〜違えた先にある交わり〜

 

 

 

 

 

「貴方には、幼馴染がいますね?」

(……?)

ブラブラと街中を歩いている最中、そんな女性の声が聞こえた繊也(せんや)はふと足を止める。

耳障りにも思える喧騒の中で、何故かその声はハッキリと聞こえてきたからだ。

不思議に思うと同時に妙な好奇心を覚えた彼は、徐に声が発せられたであろう方向に身体を向ける。

すると次の瞬間、穏やかな笑みを浮かべている女性と視線がぶつかった。

「え?……あ、あの……?」

「貴方には、幼馴染がいますね?」

突然の事に戸惑う繊也に構わず、女性は再び同じ言葉を繰り返す。

その言葉が自分に向けられていると理解した繊也は、怪訝に思いながらも条件反射的に頷いてしまった。

「は、はい。い、います……けど……」

頷きながら、彼はしげしげと女性を観察する。

――――見た目から判断して、年齢は恐らく二十代後半から三十台前半だろうか?

薄化粧でアクセサリーの類もつけていない事から、ビジネスウーマンなのではないかと繊也は思った。

しかしそう考えると、少し変な所がある。

所謂カジュアルスーツを身に纏い極々小さなバッグを抱えているだけの彼女は、ビジネスウーマンと言うには些か不自然な格好だったからだ。

そしてなにより彼女が繰り返した、あの言葉。

――貴方には、幼馴染がいますね?

初対面の人間にいきなりこんな事を聞くなんて、どう考えても普通ではない。

そんな様々な事を考えながら、繊也は思い切って女性に尋ねてみた。

「俺に、何か用ですか?」

「はい」

即答だった。

驚いた繊也は思わず口を開けてポカンとするが、女性は変わらぬ微笑と共に言葉を続ける。

「ですが長くなりますので……そうですね、あちらに移動しましょうか?」

言いつつ彼女が指差したのは、ファミリーレストランだった。どうやら、食事しながら話をしようと言いたいらしい。

何となくそう分かった繊也だったが、生憎と今は手持ちが無い。

それに、もしもこの女性が悪徳商法業者とかであった場合を考えると、金銭が絡む場所にはいかないのが懸命だろう。

そう考えた彼は、ポケットから薄っぺらな財布を取り出すと、彼女にそれを見せながらヒラヒラと振ってみせた。

「悪いですけど、この通りなんで」

しかし女性はそんな繊也を見て、可笑しそうに身体を震わせる。

「クスクス……そんなに警戒しなくても、お金なんて取りませんよ。こちらが誘ったのですから、当然代金は私が持ちます。

 ですから、どうぞお時間だけ頂けませんか?」

「…………」

――怪しい。絶対に怪しい。……けど……。

無言で女性を眺めながら、繊也は逡巡した。

このままホイホイついていったら、何やらとんでもなく厄介な事になりそうな気がする。

だが、常に金銭に苦労している彼にとって、『奢り』というのは非常に魅力的な言葉だった。

――――そして、もう一つ……どうしても気にかかるのは……。

(何でこの人、分かったんだろう?)

そう、彼女が最初に発した問いかけ――それを聞いた瞬間、繊也は無意識に一人の人物を思い出したのである。

――――記憶から消そうと努力し続けてきた、大切な人……淡い想いを抱いた少女。

ここ数年は解放されていた胸の苦しみが蘇り、思わず胸元に手をやった繊也は、ぎこちない笑みと共に口を開いた。

「……分かりました。特に用事もないですし、お付き合いします」

 

 

 

 

 

 

 

 

「ボロネーゼにチキンピラフ……あ、このドリアも美味しそう。それとアラカルトの……」

「………」

次々と注文を重ねる女性を、繊也はテーブル越しに向かい合いながら呆然と眺める。

よくまあ、こんなに沢山注文出来るものだ。どちらかと言えば大食いである自分でも、想像しただけでうんざりしかける量である。

というより、明らかにカロリーオーバーだろう。そんな事を考えていた彼であったが、店員の「そちらは?」という声に、ハッと我に返った。

「あ、じ、じゃあ……日替わりランチで」

「あら? それだけで、よろしいんですか?」

不思議そうに小首を傾げながら、女性は繊也に尋ねた。……その両手に未だメニュー表が握られている所を見ると、まだ注文する気らしい。

(どんな胃袋してんだ、この人?)

思わず心の中で呟いた繊也だったが、流石にそんな感情を表に出す事は憚られ、曖昧な愛想笑いと共に口を開く。

「え、ええ。奢られる身ですし、そんな贅沢は……」

「変な遠慮は無用ですよ。どうぞお好きなだけ注文して下さい。……ほら、このピザとか凄く美味しそうですよ?」

言いながら女性が指差すメニューの箇所には、『当店オススメ』という注釈が添えられたマルゲリータピザの写真があった。

それを眼にした瞬間、繊也は再び胸に苦い物が込み上げてくるのを感じる。そして、同時に忘れようと努力していた声が、脳裏に響いた。

――繊也、今日は私の家に来てよ。ピザ作るからさ。

(っ……!)

彼は思わず胸を掻き毟りたい衝動に襲われたが、どうにかそれを押さえ込む。

すると不思議な事に妙な懐かしさを覚え、繊也は店員の方へ顔を向けながら言った。

「……すいません、このマルゲリータピザも」

「はい、かしこまりました。ご注文は以上でよろしいですか?」

「あ、待ってください。後、二つ三つ程……」

(まだ注文するのか!?)

思わず声に出しかけ、慌てて口を手で押さえた繊也を気にも留めず、女性はアラカルトをいくつか注文する。

そしてようやく「以上で」と言うと、店員にメニューを手渡した。

受け取った店員は、膨大な量の注文を確認の為に羅列し、それが終わると「少々お時間がかかりますが、どうぞお待ち下さい」と一礼して立ち去る。

その後姿に何となく辟易した物を感じた繊也は、無意識に軽く頭を下げた。

(すいません、面倒な客で……)

「さて……それでは注文が来る前に、自己紹介しておきましょうか」

ふと聞こえた女性の声に、繊也は彼女に向き直る。

すると女性は胸元のポケットから名刺と思われる紙を取り出すと、両手で丁寧に繊也へと差し出した。

「申し遅れましたが、私、こういう者です」

「はあ……ええっと……」

変に緊張しつつ、その紙を受け取った繊也は、紙に書かれている文字に眼を落とす。

それは思った通り名刺だったが、会社名や役職名等は書かれておらず、ただこう書かれてあった。

『途切れかけている絆、紡ぎ直します。 隋縁 愛結(ずいえん あゆ)』

「…………何ですか、これ?」

読み終えた繊也は、思わず訝しそうな眼を女性――隋縁愛結に向けると共にそう言う。

何やら宗教への勧誘の様なキャッチコピーである上、名前の方もそれと合わせた感じでどうにも偽名な気がしてならない。

やはり関わってはいけない人なのかと疑いを強くした彼に、愛結は安心させる様な笑みを湛えて口を開いた。

「そのままの意味です。かつて結んだ大切な絆、それを様々な理由で失いかけている人を救う……それが私の仕事です」

「はあ……」

本当に宗教めいた言葉を並べる愛結に、繊也はますます疑念を強くする。

しかし、次いで彼女が発した言葉に、思わず身を固くした。

「特に、ふとした事で擦れ違ってしまった幼馴染の人達は、放っておけないんです。……貴方の様に」

「……!?」

動揺を全身で表現した繊也に、愛結は畳み掛ける様に尋ねた。

「ピザが好物だったんですか? それとも、作るのが上手だったんですか?」

「なっ……!」

思わず驚愕の声を上げた繊也だったが、その後に続く言葉が見つからず黙り込む。

急激に動悸が激しくなっていき、それを少しでも和らげようと、彼は俯いて胸元のシャツを握り締めた。

何かを言おうと思っても口から漏れるのは小さな、けれど荒い呼吸ばかりだ。

全身に嫌な汗が滲み出し、ズキズキと頭の芯が悲鳴を上げる。

――――何故?……何故、彼女はこうもズバズバと初めてあった人間の事を…………?

自分がそんなに分かりやすいのか……それとも、はたまた未知なる彼女の力か。

グルグルと疑問が脳を駆け巡り……否、のた打ち回り、繊也はただそれに翻弄されるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「失礼します。大変長らくお待たせいたしました」

(っ!)

どれくらいの時間が経ったのか。ふと聞こえた店員の声に、繊也は我に返った。

「わあ、どれも美味しそう。頂きます」

「ピザの方はもう暫く掛かりますので、どうぞお待ち下さい」

「あ……はい」

店員がテーブルに並べた料理を早速食している愛結を一瞥した後、彼は曖昧に頷く。

そして店員が離れていくと、気は進まないながらも注文した日替わりランチに箸を付けた。

決して不味くは無かったが、重苦しい気持ちを抱えた状態では満足感も得られない。

仕方なく片付ける、といった感じで食事をしていた繊也に、ふと愛結が声を掛けた。

「先程は失礼しました。……少しは落ち着かれましたか?」

「え?……ええ……まあ……」

箸を止めた彼が愛結に視線を向けると、彼女は既に注文の品を殆ど平らげていた。

大食いな上に早食いな眼前の女性に、繊也は複雑な表情を浮かべつつも徐に口を開く。

「あの……」

「はい?」

「その……どうして……えっと……俺の……っ……」

声を掛けてみたもの、実際どう尋ねていいのか分からず、繊也は言葉を濁す。

そんな彼をジッと見つめていた愛結だったが、やがて「ああ……」と軽く頷くと言った。

「不快に思われましたか? だとしたら、申し訳ありません。貴方の傷を抉る気は無かったのですが……」

そこまで続けた後、彼女は一旦言葉を切って繊也を再度凝視する。

まるで心の中まで見透かされそうな……いや、現にもう見透かされているとも言うべきその瞳に、彼は狼狽えつつも愛結に尋ねた。

「いえ、不快というよりかは不気味というか……本当、どうして分かってんですか?」

「それが私の仕事ですから」

間髪いれず、彼女はそう答える。

「これでも、多くの方々の縁を紡ぎ直してきた身……人の内面を知るのは得意です。

 それに……私がピザを注文したらと言った時の貴方を見れば、あれくらいの事は大体見当がつきます」

「……俺、そんなに顔に出てましたか?」

「いえ、ご心配なさらず。至って平然としてましたよ。ただ私が関わってきた人は、大抵そうして見せまいとしますから」

「……っ……」

繊也は愛結の言葉を聞きながら、何となく彼女は信用しても良いのでは無いかと思っている自分に気づく。

そんな風に思ってしまう不思議な暖かさが、彼女の声に……表情に……そして雰囲気にあったのだ。

「ですから、無理に貴方から話を聞くつもりはありません。私にする事は、貴方に言葉を贈る事だけです」

「言葉?」

「ええ……」

――――その直後、愛結の口から伝えられた言葉は、繊也の心に真っ直ぐと入ってきた。

「同じ道を歩いていた二人が、いつしか道を違えてしまうのは決して珍しい事ではありません。それは即ち、その逆も然り。

違えてしまった道が、また交わる事も珍しくない…………これを忘れないでください」

「え?……どういう……」

「それは、貴方自身が一番良く知っていると思います。……決して、もう元に戻らないとは思わないでください」

「も、元にって……」

「お待たせしました、マルゲリータピザです」

繊也の言葉を遮って、店員が最後の注文であったピザをテーブルに置き、次いで伝票を置いて席を離れていく。

店員が見えなくなった後、愛結はさも当然の様に伝票を手に取ると徐に立ち上がった。

「私のお話は以上です。勘定は済ませておきますから、どうぞゆっくりしていってください」

「えっ? あ、あの……」

「それでは、また……貴方の大切な縁が紡ぎ直された時に」

声を掛けた繊也に構わず愛結は笑顔でそう言いながら立ち上がり、レジへと足を運び会計を済ませて店を出る。

残された繊也は暫く呆然としていたが、ふと眼前のテーブルに置かれたピザの香りに我に返った。

――――思えば、ピザを食べるのは何年ぶりだろうか?

『あの日』以来、無意識に避ける様になっていた大好物。そして、もう忘れたいと思っていた『彼女』の得意料理でもある。

(本当、他の料理はてんでダメなのに、ピザだけは上手だったよな。特にこの、マルゲリータは……)

懐かしくもあり忌まわしくもある過去を思い出しつつ、繊也は一切れのピザを手に取ると口元に運ぶ。

所詮はファミレスの物と考えていた彼の思惑とは裏腹に、マルゲリータは中々の美味であった。――けれども……。

「やっぱ、あいつのには敵わないな……ん?」

不意に振動し始めた携帯に気づき、繊也はポケットに手を伸ばす。

「誰だ?……母さん?」

画面に表示された相手に珍しさを感じつつ通話ボタンを押すと、妙に暗い母親の声が聞こえてきた。

『繊也?……今、大丈夫?』

「母さん。ああ、平気だけど……どうしたんだ? えらく元気ないみたいだけど?」

『…………』

繊也が心配そうに尋ねてみると、電話越しの母親は黙り込んでしまう。

その様子に何だか嫌な予感がした彼は、少々上擦った声で再度尋ねてみた。

「何か……あったの?」

『……繊也、急な話なんだけど……帰ってこれる?』

「え? 帰ってこれるって……いつ?」

『なるべく早く。出来ればすぐにでも帰ってきて欲しいの。あんたなら、何とか出来るかもしれないから……』

「か、母さん!? 一体、何があったんだよ!?」

段々と増していく不安に声を荒げた繊也の問いに、母親は重苦しい口調で言った。

『あのね……真澄(ますみ)ちゃんの事だけど……』

「……えっ?」

良いのか悪いのか分からないタイミングで聞いたその名前に、戦慄が奔る。

しかもその後に続けられた母親の言葉が、その戦慄を何倍にも大きくした。

『今、入院しているの……自殺未遂して……』

「っ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「その方でしたら、508号室ですね」

「……面会出来ますか?」

繊也の問いに看護士は「少々お待ちください」と言い残し、ナースステーションの奥に姿を消す。

それを見送った後、彼は近くにあったベンチに腰掛けると、溜息をつきながら足元に視線を落とした。

(どういう事だよ?……真澄……)

――――真澄。

名前と共に浮かび上がった彼女は、中学の制服姿のままでいる。

月日で言うと、もう五年にもなる自分と彼女との空白の時間……その事を思った時、不意に彼の脳裏を愛結の言葉が過ぎった。

――同じ道を歩いていた二人が、いつしか道を違えてしまうのは決して珍しい事ではありません。

(確かに……そうだったのかもな……)

家が近くて家族ぐるみの付き合い……正に絵に書いた様な『幼馴染』という関係。

だからなのか、それとも単なる偶然か、自分と彼女はとても仲が良かった。

年齢を重ねていくにつれ、周りから冷やかされる事もあったが、それでも二人はずっと同じ道を歩いていた。

道と言っても、特に目標や夢が有った訳ではない。ただ、二人で笑い、泣き、時には衝突しながら過ごして生きたい。

――――自分も彼女も、そう思っていた筈……いや、確かにそう思っていた。あの時までは…………。

(っ……嫌な過去を思い出しちまった)

胸元に不快極まりない物が込み上げ、繊也は思わず顔を顰める。

しかし、そんな彼とは裏腹に彼の脳は、更に思い出したくない記憶を呼び覚ました。

――何の冗談よ、自殺って! 繊也が……繊也が、そんなバカだったなんて……もう知らない!!

「……っ!!」

不快が最高潮に達した繊也は、苛立たしく胸を掻き毟りながら意味も無く立ち上がる。

けれどもその苛立ちは即座に困惑と悲しみへと変わり、彼は手で顔を覆うと静かに眼を閉じた。

(そうだよ……あの時、お前は俺にそう言ったじゃないか……なのに何で、そのお前が……!)

「……繊也さん。……繊也さん」

「え?……あ、はい」

先程の看護士の声に、繊也は我を取り戻す。慌てて受付窓口に近づくと、看護士が彼の顔を見やりながら言った。

「五時から検査がありますので、それまででしたら大丈夫です。

ただ、患者さんはまだ精神的に不安定なので……間違っても怒ったりしないでください」

「……分かりました」

看護士に頭を下げ、繊也は真澄の居る508号室へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「此処か」

目的の508号室へ着いた繊也は、そこに真澄の名札が付けられているのを確認すると、一つ深呼吸する。

そして軽くドアをノックすると、記憶とある……しかし、それと比べて酷く弱々しい彼女の声が返ってきた。

「はい……」

「真澄。俺……繊也だけど……」

「聞いてるわ。どうぞ」

言い終わらぬ内に入室許可の言葉が聞こえ、繊也は一瞬たじろぐがすぐに気を取り戻しドアに手を掛ける。

小さく「入るぞ」と言いつつ病室へ足を踏み入れると、ベッドの上で半身を起こしている真澄が視界に飛び込んできた。

「あ……」

刹那、繊也は時間が止まった様な錯覚に陥る。

――――丸みを帯びていたかつての面影を残しつつも、シャープな輪郭になった彼女の顔。恐らくは、腰ぐらいにまで伸びているであろう茶髪。

当然の事であるものの、今まで漠然としてでしか感じていなかった五年の月日を目の当たりにし、彼は無意識に彼女を見つめていた。

「……何よ? 人の顔ジロジロ見て?」

「えっ? あ、いや……」

その視線に気づいた真澄の問いに、繊也は慌てつつ言葉を濁す。

しかし、次いで発せられた彼女の言葉に、此処を訪れた理由を思い出した。

「説教しに来たんじゃないの?」

(っ!)

皮肉と恐怖が入り混じったその声は、ぎこちない笑みと相まってとても寂しげに見えた。

強がり――それ以外の何物でもない真澄の気持ちをヒシヒシと感じた繊也は、軽く頭を振ると徐に口を開く。

「まさか」

「え?」

「昔の俺みたいな奴に、説教なんか出来るか?」

「っ……」

真澄は笑みを消し、唇を横一文字に結ぶ。それを見て、自分の揶揄が伝わったと判断した繊也は続けた。

「覚えてるみたいだな」

「……ええ。もう五年よね?…………大丈夫なの?」

「身体の方はな。心の方は、まあ……少しはってとこか」

繊也はそう言いつつ真澄のベッドに歩み寄ると、横にあった椅子に腰掛ける。それに対して、彼女は特に気にした様子は見せない。

傷ついてはいるものの、想像していたよりは精神が安定しているのに安堵しつつ、彼は遅れた挨拶をした。

「久しぶり」

「今更それ言う? でもまあ、こちらこそ久しぶり」

「ああ。で? 方法は何だ?……まさか、俺と一緒か?」

「そんな訳ないでしょ。あんな怖いの無理だわ。…………私のはこれ」

曖昧な笑みと共に、真澄が左腕の袖を静かに捲った。

そして現れた彼女の左手首にある無数の生々しい傷痕に、繊也は反射的に眉を顰めた。

「……そっちの方が、よっぽど怖いと俺は思うぞ? 相当、躊躇ったんじゃないのか?」

「まあね。でも、やっぱり繊也の方が怖いよ。海に飛び降りなんて、私には絶対無理。骨がバラバラになったんでしょ?」

「ああ、粉砕骨折って言うらしい。意識が戻った時は激痛で死にたくなったぜ。……まあ死にたかったんだがな、あの時は」

言いながら軽く眼を伏せた繊也の耳を、真澄のか弱い声が打つ。

「……ねえ、聞いても構わない?」

「何をだ?」

「繊也の理由」

「……」

一体『何の理由』なのか、彼女はハッキリと言わなかった。けれども繊也は、すぐにそれが何を指し示しているのかを悟る。

だから彼は小さく嘆息した後、出来るだけ淡々とした口調になる様に努めつつ言った。

「単純。厭世」

「っ……そっか。私よりも重いね」

「自殺の理由に重いも軽いも無いと思うが……お前は何なんだ?」

「……人間関係?」

「語尾が疑問系だぞ」

「だって……自分でも分からないんだもん」

頬を膨らませながら拗ね声を出した真澄は、寂しそうに手元にあった枕を抱きしめる。

「小母さんから、何も聞いてないの?」

「……近々結婚する予定だったって事は聞いてる」

言いながら繊也は、胸に如何ともし難い痛みが奔るのを感じる。言葉を飾らずに言えば、物凄くショックだった。

――――いつの間にか彼女に、結婚する程に愛している人が存在していた事が。

「何だ……聞いてるんじゃない」

「えっ? どういう事だ?」

意味が分からずに聞き返した繊也に、真澄は枕に顔を埋めながら言った。

「だから、それが理由。……結婚相手に、酷い事を言われたの」

「っ……!」

思いがけない彼女の言葉に、繊也は反射的に戸惑いと顔も知らぬ男への怒りを覚える。

けれども、すぐに冷静になるべきだと自身を戒め、小さく震えた声で尋ねた。

「……何て?」

「…………」

真澄は答えない。相変わらず、枕で顔を隠したままだ。ある程度は予想出来ていた事だが、正直繊也には居た堪れない。

辛さに耐え切れず、もう一度尋ねようとした彼が口を開きかけるのと殆ど同時に、彼女の声が聞こえた。

「繊也は……私の得意料理兼趣味だった物……覚えてる?」

「ピザ」

間髪いれずに、繊也は答える。それと同じくして、心の中で一言付け加えた。

――……忘れる訳がないだろう。

「っ!……覚えてたんだ?」

「まあな。んで? それが何だ?」

「……あの人、ピザが嫌いだったの」

「!……嫌いだったのって……そんな奴と、どうして結婚なんか……」

「知らなかったの。ううん……あの人、教えてくれなかったの。お見合いの時に、ちゃんと言ったのに……」

繊也の言葉を遮り、真澄は言葉を続ける。

その声に段々と嗚咽が交じり始め、彼は何も言う事が出来ず彼女の話に耳を傾けていた。

「その時は『素敵ですね』って笑ってたんだよ? だから、受け入れてくれてたんだと思ってた。時々、作ってあげたりもしたの。

 あの人、そうすると笑って食べてくれた。それが私には凄く嬉しかった……だけど……だけど……」

完全に涙声になった真澄に、繊也は「もういい……辛いなら何も言うな」と声を掛ける。

しかし彼女は髪を振り乱しながら「お願い、言わせて」と懇願し、彼の返事を待たずに言った。

「この前、不機嫌全開な表情で言われたの……『ずっと苦笑いで拒絶を表してきたのに、何で気づかないんだ!? 僕はピザなんか嫌いなんだよ!

 二度とこんなの作るな!!』って……それで私、自分でもビックリするくらいショックを受けた。もう何もかもが嫌になったの。それで……」

言葉の代わりといった風に、真澄は自らの左腕を曝け出した。

繊也は暫く、彼女の苦しみと辛さの証とも言うべきその傷痕を見つめる。

かつての自分に似た心境を吐露した真澄に、複雑な感情を抱いた彼だったが、ふとある事に気づき口を開いた。

「そいつは今どうしてるんだ?」

「知らない。一回だけお見舞い……ううん、顔出して『もう君なんてうんざりだ!』って言い捨てて行って、それっきり」

「…………婚約破棄か?」

「多分ね。でも……それで良かったんだと思う」

ようやく顔を上げた真澄は、指先で涙を拭いながら軽く笑う。

「もう、あの人と結婚しても上手くやっていけない気がする……ううん、きっと上手くいかない。だから……これで良かったんだと思う」

「……愛してたんじゃないのか?」

「うん……多分、違った」

真顔になり、真澄はそう言った。その言葉の意味が理解できず、黙り込む繊也をチラリと見た後、彼女は続ける。

「私はきっと……誰かさんを無理やり忘れようとしてただったの」

「え……?」

「私が作ったピザを、笑顔で頬張ってくれる誰かさんの……だから、あの人自身に恋なんかしてなかった。

だから……あの人の本当の気持ちなんか、見ようとも考えようともしなかった。今になって……やっと、それが分かったの」

そこまで言って真澄は再び繊也に視線を向ける。その眼が「私だって嫌な女だよね」と言っている様に、繊也には思えた。

しかし、彼はそれ以上に彼女のある一言が気になった。――――そう、彼女が口にした『誰かさん』という言葉が……。

(まさか……まさか……な……)

――絶対違う。違うに決まっている。けれども、もしかしたら……。

その『もしかしたら』が徐々に心の中で肥大化していき、遂に言葉となって繊也の口から漏れた。

「……誰だよ? その『誰かさん』って?」

「…………それを聞く? 普通?」

不愉快そうに眉を顰めた真澄だったが、それとは対照的に心なしか口調は楽しそうだった。

そんな彼女を見て、更に『もしかしたら』が膨らんでいくのを感じつつ、繊也は尋ねる。

「まさかとは思うが……その『誰かさん』って、幼稚園から中学校まで一緒に通ってた奴か?」

「ピンポン」

「んで、何の偶然かクラスもずっと同じで、果ては席もずっと隣」

「正解」

「だからなのか、しょっちゅう一緒に遊んで互いの家にも頻繁に行ってた」

「うんうん」

「けど……五年前にそいつが自殺未遂してから、疎遠になった」

「…………ご名答」

真澄は少しだけ間を置くとそう答え、繊也に笑みを向けた。

これまで見せていたものとは何処か違う、穏やかな笑顔。それを見た繊也の口から、呆れとも喜びともつかない溜息が漏れた。

(俺じゃねえか……)

――――違えた筈だった……否、間違いなく違えていた道。

それがいつの間にか、今また交わっているのではないかと、繊也は思う。思うと同時に、あの隋縁愛結の言葉が脳裏を過ぎった。

――違えてしまった道が、また交わる事も珍しくない…………これを忘れないでください。

(だとしたら、俺は……っ)

悩んだ彼であったが、その悩みは一瞬で消え去る。すべき事に出来る事、そして望む事……全てが今、一つの方向を指し示していたからだ。

それを認識した途端、妙な満足感と気恥ずかしさがこみ上げてくる。

繊也の中で生まれたその二つが、彼自身をある行動へと突き動かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ!……あ……」

「…………抵抗くらいしろよ」

数秒の口付けの後、眼を見開いて硬直している真澄に、唇を離した繊也は勝手だとは思いつつも文句を言う。

別に強引に奪った訳じゃない。ゆっくり……本当にゆっくりと顔を近づけたし、途中で拒否の意を示す間は十分に有った筈だ。

しかし、彼女は微動だにしなかった。気づかなかった、という訳でもないだろうに。

――――そう。つまり、彼女は…………。

「だ、だって! え……えと……!」

今頃になって状況を理解したらしく、真澄は頬を赤く染めてワタワタと挙動不審になる。

そんな彼女があまりにも可笑しく、そしてそれ以上に可愛く見え、繊也は思わず噴き出した。

「おいおい、そこまで狼狽えなくてもいいだろ?」

「そそ、そう言われたって……む、無茶言わないでよ! は、初めてだったんだよ初めて!」

「え、初めて?」

思いがけない真澄の言葉に、彼は怪訝な顔をする。

「お見合いして結婚が間近に迫ってた相手がいたってのに……か?」

「だ、だから何よ!? それは関係無いでしょう! と、とにかく今のが私のファーストキスだったのよ!!」

照れの赤みに怒りの赤みが加わり、更に紅潮した顔になった真澄がそう怒鳴るが、繊也は事も無げに言い返す。

「なら、拒否しろよ」

「!……そ、それは……で、でも……何で……?」

「あんな事する理由なんざ、一つしかないだろ。それより……その……」

「何?」

「……返事ってか……返答というか……どうなんだ?」

最後の方は殆ど聞こえない程に小声になりながら、繊也は真澄に尋ねた。

正直もう……自惚れかも知れないが、彼女の気持ちは大体分かっている。――――彼女が口付けを拒まなかった事から……。

けれどもやはり、これは彼女の口から直接聞きたかった。彼女には酷かも知れないが……それでも彼は聞きたかったのだ。

「…………どうして?」

暫くして、嬉しいのか悲しいのか判断しかねる表情を湛え、真澄が言う。

そのたった一言から彼女の心情を読み取った繊也は、照れを押し殺しながら答えた。

「ずっと好きだった……唯、それだけ」

「……私、繊也に凄く酷い事を言ったんだよ? バカとか、もう知らないとか」

「ああ、それは確かだ。だけど、『嫌い』って言われた覚えは無いぞ」

「……自殺未遂をした女の子だよ?」

「それは俺もだろ? 気になんかしねえよ」

「それに……」

「あのな、真澄」

自身を卑下し続ける彼女を遮り、繊也は真っ直ぐに真澄を見つめる。

――――その瞬間、記憶の中の彼女と眼前の彼女が、重なった様に見えた。

「……言っただろ? ずっと好きだったって」

もう一度告白すると、真澄はハッと息を呑む。次いで二つの瞳が潤み始め、程なく大粒の涙を零れ出した。

「ほ、本当……?」

「っ……流石に三回も言うのは照れがあるぞ」

「だ、だって……私……ずっと繊也は……私を嫌っちゃったとばかり……」

「……」

――ああ……本当に俺と同じだ。

嗚咽交じりに発せられた真澄の言葉に、繊也は心の中で嘆息する。だが、一瞬考えた後で自分の言葉の間違いに気づき、苦笑しつつ訂正する。

(いや、全く同じって訳じゃないな。俺は……嫌われたと思われたくなくて、自分が嫌いになったと思い込んでいたんだから)

今なら、ハッキリと分かる。これまで自分を苦しめていた、胸の苦しみや痛さの原因が。

少々遅過ぎた気がするし、真澄への申し訳なさも募るが、今は話さなくても構わないだろう。

またしても勝手な考えかも知れないが、繊也はそう結論付けた。そして、同時に気づいた真実を口にする。

「……なあ、真澄?」

「何?」

「俺さ、もうお前とは違う道を進んでいて、また交わる事は無いと思ってた……五年前のあの日から」

「……それは私も同じだよ、繊也。もう、あの頃には戻れない。仲良しだった頃には戻れない……ずっと、そう思ってた」

「「……だけど……」」

ふと重なった言葉に、二人は顔を見合わせる。次いでどちらからともなく、はにかんだ表情を浮かべた。

「っ……違ったんだよな、それはきっと」

「うん。一緒だった道が分かれたのは確かだけど……それがもう元に戻らないっていうのは、間違いだったんだね」

「ああ。お互い、戻りたいって心の奥で思ってたんだからな。ただ、『相手はそうは思っていない』って思い込んでたから、こんな回り道になった」

「ふふ、そうだね。……あ、ゴメン、繊也」

「?……何がだ?」

いきなり謝罪の言葉を口にした真澄に繊也が尋ねると、彼女はほんのりと頬を染めた。

「……私も……ずっと、好きだったよ」

――――そんなか細く、けれどもしっかりとした意思を込めた言葉と共に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうやら、無事に紡ぎ直されたみたいですね」

「「っ!?」」

突然聞こえたその声に、繊也と真澄はハッとして声の方向へと振り返る。

その方向――病室の入り口にはいつの間にか愛結が立っていて、驚いた繊也は上擦った声を出した。

「あ、貴女!……な、なんで!?……い、いつ!?」

「言いませんでしたか? 貴方の大切な絆が紡ぎ直された時に、また……と」

――――……言った。確かに彼女がそんな事を言った。

頭ではその事実を受け止めた繊也だが、今眼前の事実を受け止めるのはままならずに狼狽する。

しかし愛結の事を知らない真澄の動揺は繊也の比ではなく、恥ずかしさで真っ赤になった顔で彼に尋ねた。

「せせ、繊也! だだ、誰、この人!?」

「え、えと……!」

上手く説明する言葉が見つからずに繊也が困っていると、可笑しそうに笑いながら愛結が口を開く。

「ご心配なさらず。私は、彼に少しばかりの助言を差し上げただけの、しがない女ですから」

「……助言?」

一瞬訝しそうな視線を愛結に向けた後、真澄はもう一度繊也に尋ねた。

「何の事?」

「だ、だから!……ああもう、後で話すよ! それより貴女、何で此処に……」

「それは秘密という事にして下さい」

笑みを湛えたまま、愛結はそう言う。そんな彼女に思わず食い下がろうとした繊也だったが、それよりも早く愛結が言葉を続ける。

「……というより、もう私の事はどうでも構わないでしょう? 一番大切な絆が、戻ったのですから」

「そ、それは、まあ……あ、そうだ。一応、御礼を言っておきます。あの時は、ありがとうございました」

「いえいえ。しっかりと報酬は頂きましたから、御礼等は要りませんよ」

「えっ、報酬?」

「はい。貴方達の大切な絆を、この眼で見る事が出来た。それが私にとって何よりの報酬です」

「っ……」

心から嬉しそうな表情で見つめてくる彼女に、繊也はふと不思議な印象を抱く。

――――彼女は本当に人なのだろうか? もしかしたら自分達を導く為に、天から遣わされた者ではないだろうか?

あまりにも現実離れした、夢話の様な印象。そんなものを抱いてしまう何かが、愛結には有ったのだ。

繊也は暫しの間、何も言わずに愛結の顔を眺める。真澄もそんな彼の横で、惹かれた様に愛結を見つめていた。

そのまま数分の時が流れ、不意に愛結が彼と真澄を交互に見やり、軽く笑みを浮かべた後クルリと二人に背を向けた。

「これで私の仕事は終わりです。願わくば、もうその絆が途切れぬ事を……万一また途切れた時は、再び紡ぎ直す為にお会いしましょう。

 それでは……貴方達の間にある絆に、永遠(とわ)の祝福を」

――――そう言い残し去って行ったそんな愛結の姿は、最後の言葉と相まって、とても神秘的なものに見えた。

「……ありがとうございました」

後に残された繊也は、もういない愛結に向けて再度御礼の言葉を述べた。

それは先程の一応の礼儀としてではない。心からの感謝を込めた、感謝の言葉だった。

「何だか………不思議な人だったね」

「ああ」

まるで夢を見ている様な表情で呟いた真澄に、繊也は頷く。

「本当に不思議な……けど、良い人だよ。あの人に会ったから、俺は……」

彼は徐に真澄へと視線を向ける。すると彼女も眼を上げ、見つめ返してきた。

「大切なものを、取り戻せた」

「繊也……」

真澄の二つの瞳に涙が滲む。それがあまりにも美しく……そして居た堪れないものに見え、慌てて繊也は口を開く。

「あ、そ、そうだ、真澄! その、退院したらよ……またピザ作ってくれよ」

「えっ、ピザ?」

「そう。久しぶりに食べたいんだ……真澄のピザ」

「!」

瞬間、真澄の表情が輝く。それは昔の彼女には常に有った、繊也が一番彼女らしいと思う表情だ。

(本当に……取り戻せて良かった)

喜びが満ちたり、全身を駆け巡る。彼はそれを実感しつつ、答えの分かりきっている問いを真澄に投げる。

「ダメか?」

「……ううん! 私も久しぶりに、繊也に食べてもらいたいし。あ〜あ、早く退院したいなあ……」

両手を後頭部に回し、退屈そうに伸びをした真澄に、繊也は思わず苦笑した。

「ったく……とても自殺未遂で入院した奴の台詞とは思えねえな」

「もう、そういう事言う? あ……そうだ繊也、何のピザ食べたい? あれから結構レパートリー増えたんだよ。

 ツナマヨとかボスカイオラとか、後マリラーナとかも作れる様になったし……ねえ、ご希望は?」

「そうだな……」

――――ピザだけは上手に作れる彼女の事だ。きっとどれも美味だろう。けれど、ここはやはり……。

考えは一瞬で纏まり、繊也は長い間する事のなかった、少年の様な笑顔と共に元気よく真澄に告げた。

「やっぱ真澄の十八番、マルゲリータで」

 

 

 

 

 

 

 


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