かべた。
「もうちょっとさ、気楽に考えて良いんじゃない? 大体お兄ちゃん、あれこれ考えるの得意じゃないでしょ?」
「まあ……そうだけど……」
「それに……」
不意に妹の顔が真剣になる。驚いたネスは、瞬きもせずに彼女を見やり、続きの言葉を待った。
「やっぱりね、こういう事は男の子から行動するべきだと思うな。ちょっとくらい強引でも……その方が、女の子は嬉しいと思うよ」
「トレーシー……」
それは単なる一個人の意見で有ったが、下手に理論じみた言葉よりも遥かに説得力が有った。
ネスは改めて、トレーシーの顔をまじまじと見つめる。再び笑顔に戻っていた彼女は、まだまだ少女の幼さが残れど一人の乙女なんだと、彼は思った。
「そっか……そうだよな……っ、ありがとう、トレーシー。何か、色々分かった気がする」
「クス、どういたしまして。あっ、でも……」
「ん?」
途端に昔から見てきた悪戯っぽい笑みを浮かべた妹を不審に思い、ネスは疑問の声を発する。
そんな兄にトレーシーは、大袈裟な手振りを加えながら忠告した。
「あくまでも『ちょっと』だからね、強引にするのは。無理やり押し倒して、その後に……なんてしたらダメだよ? そんな事したらポーラお姉ちゃんのパパが黙ってな……」
「命令されても出来るか! そんな事!!」
顔を真っ赤にして怒鳴りながら、ネスは先程少しでも妹を大人だと思った自分を忌まわしく思った。
――――数日後。
「こんにちは」
言いながらネスがポーラスター幼稚園のドアを開けると、中に居た園児達が一斉に彼へと視線を向ける。
直後、パッと表情を輝かせた園児達は、歓声を上げつつ我先にとネスへと飛びついてきた。
「久しぶり! ネス兄ちゃん!」
「本当! 最近来てくれなかったから、退屈だったんだよ?」
「ねえねえ! 早くヨーヨーやろうよ! あれから練習したんだ!」
「え〜? それより私、またあの曲聞きたいな。ねえ、ネスお兄ちゃん、聞かせて!」
「あ、う、うん。えっと……」
ネスはオロオロと園児達を見回しながら、どう対応したものかと頭を悩ませる。毎度の事ながら、こんな風に一斉に話しかけると一体どうしたら良いのか全く分からない。
結局彼は、お目当ての相手であり、その道のエキスパートでもある人物が登場するまで耐えるしかないのであった。
「はい皆! ネスお兄ちゃんが困ってるから、少し落ち着きましょうね?」
パンパンと手を叩きながら現れたその人物に、ネスは安堵の溜息をつく。そんな彼を囲んでいた園児達が、揃って元気良く挨拶した。
「「「「「は〜〜い! ポーラ先生!!」」」」」
「うん、よろしい。……いらっしゃい、ネス。ゴメンなさいね、急に手伝い頼んじゃって」
「大丈夫だよ。もう慣れっこだし」
これまで、幾度となく繰り返された会話だった。この直後、おませな園児から「デートのだしに私達を使わないでほしいよねえ」とからかわれる事まで含めて。
ポーラがほんのりと顔を赤らめて「先生をからかわないの」と園児を窘める。その様子を同じく頬を紅潮させて見守っていたネスは、苦笑しながら彼女に尋ねた。
「さてと、それじゃポーラ。今日は何をすればいいんだい?」
「あ、えっと……これから女の子達とおやつを作るから、男の子達の相手してくれる?」
「了解。じゃあ皆、行こうか」
「やったあ! ねえねえ、ネス兄ちゃん! キャッチボールしよう、キャッチボール!」
「違うだろ! ヨーヨーだよ、ヨーヨー!」
「……ドッヂボール」
一斉に自分がやりたい遊びを口にし、軽い言い争いをし始めた男の子達を、ネスは「まあまあ」と両手で制する仕草をしつつ宥める。
「心配しなくても、時間は十分有るからさ。全部付き合うよ。だから、喧嘩しちゃダメだよ」
「本当!? じゃあ、最初はね……」
「あ〜〜……疲れた」
並べられた簡易ベッドの中でスヤスヤと眠っている園児達を眺めながら、ネスは壁際に腰掛けながら呟いた。
相変わらず、小さな子供達と遊ぶのは疲れる。力の加減もしなければならないし、夢中になる余り危険な事を平気で冒す子が実に多いのだ。
本人達は楽しいのであろうが、遊び相手兼保護者の立場であるこちらはハラハラするばかり。
体力的には大して披露してない筈だが、ずっと気を張り詰めていたせいか、精神的には重労働以外の何物でもなかった。
ポーラが女の子達とクッキーが焼けた事を伝えに来た時は、どんなにありがたかった事か。
(だけど美味しかったな。ポーラのクッキー)
数分前まで口の中に溢れていた味を思い出しながら、ネスは自分が睡魔に襲われているのを自覚する。
無理もない。疲れた後にクッキーを食べ、今は空調の効いた部屋で身を休めているのだから。
更には夢の中へと飛び立っている園児達の寝息と、オルゴールによる『エリーゼのために』が、心地よい音色となって聞こえてくる。これで眠くならない方が不思議だ。
「でも、寝ちゃマズイよな……ポーラから頼まれ……てるん……だし……」
ワザと声に出し、眠気を払い除けようとしたネスだったが、所詮それは儚い抵抗に過ぎなかった。
瞼を擦っていた彼の手が、ダラリと床に落ちる。上下する瞼により広がりと狭まりを繰り返していた世界が、やがて閉じられる。
意識が希薄になり、オルゴールの音が遠のいていくのを感じながら、ネスは眠りへと落ちていった。
不意に意識が戻った時、ネスは違和感を覚えて軽く身じろぎする。
しかしまだ眠気が取れず、眼を開けるのを億劫に思った彼は特に気にする事もせず、再び眠ろうとした。
けれどもその時に吸い込んだ空気に甘い香りが混じっていた事、そして自分の頬に何やらくすぐったい物が触れている事が分かると、流石に気になって眼を開けた。
「……ん……」
真っ黒だった世界はたちまち色を取り戻し、ネスはポーラスター幼稚園へと帰還する。
見た所、別段寝てしまう前と変わった所は無い。未だ夢の中にいる園児達。『エリーゼのために』を繰り返し続けるオルゴール。そんな部屋の壁に寄りかかっている自分。
だが、ふと視線を落とした所で、ネスは異変に気付く。いつの間にか、身体にバスタオルが掛かっている。――いつの間に……? 誰が……?
その答えはすぐに分かった。再び頬に何かが触れる。金色の髪の毛。仄かな香りを放つそれは、ネスにある一人の人物を連想させた。
横を見ると、思った通りポーラが居た。自分とバスタオルを共有し、規則正しく寝息を立てて眠っている。
刹那、ネスからたちまち眠気が吹っ飛び、同時に身体を硬直させる。何かの力に縛られる様に、彼はポーラの寝顔を見つめた。
こんな彼女を見るのは、果たしていつ以来だろうか? あの冒険の時は幾度となく見てきたが、ここ最近は完全に御無沙汰になっていた。
(綺麗……だな……)
あの頃と変わらぬ感想を、ネスは抱く。まるで当然の事実を、再確認するかの様に。
自然と胸が高鳴り始める。居た堪れない気持ちになるのに、このまま時が永遠に止まれば良いとも思ってしまう。これまでも何度か経験してきた、上手く表現できない心境だった。
何の気なしに、ネスはポーラの唇へと指を伸ばす。淡いピンクの柔らかな唇。花弁に似ているなと思った直後、彼は自分らしからぬ感想に一人苦笑する。
が、数日前のトレーシーとの会話を思い出した瞬間、その笑みは消える。
――待ってると思うんだけどなあ、ポーラお姉ちゃんは。
――ちょっとくらい強引でも……その方が、女の子は嬉しいと思うよ。
ネスはふと、妹が今此処にいて背中を押しているかの様な感覚に陥る。同時に「良い機会じゃない」と言われている気がした。
先程とは別の理由で、胸が高鳴る。ポーラの顔を見ていられなくなった彼は、無意識に視線を落とす。
すると、細く白い彼女の手が眼に止まる。それを見たネスは、この手を握りたいと思った時、自分がどれほど躊躇ってきたのかを思い返した。
(確か乱暴な運転の車から守ろうとして……咄嗟に握ったんだよな)
知れず彼は、両の掌を強く握りしめる。彼は切っ掛けが欲しかった。あの時の様に、その行為を正当化する事の出来る切っ掛けが。
「……ネス……」
微かにポーラの声が聞こえ、ネスは顔を上げた。いつの間にか、彼女は眼を覚ましていた。瞬きする事も無く、ジッとこちらを見つめている。
彼は何か言おうとしたが、それが何であるのか自分でも分からなかった。目覚めの挨拶か、それとも変に眺めていた事に対する謝罪か……もしくは、全く別の何かか。
ポーラは何も言わず、微動だにしない。ネスはそんな彼女から眼を離す事が出来ず、ただ激しく脈打つ自身の心臓を持て余していた。
やがて、ポーラがそっとネスの手を握る。ドキリとした彼が彼女を見やると、そこには涙で潤んだ二つの瞳が有った。
「ネス……」
ポーラはもう一度、そう呟く。その言葉の隠された意味を、ネスは考える。果たして、自分が思い描いている事と一致しているのか、と。
オルゴールが奏でる『エリーゼのために』が何度目かの終わりを迎え、数拍の無音の後にまた始まりに戻る。それを耳にした彼は、微かに息を呑んだ。
――――これで良い。これが切っ掛けで。
そう思い、ネスはぎこちなくバスタオルを掴むと、自分とポーラを覆う様に上から被せた。
世界が急激に狭くなる。少しだけ『エリーゼのために』が聞こえ辛くなる。代わりに彼女の息遣いが、ハッキリと聞こえてきた。
ネスはそっとポーラの眉を指でなぞる。すると彼女は静かに両眼を閉じる。そんな彼女の頬に手を添えたネスは、意を決して顔を近づけた。
唇が触れた瞬間、柔らかさと温かさがネスを包む。そして、それはきっとポーラも同じなのだろう。彼女はこちらに身体を寄せてくると、空いていた手を彼の背中へと回した。
それに答える様に、ネスもまたポーラの背中へと手を伸ばす。身体を密着させ、互いの温もりと鼓動を感じながら、二人はキスに没頭した。
『エリーゼのために』が終わる。それを合図にして、ネスは名残惜しくも唇を離す。眼を開けてポーラを見ると、彼女は涙の雫を流していた。
「……ありがとう……」
ポーラがそうお礼を言うと、再びオルゴールが始まる。それを耳にしたネスは、もう一度彼女に唇を合わせる。すると彼女は特に驚く様子も無く、彼のキスを受け入れた。
ネスは曲の終焉と共に唇を離し、ポーラを見る。そして曲の始動と共に、またキスに移る。
終わらない『エリーゼのために』と同じく、その行為にも終わりはない。バスタオルで遮られた限りなく狭い世界で、ずっと繰り返される。
――――オルゴールが止まる、その時まで……永遠に。
あとがき
お久しぶりのマザー話。という訳で(?)ギャグオチも無く最後の最後まで甘いネス×ポーラとなりました。
いやあ、書いてて恥ずかしかったのなんのって(苦笑) でも、結構良い話になったんじゃないでしょうか?(聞くな)
機会が有れば、少し内容を変えたポーラ視点の話も書いてみたいと思ってます。では。