〜もう一度、二人で絵を〜

 

 

 

 

 

 

 

「ん?」

とある町のショッピングモールを訪れていた朝樹(あさき)は、ふと催し物が開かれている事に気づいて足を止める。

それはどうやら絵画展覧会らしく、小規模な会場にポツポツと風景画が並べられていた。いや、果たしてそれを風景画と呼べば良いのか、彼には分からなかった。

――――銀色に輝く月を映し出している湖。二重三重の虹が空に掛かる沼地。青と赤の雪が降り、紫の雪原が広がる丘。

どれもが現実味の無い、幻想的な風景。見ていると、何だか胸に感傷的な疼きが生じてくる絵だった。

朝樹はいつの間にか時間を忘れ、暫しのそれらの絵を呆けた様に眺めていた。と、その時、ふと何かを思い出しかける。

(この絵……いや、こんな絵……昔、何処かで……)

そう思った彼は懸命に記憶を辿るが、その糸はとても細く短く、中々伸ばした手で掴む事が出来ない。

思い出せない、しかし確かに記憶に有る。そんな歯痒い気持ちに襲われながら絵を眺めていた朝樹は、不意にすぐ隣から声を掛けられた。

「素晴らしい絵ですね。……貴方には懐かしくありませんか?」

「っ!?」

戸惑いながら横を見ると、二十代から三十代ぐらいに見えるスーツ姿の女性が、穏やかな微笑を浮かべながら立っていた。

キッチリとスーツを着こなしている割に、手荷物は小さなカジュアルバッグだけ。化粧っ気も無く、小奇麗な印象の女性だった。

「えっと……今の僕に言いました?」

「はい」

たどたどしく尋ねた朝樹に対して、女性は即答すると同時に頷いてみせる。そして、次にこう言った。

「貴方には、幼馴染がいますね?」

「…………はい?」

何の脈略も無い問いに、朝樹は暫く絶句した後、盛大に首を傾けながら間の抜けた声を出す。

しかし、女性はまるで意に介さないといった感じで質問を続けた。

「この絵を見て、その事を思い出したのではないのですか?」

「……すいません、言っている事の意味が分かりません。というか、誰ですか?」

「これは失礼しました。申し遅れましたが私、こういう者です」

女性は笑顔を浮かべたまま、胸元のポケットから一枚の名刺を取り出すと、朝樹に向けて差し出す。

彼はそれを訝しがりながらも受け取ると、しげしげと書かれている文字に眼を落とした。

『途切れかけている絆、紡ぎ直します。 隋縁 愛結(ずいえん あゆ)』

「……何かの宗教団体の方ですか?」

失礼とは思いながらも、朝樹は疑念を最大限に含んだ愛で女性――隨縁愛結に尋ねる。

けれども彼女は些かも気分を害した様子を見せず、相変わらず微笑んだまま彼に言った。

「いえいえ。私は何処かに所属したりしている者ではありません。ただ私がしたい事、そして私に出来る事を成す為に生きている者です」

「はあ」

「それで、先程の質問ですが」

朝樹が名刺を懐に仕舞うのを待って、愛結はそう言いつつ首を傾げてみせる。

「貴方には、幼馴染がいますね? この絵を見て、その事を思い出したのではないのですか?」

「……質問と言うか、確認に聞こえるんですけど?」

「まあ、頭の切れる方ですね。その通りです」

嫌味のつもりだったのに上手く返され、朝樹は無意識に唇を噛み締める。

何と言うか、酷く面白くない。いや面白くないと言うよりも、体よくあしらわれている感じで気分が悪い。

大体、彼女の言っている事は無茶苦茶だ。そう思った彼は不機嫌を露わにしつつ、吐き捨てる様に言った。

「残念ですけど、僕に幼馴染なんていませんよ。確かに、この絵が何となく昔の記憶に有る様な気はしましたけど、ただそれだけで……」

「忘れてるんですね」

「はい?」

まるでこちらが間違っている様な物言いに、朝樹は半ば睨む様な眼つきで愛結を見る。

「何ですか、一体? 貴女、さっきから何を……」

「私は貴方に言葉を贈りに来ました。ただ、それだけの事です」

「言葉? 何ですか、それ?」

「…………確固たる自分の世界を持っている人は、其処へ招き入れる人を臆病なまでに選びます」

「えっ?」

「それは言い換えるならば、招き入れた人がとても大切な存在だと言う証明。どれだけ月日が流れても……確かな約束をしていなくても、待ち続けている筈ですよ」

そう言うと愛結は、困惑している朝樹に構わず踵を返した。

「あ、あの、ちょっと……!」

先程まで邪見な態度をとっていたにも拘らず、朝樹は反射的に愛結を呼び止める。

そんな彼の声に、愛結は足こそ止めたものの、振り向かずに背を向けたままこう言った。

「私が貴方に贈る言葉は、それだけです。それでは、また……貴方の大切な絆が紡ぎ直された時に」

言い終えた彼女は、少しだけ朝樹の方に顔を向け、微笑で軽く一礼する。そして、再び背を向けると瞬く間に買い物客の群れの中へと消えて行ってしまった。

その後ろ姿を無言で見送っていた朝樹だったが、やがて愛結が見えなくなると、複雑な気持ちで飾られている絵画へと視線を向ける。

(何の話だったんだ、今の? 良く分からないけど、どうも引っ掛かる事が……っ!?)

愛結の言葉を反芻していた彼は、ある事を思い出す。

(この絵の感じ、知っている……っ!………そうだ、彼女の……)

瞬間、朝樹の脳裏に忘れられていた記憶が一気に蘇る。同時に、疼く様な心の痛みが、彼の胸を襲った。

朝樹は慌てて絵画の下に有る、著者名が記されてあるボードへと眼を落とす。するとそこには『夢世(むよ)』という名が有った。

苗字が無い為、恐らくは雅号だろう。そう判断した彼の耳に、先程甦らせた一人の少女の声が響く。

――これは、私の夢見る世界なの。

「まさか……」

思わず口から漏れた曖昧な言葉とは裏腹に、朝樹の心は既に確信を持っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ええっと……『画家』で『夢世』と……」

急いで帰宅した朝樹は、靴を脱ぐのももどかしく部屋に上がるとパソコンを立ち上げてネットを開く。

そして先程の画家の雅号を入力し、検索を始めた。程無くして、ディスプレイに検索結果が表示される。

すると、ネットユーザーが自由に編集できる辞典サイト『ネット百科』のページが最初に有るのが眼に留まり、彼は無意識に独り言を呟いた。

「へえ、此処の項目が有るって事は、全くの無名って訳じゃないみたいだな。何々……?」

朝樹は、すぐにその『ネット百科』のページにアクセスして内容を確認する。

しかし編集が雑なのか、或いは本当に不明なのか、そこには殆ど何も書かれておらず、申し訳程度に簡単な経歴が書かれているだけだった。

「世間に出てきたのは、一年前か。でも、これだけじゃなあ……せめて、プロフィールくらい……ん?」

軽く失望しつつページを下にスクロールさせた彼の眼に、『夢世』本人のサイトへのリンクボタンが映る。

躊躇いも無くそのボタンを押すと、いくつもの小さな絵が描かれているページへと飛んだ。

瞬間、朝樹は息を呑む。何故ならば、それらの絵のどれもが記憶の中に有ったからだ。

――――蒼き龍が猛々しく泳ぐ海。星々が降り注ぐ野原。満月の下で砂漠に聳え立つ水晶の宮殿。

(っ、間違いない。この絵は、彼女の……)

自然と高鳴る鼓動を抑える様に片手を胸に当てながら、彼はページを開き『夢世』の事を調べる。

プロフィールはすぐに見つかったもの、自信が画家であり女性であるという事以外は全く記されていない。掲示板の類も無く、訪問者との交流は考えていないのが見て取れた。

ただ救いだったのは、活動スケジュールのページが有った事だ。眼を通し、三日後に近くでサイン会を行うのが分かると、朝樹はすぐに部屋の壁に掛けているカレンダーに印を入れる。

丸を書きこんだ瞬間、彼の手からポトリとペンが落ちる。その時になって初めて、彼は自分の手が震えている事に気が付いた。思わず苦笑が口から零れる。

「今から緊張したって、何にもなんないのにな……」

自嘲地味にそう呟くが、手の震えも胸の鼓動も静まりはしない。

――――歓喜と恐怖からなるこの緊張は、きっと彼女と会うその時まで続くだろう。

そう思いつつ、朝樹は静かにパソコンの電源を落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女の名は、美夜(みよ)と言った。

その名の通り夜の闇の如く黒い髪を持った少女で、朝樹とは小学校に入学した直後から高校を卒業するまで一緒のクラスだった縁――幼馴染と言って差し支えない存在だった。

ただ幼馴染と言っても、自分と彼女はそこまで親しかった訳では無いと、朝樹は思う。

家が隣同士だとか、親同士が知人友人だとか等という、物語で良く有る様な要素は皆無だったし、いつも一緒に遊んでいたという訳でも無かった。

けれども、同じ閑散な郊外に住んでいた為に通学路は自然と同じとなり、毎日の様に顔を合わせる事になっていた。そうなると、どうしたって縁は生まれるし情も湧く。

故に男女間に生まれる特有の気恥ずかしさも無く、変に意識もせずに会話できる相手だった。だが、言い換えるならその程度の中だった。

それぞれ相手に自分の話をする事も無かった為、趣味嗜好も全くと言って良い程に知らないし、知ろうともしないままだった。

二人揃って社交的な性格とは言えなかったから、当然と言えば当然の事ではある。だから幼馴染というよりは、限りなく顔馴染み――普通の知り合いとして接する日々が続く事になった。

そのまま高学年になり、やがて中学校に入学しても、二人の関係は変わる事はなかった。むしろ、変わる必要性を感じてなかったのだと、朝樹は考える。

近くも無く、遠くも無い絶妙な距離感。それを彼は気に入っていた。そして恐らくは、美夜も同じだった筈だ。だからこそ、二人の距離は不動のままだった。

中学卒業後の進路は同じだったが、それも取り立てて驚く事でもない。単に近くに高校の数が少なく、選択肢が限られていただけの事だ。

そして高校でも、この距離感は変化しない。朝樹は、そう思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――変化の兆しが現れたのは、高校一年三学期の、寒さが身に染みる一月の週末の事だった。

その日は生徒全員で、体育館にて映画鑑賞をする行事が有った。映画鑑賞という事に関しては、特に苦痛という訳では無い。退屈な授業が潰れるのだから、楽と言えば楽な時間だ。

しかし、『体育館』でというのがいただけない。ただでさえ寒いと言うのに、どうして更に寒い思いをしなければならないのだろうか?

一応、石油ストーブが数台設置されるとはいえ、広い館内では大して意味は無い。

精々、ストーブの傍に陣取っている教師達を暖めるだけに留まり、館内の中央で寒さに身を震わせている生徒にその恩恵は得られなかった。

そうなると、脱走者や脱落者が出てくるのも不思議な事ではない。この日、美夜は前者で朝樹は後者だった。

美夜は体育館に入る前からいつの間にか姿を消しており、元々少々のサボり癖が有った彼女はそのまま放置されていた。

朝樹はというと、映画が始まって間もなく腹痛を催してトイレへと向かい、用を足した後も戻る気にならずにガランとした校内を歩き回っていた。

校内も決して暖かくはなかったが、それでも体育館に比べれば十分に落ち着ける。尚更戻りたくなくなった彼は、無意識に自分のクラスへと足を向けていた。

そこで鑑賞会が終わるまで一眠りしようかと考えながら教室へと近づいていくと、不意に何かの物音がして朝樹は立ち止まる。

物音は教室の中からしていた。耳を澄ませてみると、チョークを使っている音だった。誰かが黒板に、チョークを走らせているらしい。

興味をひかれた朝樹は、無意識に足音を立てない様に注意しつつ、教室のドアへと進む。

誰かが見回りに来る等とは、考えていなかったのだろう。周囲の窓は閉まっていたがドアは全開になっていて、中の様子は丸見えの状態だった。

彼はそこから顔だけを突き出して、そっと教室の中を覗いてみた。

「っ」

思わず朝樹は息を呑む。

中に居たのは美夜だった。普段は滅多に使われない様々な色のチョークを使って黒板に絵を描いている。

どうやら相当に楽しいらしく、幸せそうな笑顔でチョークを走らせ、時折手を止めて出来栄えを眺めては、またチョークを走らせる。

今まで見た事が無かった美夜の表情に、いつしか釘付けになっていた朝樹は、ふと何か恥ずかしさを感じて彼女から眼を逸らした。

そして彼女の描いた絵をハッキリと視界に定めた途端、再び息を呑んだ。

――――幻想的。

恐らくは、そう表現するのが最も正しいだろう。黒板の緑を基調とした森が、そこには広がっていた。

紅い日差しの中を青い鳥が飛び、その下ではカラフルな湖の中に黄色い小さなボートが浮かんでいる。

そのボートの中に、一人の少女らしき人が立っていた。恐らく、髪型からして彼女自身だろう。

(絵は人の内面を映すって、何処かで聞いた事が有るけど……)

美夜の絵に眼を奪われつつ、朝樹はそんな事を考える。だとすれば、これが彼女の心の内――彼女の世界なのだろうか?

「はあ……」

無意識に、朝樹の口から溜息が漏れた。それは様々な思いを含んだ、感嘆の溜息だった。

しかし、彼がそう思っていたとしても、他人にそれが伝わるとは限らない。今この時も、そうだった。

溜息を聞き、誰かがいる事を悟った美夜は、さっきまで浮かべていた笑みを消して身を竦ませる。

そして溜息のした方――朝樹の方へと振り向くと、まるで犯行現場を目撃された臆病な犯罪者の様に怯えた顔をした。

「あ、ご、ごめん、僕……」

「っ!!」

反射的に謝ろうとした朝樹だったが、美夜は彼の言葉を待たずして黒板の下に置かれていた黒板消しを掴む。

そのまま自身の絵を消そうとした彼女を見て、朝樹は慌てて大仰に両手を振りながら声を上げた。

「あーあー! ストップストップ! 勿体無い勿体無い!!」

「えっ?」

驚いた美夜が、キョトンとした表情をしつつ動きを止める。

朝樹はその隙に教室へと入ると彼女の気分を害さない様に、慎重に賛辞の言葉を選んで口にした。

「絵、上手だね。凄く綺麗だよ」

「……そうなの?」

小首を傾げながら呟いた美夜の言葉に、朝樹は少し疑問を感じた。

――――感想を言われた際に「そうかな?」と言うなら分かるが、「そうなの?」は妙ではないだろうか?

そう思った彼は、やや戸惑いながらも彼女に頷いてみせる。

「うん。初めて知ったよ。美夜に絵の趣味が有ったって」

「趣味って言う程のものじゃないわ。ただ、良く絵を描くってだけ」

「……それを趣味って言うんじゃない?」

「そうなの?」

まただ。朝樹は思わず苦笑いしてしまう。そう返されると、こちらがどう言えば良いのか分らなくなってしまう。

仕方なく彼は、先程と同じく……しかし今度はスムーズに頷いてみせた。

「うん、そうだよ」

――だって凄く笑顔だったじゃないか。

自然と脳裏に浮かんだその言葉を、朝樹は敢えて言わなかった。言ってしまえば、きっと恥ずかしがると思ったからだ。彼女ではなく、自分が。

「そう。なら……そうなのかしらね」

まるで他人事の様に呟いた美夜は、ふと思い出した様に「朝樹もサボり?」と尋ねた。

彼は「半分はね」と答えると、何となく開けっ放しだった教室のドアを閉める。

元より静かだったのだから、それで何かが変わった訳では無かったが、気持ち更に静寂さが増した様に朝樹は感じた。

「今日寒かったじゃん? だからお腹壊しちゃって、トイレに行かせてもらったんだ。で、また戻るのが億劫だったから、ブラブラしてたって訳」

「成程」

納得した様子で美夜は頷くと、まだ持ったままだった黒板消しを元の場所に戻す。

そして、少し黒板から離れて自らが創り出した森を眺め、次いで朝樹へと視線を向けながら「ねえ」と呟いた。

「何?」

「これ、本当に上手だと思う?」

「うん。……描いた本人からしてみれば、違うの?」

「そういう訳じゃないけど……誰かに感想を言われた事って無いから」

「ああ、そういう事」

朝樹はやっと、先程の美夜の言葉に隠された意味を理解する。

要するに彼女は、今まで誰かに自分が描いた絵を見せた事がなかったのだろう。だから誰からも感想を言われた事も無く、それ故の「そうなの?」だったという訳だ。

引っ掛かっていた疑問が解け、スッキリした気分になった彼だったが、次の瞬間ある考えが浮かび複雑な気持ちになる。

故に、自然と朝樹の口から謝罪の言葉が発せられた。

「ごめん」

「?……どうしたの、急に?」

「いや、見られたくなかったんじゃないかなって。自分の描いた絵をさ」

「ああ……」

美夜は軽く眼を伏せながら呟くと、静かに首を横に振った。

「別にそんなつもりは無かったわ。だから、気にしないで」

「そっか。なら良いんだけど……あ、そうだ!」

「?」

ふと何かを思いついた朝樹は、不思議そうに首を傾げた美夜を横目に自分の机へと近づく。

そして、机の横のホックに掛けてあった鞄を開けると、中から携帯を取り出した。

「だったら、せっかくだし写メ撮っていいかな? 上手だし、残しておきたいんだ」

「え、撮るって……この絵を?」

「あ、ダメ?」

苦笑しつつ朝樹が尋ねると、美夜は暫し困った表情で何度も彼と黒板に視線を行き来させる。

余りにも困惑している様子なので、堪り兼ねた朝樹が自分の要求を取り下げようと口を開きかけると、彼女は躊躇いがちに右手の掌を見せた。

「もうちょっと……」

「えっ?」

「もうちょっと待って。まだ完成してないの、これ。ほら、ここ」

握っていたチョークを湖の端に置きながら、美夜は言う。

「この辺りが寂しいでしょ? だから、何か描こうかなって思ってるんだけど……」

「動物を?」

「やっぱり、そうなるかしら。何かアイディア有る?」

「う〜〜ん……」

急に意見を求められた朝樹は、無意識に人差し指で頬を掻いた。

自分に芸術的なセンスは皆無だと思っていた彼だから、咄嗟に尤もらしい発想を言う事が出来ない。

とはいえ、ここで「僕には分からない」と言うのも、何だか格好悪いだろう。妙なプライドが働いた朝樹は、やがてポツリと呟く様に言った。

「湖で水を飲んでる天馬……とか?」

途端、美夜の表情がパッと明るくなった。それはまさに『花が咲いた様な笑顔』で、朝樹は胸に疼く様な痛みを覚える。

何故そんな痛みが生まれたのかは分からなかった。と言うよりも、そこまで考えが回らなかった。

彼はただただ、見知った少女の見知らぬ笑顔に眼を奪われてしまっていた。

「素敵ね、それ。うん、決まり。天馬にしましょう」

言うなり美夜は、すぐさま黒板へと近づくと天馬を描き始める。

瞬く間に……いや、実際には結構な時間が経っていたのかもしれない。だが、とにかく朝樹の眼にはいつの間にか、森の中の湖で水を飲んでいる見事な翼を携えた天馬が映っていた。

(うわ、本当に上手だな)

美夜の画力に圧倒された朝樹は、二匹目の天馬を描き始めた彼女の背中を見つめる。

と、その内に自分でも理解できない衝動に駆られ、美夜に悪いとは思いながらも彼女に声を掛けた。

「ね、ねえ?」

「うん?」

楽しくて仕方が無いといった表情で、美夜が振り返る。

「その……僕も一緒に描いていい?」

「どうぞ」

即答だった。

あまりに予想外の返答に彼が呆けた顔で口を開けると、美夜はクスクスと笑みを零す。

「もう、何よ? 私、変な事を言ったかしら?」

「そ、そうじゃないけど……」

「なら、ほら。一緒に描きましょう」

新しいチョークを手に取り、彼女はそれを朝樹へと差し出しながら促す。

おずおずと美夜へと近寄りチョークを受け取った彼は、妙な緊張感と共に彼女の左に立って黒板を眺めた。

「えっと、どんなのを描けばいいかな?」

「どうぞ、朝樹の思うがままに」

「……良いの?」

「ええ」

そう言って、また美夜が微笑む。近くで見ると、朝樹には尚更その笑顔が眩しく感じられた。

「これは、私の夢見る世界なの」

ゆっくりと黒板の中の森へ振り向きながら、彼女は瞳を伏せながら呟く。

「一切の穢れの無い、優しさと愛で満たされた世界。こんな世界で、静かに時の流れに身を任せて生きる……それが私の夢」

「……っ……」

この時、朝樹はどうして美夜がこんな事を言うのか分からなかった。

――――彼女がこんな絵を描くのは、彼女の内に秘めた哀しみを癒す行為だと知るのは、これから暫く先の事になる。

「……変な考えだと思う?」

「まさか。素敵な考えだよ」

微かに自嘲を含んだ笑みで問いかけてきた美夜に朝樹は即答すると、彼女から手渡された桃色のチョークを黒板に置く。

たどたどしく、しかし決して雑ではない手捌きで、彼は野に咲く桜の花を描きあげた。

「こんな花畑が有るのって、どうかな?」

「ええ、素敵な発想だわ。絵も上手だし、朝樹って凄いのね」

「美夜程じゃないよ」

「そうなの?」

「うん、そう」

ややぎこちなくも笑みを浮かべて朝樹が頷いてみせると、美夜は何度か眼を瞬かせた後、吹き出す様に笑った。

そして、「貴方がそういうなら、そういう事にしておくわ」と言うと、ふと何を思いついた様に声を上げた。

「あっ、そうだわ」

「?」

首を傾げてみせた朝樹に、美夜はウインクしてみせると湖の真ん中で佇んでいたボートにチョークを置く。

そのままチョークを走らせた彼女によって、いつしかボートはもう一人が乗れる程の大きさになっていた。

「せっかくだし、乗ったら?」

「え、良いの? だって、この森は君の世界なんだろ? 他の誰かが居ちゃ……」

「良いのよ、私がそう思うんだから。ここは私の世界。居るべき人、居て欲しい人は私が決めるの」

――だから……ね?

気のせいかもしれないが、そう言った美夜の瞳は潤んでいる様に朝樹は見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

それから少しの間、朝樹と美夜は幸福の時間を共有し合った。朝樹は右利きで美夜は左利きだったから、何度も肘がぶつかり合い、その度に顔を見合わせて意味も無く笑う。

長い年月を近くで過ごしてきた二人だったが、この時、本当の意味でお互いを近くに感じていた。

たからなのか、朝樹はしくじってしまった。時間の経過を忘れてしまっていたのだ。我に返った時には、映画鑑賞を終えた生徒達の足音が聞こえていた。

その瞬間、美夜から笑顔が消えた。彼女は乱暴に黒板消しを掴むと、鬼気迫る表情で絵を消しにかかった。

朝樹はそんな美夜に何も声を掛ける事が出来ず、ただ呆然と消えていく森――彼女の世界を眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

――――放課後。

行事をサボった事で呼び出しを喰らい、職員室で長々と説教を受けた朝樹は、同じ境遇の美夜と並んで校門を出た。

尤も、これ自体はありふれた光景だった。帰宅部で特に学校に長居する理由が無い二人は、いつも大抵同じ時間に下校する。

ただ今日は少々遅い時間であるが故、周囲に生徒の影が無い事が普段との大きな違いだった。それと何となく、普段よりも互いの距離が近い事も。

「家に着く頃には、もう真っ暗ね」

学校が遠ざかり、駅までと続く閑静な住宅街に差し掛かった所で、唐突に美夜が口を開いた。

「帰ったら、今度はパパからの説教だわ。ああ、憂鬱」

「へえ、門限が有るんだ?」

「まあね。家、結構お堅いから」

言いながら、美夜は微笑んだ。けれども、何処かその笑顔には陰りが有る。

何か負の感情が含まれる事には気づいた朝樹だったが、それが明確に何なのかまでは分からなかった。

「何なら家まで送ろうか? そこまで離れてる訳でも無いし、先生に手伝いを頼まれたとでも言えば……」

「やめてよ。余計に怒られるわ。男子と一緒に帰ってなんて知れたら」

「……ひょっとして、お父さんが凄く過保護?」

「…………かしらね」

美夜はまた、先程の陰りの有る笑みを浮かべた。その表情と言葉が、朝樹に言葉を封じさせる。

――――これ以上、彼女のこの話題に触れてはいけない。

自分の中の何かがそう警告しているのに気付き、彼はわざとらしく「ああ」と明るい声を出して話を変えた。

「だけど残念だったな」

「何が?」

「さっきの絵。結局、写メ撮れなかったし」

朝樹がそう言うと、美夜が一瞬眼を見開いた後、気恥ずかしそうに肩を竦めながら口を開く。

「ごめんなさいね。夢中になってて、皆が来るのに気付かなかったから。普段はもう少し、気をつけてるんだけど」

「それは僕も同じだよ。楽しくて……周りとは違う世界に居るみたいだった」

「っ……そう」

言いつつ、美夜がまた笑う。けれどもそれは先程とは違う、純粋に喜んでいるが故の笑顔に朝樹には見えた。

何だか無性に彼女が可愛く見えた彼は、まだ彼女と話し続けたいと思う。けれども、そう思えば思う程に、何を話せば良いのかが分からなくなっていく。

間を作ってはいけないと思えば思う程、焦るばかりで口が動いてくれない。そうこうしている内に、二人は駅へと辿り着いてしまっていた。

タイムアップだと、朝樹は無意識に悟る。そして、それは間違っていなかったとすぐに分かった。

駅前には、もう日も暮れがちだと言うのに道草を食っている学校の生徒達が大勢居た。連中を見て微かに溜息をつきながら横を見ると、案の定美夜は普段の硬い表情に戻っていた。

(秘密主義って奴かな?……う〜〜ん、それとも単に恥ずかしがり屋ってだけ?)

声を掛ける機を逃した朝樹はそんな疑問を抱くが、当然それを美夜に訊ねる事はしない。した所で答えてくれないだろうし、彼女の気分を害してしまう事は明白だったからだ。

それは、無意識に自分と距離を離しつつある彼女の態度から、容易に想像できた。

「ねえ……」

だが、分かっていても朝樹は何だか悲しくなって美夜へ声を掛ける。しかしその声は、駅に電車が到着する際のアナウンスによってかき消されてしまった。

「あっ、いけない」

短くそう叫んだ後、美夜は朝樹には眼もくれずホームへと走り出す。胸に疼く様な痛みを覚えた彼もまた、彼女の後を追う様にして駆けだした。

――――こうして二人は他の大勢の生徒達に紛れ、この日、もう会話する事は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

――――翌日の土曜日。

朝樹は昨日の出来事でモヤモヤとしている気分を晴らす為、家と学校の中間に位置する町のショッピングモールへと足を運んでいた。

定期を使えば学校付近の、もっと賑やかで充実したモールにも行けるのだが、彼は決まって休日に出掛けるのは此処と決めている。

理由は単純で、先生や同級生達に出くわす可能性が低いからだ。平日はともかく、休日まで学校の連中に煩わされたくない。

(う〜ん、今日は収穫無しだな、こりゃ)

ほぼ定番と化している本屋、ゲームショップ、レンタルビデオ店といったコースを回り終えた朝樹は、軽く落胆しつつ嘆息した。

ふと視線に入った自動販売機でお茶を買うと、彼は休憩を取るべく近くのベンチに腰掛ける。そしてペットボトルの蓋を空けながら、何気なく周囲を見渡した。

この付近に有るのはファンシーショップやブティックといった、正直自分には縁遠い店ばかりで、興味は欠片も湧かない。

なので、ボンヤリと忙しなく動く人々を眺めていた朝樹だったが、不意に見知った人物が眼に留まり、思わず声を上げた。

「あっ……」

それは美夜だった。手提げ鞄を携えながら雑貨屋の隅に立ち、何かをジッと見つめている。しかし、一つ気になる事が有った。

(何だ? あの湿布……)

左頬に大きな湿布を張った彼女は、遠目からでも十分過ぎるくらいに目立つ。事実、通りかかった子供が彼女を指差し、親に窘められる光景が幾度となく朝樹に眼に映っている。

しかし、美夜自身は周囲の事等は気にせず、彫像の様に微動だにしない。その姿を眺めていた朝樹は、彼女に声を掛けるべきか否かという葛藤に駆られた。

だが、彼がその葛藤に決断を下す前に、事態は動く。何かを感じ取ったのか美夜が突然こちらの方に振り向き、必然的に視線がぶつかった。

すると彼女は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに恥ずかしそうな笑顔で軽く手を振ってみせる。反射的に笑みを返した朝樹は、意を決して彼女の方へと近づいていった。

「昨日はどうも」

「あ、うん……何を見てたの?」

朝樹が訊ねると、美夜はスッと人差し指を伸ばして、答えを指し示す。その方向に視線を移した朝樹の前には、額縁が幾つか飾られていた。

「これ?」

「ええ」

「欲しいの?」

「いつか……出来たらね」

そう言って美夜は笑った。瞬間、朝樹は自分が危うい発言をした事に気づく。

――あの笑顔だ。昨日みた、何処か暗い……陰の有る笑顔。

咄嗟に彼は話題を逸らそうと口を開いた。しかし、考えている時間を作らなかった為、発した言葉は危ういものとなってしまう。

「え、ええと……どうしたの、その湿布?」

言い終えた直後、凄まじい後悔と恐怖が朝樹を襲った。すぐにでも撤回したかったが、それよりも早くに美夜の表情が変化する。

一切の感情が消えた表情になった彼女は、そこはかとなく悲しみを込めた雰囲気を醸し出しながら言った。

「……やっぱり、気になる?」

「あ、いや、その、言いにくい事なら……」

「パパよ」

事も無げに美夜が言い放った言葉に、朝樹は唖然とし、同時に耳を疑う。

「……今、なんて?」

「っ……パパよって、言ったの」

―――――そう笑う美夜の瞳は、明らかに泣いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「緑茶でいい?」

「ええ。ジュースより、そっちの方が嬉しいわ」

ベンチに腰掛けている美夜の返事に、朝樹は無言で頷くとボタンを押す。

小気味良い音と共にペットボトルが取り出し口に現れ、それを手に取った彼はゆっくりと彼女に差し出した。

短く礼を言い、美夜がお茶を受け取る。そして暫し苦戦した後に蓋を空けると、一口喉へと流し込むと小さく嘆息する。

朝樹はそうしている彼女の隣に腰を下ろすと、まだ残っていた自分のお茶を飲んだ。

それっきり、二人の間には沈黙が流れる。朝樹はどうにかして美夜に声を掛けようとするが、その方法が分からない。

――――親に殴られたと告げ、瞳だけで泣いている女の子への声の掛け方が。

「父子家庭なの、私」

突然の美夜の呟きに、朝樹はハッと我に返り彼女を見やる。しかし美夜は彼の方には視線を向けず、ただジッと中空を見上げたまま続けた。

「ママの顔は知らない。私が物心ついた頃には、もう居なかったから。だから覚えてる限りでは、私はずっとパパと二人っきり」

「亡くなったの?」

朝樹の問いに、美夜は眼を伏せながら首を横に振る。

「出て行ったのよ。元々、仲が悪かったみたい。今でも毎日お酒を飲みながら、ママの悪口ばっかり言ってるし」

「もしかしてお父さん、アルコール依存症?」

「だと思うわ。好きだから飲むんじゃなくて、紛らわす為に飲んでるの。苦痛とか絶望とか、そういった負の感情を忘れる為に」

そこまで言うと、美夜はゆっくりと朝樹を見る。そして、人差し指で頬の湿布を差し示しながら言った。

「これは、その時にね。いつもは相手しないようにしてるんだけど、昨日はちょっと……」

「一体、何が?」

「進路の事よ。良く有るでしょう? 親と子で意見が食い違って言い争いになるって展開」

「そう……なの?」

言った瞬間に朝樹は、まるで昨日と逆だなと思う。

どうやらそれは美夜も同じだったらしく、軽く吹き出した後「昨日の私みたいね」と言い、こう続けた。

「ええ、そうよ。パパは私に、真っ当……というか稼げる仕事に就いて欲しいの。でも、私はそんな事を考えてない。ただ、静かに暮らしたいだけなの……絵を描きながらね」

美夜のその言葉に、朝樹はある事を感じ取る。見えない線が形を作り、疑い様の無い確信となって彼の口から発せられる。

「それが殴られた原因って事?」

「ええ。パパは昔から芸術が嫌いなの。だから私は、家で絵を描く事はままならなかった。画用紙なんか使ってたら、すぐにバレて怒られるのがオチだから」

「じゃあ、どうしてたの?」

「ノートに描いてたのよ。勉強する振りをして、こっそりとね。ちゃんと隠しておいたつもりだったんだけど、昨日帰ったら、くしゃくしゃの状態で投げつけられたわ。ほら、こんな風に」

そう言って美夜は、手提げ鞄の中から一冊のノートを取り出す。成程彼女の言う通り、それはくしゃくしゃの状態だった。

しかし朝樹はそれ以上に、ノートの彼方此方が色褪せたり角が取れたりしている事に注目する。それが示す事実――彼女がこのノートを長い年月に渡って使い続けてきた事実に。

「ねえ?」

「うん?」

「ちょっとだけ、中を見せてくれない? 良かったら、だけど」

「え、でも……見れたものじゃないわよ。中もくしゃくしゃだし、それ以前に……雑に描いてるのばかりだし」

戸惑いの言葉を口にしつつも、美夜はおずおずとノートを朝樹の方へと差し出す。彼は小さく頷いてそれを受け取ると、捲るのに苦労しつつも表紙を開いた。

「っ!」

反射的に、朝樹は息を呑む。確かに美夜の言葉通り、色鉛筆で書かれた中の絵はラフ画ともいうべき物だった。

だが、それでも素晴らしさが伝わってくる絵だ。昨日の黒板に描かれたあの森と比べても、何ら遜色ない。

――――蒼き龍が猛々しく泳いでいる海。

圧倒される何かを感じながら暫くその絵を眺めていた彼は、やがてそっとページを捲った。

――――星々が降り注ぐ野原。満月の下で砂漠に聳え立つ水晶の宮殿。

次々と現れる幻想的な風景は、どれもこれもが本当に素晴らしいものだった。朝樹は改めて、美夜の画力に驚愕する。同時に、その豊かな想像力にも。

「も、もう! そんな熱心に見ないでよ。恥ずかしいわ」

「あ、ゴ、ゴメン!」

どれくらいの時間が経ったのか、不意に聞こえた美夜の言葉に、朝樹は慌てて顔を上げて彼女にノートを返す。

「でも凄いね、本当に。こんな絵、今まで見た事が無いよ」

「っ、褒め過ぎよ。単に気晴らしで描いてたものよ、これ。辛い時とか悲しい時とか、そんな時に」

仄かに頬を染めながら、彼女ははにかんだ。

その可愛らしさに、朝樹は自分も頬が熱くなるのを感じつつ首を横に振る。

「そんな事無い。画家にだってなれると思うよ」

「そ、そう? じゃあ、もしそうなったら、ちゃんと挨拶に来てね。展覧会とか、サイン会の時にちゃんと」

「うん」

朝樹が頷くと、美夜は数回眼を瞬かせた後、恥ずかしそうに眼を逸らした。

「もう、冗談よ。真に受けとらないでよね」

「あ、そうなの?」

「っ……ええ、そうよ」

苦笑した美夜は、残っていたお茶を一気に喉へと流し込む。そして瞬く間に飲み干すと、立ち上がって空になったペットボトルをゴミ箱へと投げ込んだ。

「さてと、私そろそろ帰らないと。お茶、御馳走様でした」

「え、帰るって……お父さん、大丈夫なの?」

「大丈夫よ。どうせ、そろそろ酔い潰れて眠ってる頃合いだし。それじゃあね」

微笑と共に軽く手を振ると、美夜は朝樹に背を向けて歩き出す。

朝樹は咄嗟にその背中に声を掛けたい衝動に駆られたが、結局何も言葉を見つけられず、ただ無言で彼女を見つめた。

時間にすれば、一分と経たずに美夜は彼の視界から姿を消す筈だった。けれども歩き出して十秒と経たない内に、ふと彼女が足を止め、こちらへと振り返る。

「ありがとう」

「え? あ、お茶の事? だったら、そんなに何度もお礼を言われる程の事じゃ……」

「違うわよ。絵の事」

「……絵の事?」

「そう」

美夜は暫し眼を伏せた後、先程のはにかんだ表情を浮かべながら口を開く。

「褒めてくれてありがとう。今まであんな言葉、言われた事は無かったから、凄く嬉しかった」

「そ、それは……どういたしまして」

動揺しつつ朝樹が返事をすると、美夜は両手を後ろで組んで軽く上体を傾け、意識して茶目っ気を演出しつつ言った。

「昨日も……一緒に絵が描けて楽しかった。もっと早くから貴方に絵を見せて、あんな風にしてたら良かったなって思ったわ。だから……ありがとう」

(……?)

美夜の言葉に、朝樹は引っ掛かりを覚えたが、それが何なのかは分からない。

そんな釈然としない気持ちを抱えながらも、彼はぎこちなく頷いて彼女に応えた。

「う、うん。その……また明後日」

朝樹が別れの挨拶を言うと、美夜は微笑んだまま片手をヒラヒラと手を振ってみせる。

そして身を翻すと、行き来する人々の群れへと紛れ、程無く朝樹の眼に入らなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この日を最後に、朝樹は美夜を見ていない。誰にも告げる事無く、彼女は失踪したのである。

当初こそ驚き、また悲しんだ朝樹だったが、月日が経つにつれ次第に落ち着きを取り戻し、また同時に美夜の事を忘れていった。

だが、十年近くが経過した今……朝樹は気づく。

――――自分は彼女を忘れてはいない。ただ、胸の内の奥深くに仕舞いこんでいただけだったのだ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(大分変わっちゃてるけど、所々見覚えがあるな、やっぱり)

『夢世』のサイン会が行われる場所へとやってきた朝樹は、キョロキョロと辺りを見回しながらそう思う。此処は、学生時代に彼がよく訪れていたショッピングモールだった。

名前や内装が変化していた為、昨日ネットで調べた時は分からなかったが、今こうして歩いていると懐かしさが込み上げてくる。そして同時に、彼は確信が更に深まるのを感じていた。

腕時計を見て、時刻を確認する。そろそろ閉会の時間に差し掛かる頃合い。丁度良い時間だった。朝樹は一つ深呼吸した後、会場へと歩き出した。

サイン会場は一階のイベントホールだった。程無くして其処に辿り着いた彼の眼に、疎らな人混みとテーブルに座っている女性の姿が眼に映る。

そう、彼女こそこの会の主役である『夢世』だ。参加者と順々に短い会話を交わし、サインを渡している。

飾り気の無い眼鏡を掛け、標準よりもかなり痩せ細っている彼女は、決して手放しに褒められる容姿ではない。

それでも朝樹には、彼女がとても美しく見えた。それは錯覚でも何でも無く、彼にとって真実である他無いからだ。

――――夜の闇の如く黒い髪。聞こえてくる心地良い声。何処か影の有る笑み。

見間違える筈も無い。朝樹は無意識に息を呑んだ。

(美夜……)

本能的に逃避の感情が生まれてくる。それでも彼は懸命にそれを押し殺し、更に歩を進めた。

係員に呼び止められ、「貴方で最後にさせて頂きます」と言われ、列に並ぶ。数分の待ち時間の後、遂に朝樹は彼女と眼を合わせた。

「今日はお越し頂き、ありがとうございます」

彼女が形式的な挨拶を述べると、彼もまた形式的な挨拶を返し持参した色紙を差し出す。

慣れた手付き……悪く言えば事務的な手つきでサインを書き上げた彼女は、笑みと共に色紙を朝樹へと手渡した。

そこに若干の疲れと、安堵の色が有る。これで仕事が終わったという、開放感から来る色。それが朝樹にとって、彼女がまだこちらを認識していない事の証拠と見えた。

――――彼女は忘れてしまったのだろうか? 自分は一目で、彼女が分かったのに……。

胸に小さな痛みが奔る。だが、それに気を取られてこのまま引き下がる訳にはいかない。

せっかくこうして会いに来たのだ。彼女の中に自分がいるのかどうか、確かめなくては来た意味が無い。

そう決意を固めた朝樹は、徐に口を開いた。

「冗談じゃ、なかったね」

「えっ?」

驚いた様子で、彼女がこちらを見つめる。その顔を……瞳をまっすぐに見据えながら、彼は続ける。

「ちゃんとこうして挨拶に来たよ。……美夜」

言い終えた途端、彼女の両眼が見開かれる。

「朝……樹?」

信じられないといった様子で呟いた美夜に、彼は笑顔で頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この絵は、あの辺りにお願いします。こっちは……そうね、向こうに」

テキパキと運営の人達に指示をしている美夜を、朝樹はすぐ傍から眺めていた。

そしてふと彼女から視線を外すと、自分が今居る場所をグルッと見回す。

かなり広いフロアだ。あの時――ショッピングモールで開かれていた展覧会場の数倍は有った。

このフロアの至る所に、美夜の絵が鏤(ちりば)められている。言い換えるなら、このフロア全域が彼女の夢見る世界で埋め尽くされていた。

「今度のは、随分と盛大な個展になりそうだね」

「っ……そうね。本当、世の中は分からないものだわ」

大仰に肩を竦めた美夜が、溜息と共にそう呟く。その表情には疲れの色が隠せなかったが、同時に確かな喜びの色も有った。

「こうもトントン拍子に事が進むとは、欠片も思ってなかったから。まっ、大半は運が良かっただけなんでしょうけど」

「それも含めて、美夜の実力って事じゃ無い?」

「……そうなの?」

苦笑交じりの彼女の言葉に、彼は懐かしさに涙が出そうになるのを懸命に堪えながら頷いた。

「うん。きっと、そうだよ」

「クス、ありがとう」

そう笑う美夜の顔に、例の陰りは無い。それが示す意味――彼女の世界に、自分が入る事が許されている事を実感し、朝樹は胸が熱くなる。

――――再会を果たして、早数か月。

この数か月で、随分と自分の周りに変化が訪れたと、朝樹はふと追憶に浸る。

美夜と再会した、あの日。自分達は予め決められていたかの様に同じ夜を過ごした。

誘ったのは彼女の方からだ。これに朝樹は酷く驚き、そして狼狽した。

嬉しい事に間違いは無かったが、長らく思い出しもしなかった彼女を求めて良いのかどうか。いや、それ以前に、彼女が自分にそこまでの好意を向けている事が、朝樹には信じられなかった。

だから正直にその旨を美夜に告げると、突然唇を塞がれて押し倒された。そして、困惑する朝樹の胸に顔を埋めながら、彼女はこう言った。

――忘れちゃった? 貴方は私の世界に居るべき人……居て欲しい人って言ったの。

蟠(わだかま)りが解ける決め手はそれだった。その後、朝樹はベッドに横たわり美夜の背中を撫でながら、別れてから再開するまでの身の上話に聞き入った。

 

 

 

 

 

「家を出たのは、あの日の夜。朝樹と別れた後、家に帰ってすぐに支度して……パパに最後の夕食を作ってから、駅に行って電車に飛び乗ったわ」

「っ……凄い行動力だね。僕にはとても真似できない」

「別に凄くないわ。ちゃんとアテが有っただけ。この町から少し離れた町に、昔から良くしてくれてる親戚の夫婦が居るの。そこでお世話になってたの」

「そこで、絵の勉強を?」

「勉強って言うのかしらね。ただ、描き続けていただけよ。二人の手伝いをしながら、画用紙に私の夢見る世界を」

「理解有るご夫婦だったんだ」

「ええ。そうした日々が数年続いて……二年くらい前だったわ。小母さんの友達に絵画が趣味の人が居て、私の絵を欲しいって言ってきたの」

「その人が初めての買い手?」

「まさか。その人から一銭も貰わなかったわ。向こうはお小遣いをくれるって言ってきたけど、丁寧に断った。私は自分の絵が欲しいって人が居たってだけで、嬉しかったから」

「でも、その人が切っ掛けになったんだろ? 美夜が画家になる為の」

「まあね。その人、交友関係の広い人で、よく大勢を家に招いてパーティとかしてたらしいの。で、その時に私の絵を集まった皆に自慢してたらしいわ」

「成程。それで美夜の絵を求める人が増えた、と」

「そうなるかな。で、何だから知らない内にドンドンと私の絵の事が広まっていって、売れるようになっていって……気づいたら、本当に画家になっちゃってたって訳」

「……あまり、嬉しそうじゃないね」

「そりゃ、そうよ。最初は嫌で嫌で仕方が無かったわ。描きたいから描いてた絵がお金に代わっていくのって、お世辞にも気持ち良いものじゃ無かったし」

「へえ、そういうもの?」

「そういうもの。売れる事は売れても、私が思ってるイメージとは見当違いの評価をされる事とかザラだったし」

「なら、どうして描くのを止めなかったの?」

「……気づいてよ」

「えっ?」

「貴方に見つけて欲しかったのよ。他に理由が有ると思う?」

「あっ……」

「自分のサイトにあの絵達を載せてたのも、その為。もし覚えていてくれたら、見つけてくれたら、会いに来てくれるんじゃないかって……我ながら少女趣味よね」

「……っ……」

「でも、朝樹は本当に会いに来てくれた。あの時から、ずっと好きだった朝樹が。それが何よりも嬉しい」

「そ、そうだったの?」

「ええ、そうよ。本当は行方をくらます時も、貴方にだけはちゃんと挨拶したかった。でも、出来なかった。私には、あんな挨拶が精一杯だった」

「美夜……」

「せっかく幼馴染って言ってもいい関係だったのに、勿体無い事をしたなって、ずっと思ってたわ。だから今……こうして朝樹が傍にいる事が、とても嬉しい……んっ!?」

「……僕も同じだよ、美夜」

「っ、朝樹……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……痛っ!」

「もう、何一人で嬉しそうな顔してるのよ?」

不意に背中を軽く叩かれて我に返った朝樹は、ジト眼でこちらを見ている美夜に誤魔化しの笑みを向けた。

「な、何でも無いよ。ちょっとボンヤリしてただけ。ゴメン」

「本当? どうも、やらしい事を考えてた様な顔だったけど?」

「はは、まさか」

当たらずとも遠からずな彼女の言葉に知れず冷や汗を流しながら、朝樹は小さく手を振って否定した。

そんな彼に、美夜はまだ何か言いたそうだったが、苦笑交じりに溜息をつく。それは所謂、深く追求はしないという彼女なりの優しさだった。

つまる所、彼女は察しているのだろう。こちらが何を思い、何を考えていたのかを。

(敵わないな、これは……)

朝樹が、心の中でそう呟いた時だった。

「どうやら、無事に紡ぎ直されたみたいですね」

「「っ!?」」

突然きこえたその声に、朝樹と美夜はハッとして声の方向へと振り返る。

すると、そこにはいつの間にかスーツ姿の女性――愛結が微笑と共に立っていた。

「あ、貴女は確か……隨縁、さん?」

「クス、愛結で結構ですよ」

「朝樹? 知り合いなの?」

「う、うん。前にちょっと、お世話に」

朝樹が頷くと、美夜は数度眼を瞬かせた後、怪訝そうな表情で愛結に視線を向ける。

「あの、どうして此処に? 関係者以外は、立ち入り禁止になってた筈なんですけど」

「失礼はお詫びいたします。ですが、どうぞご容赦を。報酬の受け取りに来ただけですから」

「ほ、報酬? あ……まあ、そうですよね。確かに、こちらとしてもお礼はしたいです」

財布を取り出しながら、朝樹はそう言う。

考えてみれば、彼女と出会ったから美夜の事を思い出せたとも言えるのだ。

――――途切れかけていた絆を紡ぎ直す。

それが自分の仕事だと、愛結は言った。ならば、見事にその仕事を成し終えた彼女に報酬を渡すのが筋だろう。

そう思いながら財布の中の紙幣を手にした朝樹だったが、そんな彼を愛結が制した。

「いえいえ、お金は頂きませんよ。もう報酬は、頂いてますから」

「?……どういう意味ですか?」

「貴方達の大切な絆を、この眼で見る事が出来た。それが私にとって何よりの報酬なのです」

愛結はそう言うって一礼すると、静かに踵を返す。

そして、顔だけを朝樹と美夜に向けながら、優しい口調でこう告げた。

「これで私の仕事は終わりです。願わくば、もうその絆が途切れぬ事を……万一また途切れた時は、再び紡ぎ直す為にお会いしましょう。それでは……貴方達の間にある絆に、永遠の祝福を」

言い終えると、愛結は個展の準備を続けている運営の人達に中に紛れていく。

不思議な事に、誰も彼女に訝しげな視線を向けず……いや、まるで気づいていないかの様に、それぞれの仕事に没頭していた。

そして暫くして、不意に彼女の姿が隠れたかと思うと、もうその姿は何処にも見えなくなっていた。

「朝樹……」

どれくらいの時間が流れたのか、ボンヤリとした声色で、美夜が朝樹に訊ねる。

「何?」

「あの人…………人だったのかしら?」

「っ……どうだろう。僕には分からない。ひょっとしたら……」

「ひょっとしたら?」

「神様だったのかも知れないな。人と人との縁を司る……そんな神様だったのかも」

朝樹が自身の感想を述べると、美夜は暫し彼の顔を見つめた後、愛結が消えて行った方へと視線を移しつつ「そうね」と相槌を打った。

「とても現実的な考えとは言えないけど……私、そういう考えは好きよ」

「だろうね。だからこそ、こういった絵が描けるんだし」

随分と陳列されてきた美夜の絵達を見渡しながら、朝樹は微笑む。だが、ふと有る事に気づくと、無意識に眉を顰めた。

(あれ、そう言えば……)

――――湖畔。荒野。沼地。砂漠。丘陵。山。海。空。

どれも美夜らしい、幻想的で美しい風景だ。彼女の心の中……夢見る世界だと言うのがひしひしと伝わってくる。

しかし、一つだけ足りない風景が有る。それに気づいた朝樹は、不思議に思って美夜に訊いてみた。

「ねえ、美夜?」

「うん?」

「あのさ、森の絵が一枚も無いんだけど……どうして?」

すると、美夜は両眼を大きく見開いたかと思うと、額に手を当てて盛大な溜息をつく。

それから彼女の落胆を感じ取った彼は、狼狽した様子で再度訊ねた。

「え? え? 僕、何かマズイ事を言った?」

「っ……本当、鈍感なんだから。理由なんて、一つしか無いでしょう?」

「一つ?」

キョトンしながらそう言った朝樹に、美夜は心底呆れた表情で口を開いた。

「森の絵は、貴方と一緒に描きたいのよ。だから、今まで一枚も描いてないわ。今回も……ちょっとまだ、落ち着いて無かったから」

「僕と一緒に?……あっ!」

朝樹の脳裏に、かつて黒板に描かれた美しい森が蘇る。

――――紅い日差しの中を飛ぶ青い鳥。カラフルな湖に浮かぶ黄色いボート。並んで水を飲む天馬。咲き乱れる桜の花畑。そしてボートに乗る一人の少女と一人の少年。

「気づいたみたいね」

「っ……うん」

――――そう、彼女がずっと取っておいたのだ。あの時、未完成に終わったあの絵を……いつかもう一度、今度こそ二人で完成させようと。

「そっか、そうだったんだ。ゴメン、気づくのが遅くて」

「まあ、気づかないよりは、ずっと良いから許してあげる。それで……お願いしても良いかしら?」

「勿論」

美夜の頼みに、朝樹は大きく頷いた。

「もう一度、一緒に描こうよ。あの時に……高校の時に黒板に描いた、あの森をさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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