〜“強さ”という呪縛〜
もう用は済んだにもかかわらず、あれこれと喚きたてる男に、凛穂(りほ)はうんざりして溜息をついた。
そして男に背を向け、歩き出す。すると、一際大きい怒号が背中越しに聞こえた。
「おい、待てよ!!」
だが、凛穂は振り返らない。とにかく、一刻も早くこの場を離れたかった。そうでなければ、軽はずみな行動を起こしてしまう可能性があったから。
しかし、そんな凛穂の思いも空しく、事態は悪化する。
業を煮やした男が、後ろから乱暴に凛穂の肩を掴んだのだ。そして、強引に振り返らされた彼女の眼に、拳を振り上げた男の姿が映る。
すると次の瞬間、凛穂は殆ど無意識に行動に出ていた。
素早く男の鳩尾に裏拳を叩き込み、苦悶の声と共に前屈みになった男の裏に回り込むと、その首筋に手刀をお見舞いする。
的確に急所を突いた凛穂のその二撃で、男はあっさりと沈んでしまった。
無様な格好で気絶した男を、暫く見つめていた凛穂だったが、不意に左胸に激しい痛みを感じて、思わず顔を顰めた。
「っ!……はあ……はあ……また、やっちゃった」
短くも苦しい時間が終わり、凛穂は後悔の念に苛まされる。
――――医者からも再三止められてる事なのに、こうして暴れてしまったのは何度目だろうか?
勿論、何も好き好んで暴れたい訳ではない。自分の身体の事を考えれば、絶対に避けるべき事なのだから。
それにも拘らず、こうして手段に出てしまうのは、昔の癖が染みついているからなのかもしれない。
――――あるいは昔の様に振る舞いたいという、無意識に抱いている願望か……。
「はあ……嫌になるわ、本当」
「お辛そうですね」
「っ!?」
突然に聞こえた女性の声に、凛穂は驚いて身を竦ませる。
そして声の方へと振り向くと、二十代から三十代ぐらいに見えるスーツ姿の女性が、穏やかな微笑を浮かべながら立っていた。
キッチリとスーツを着こなしている割に、手荷物は小さなカジュアルバッグだけ。化粧っ気も無く、小綺麗な印象の女性だった。
「だ、誰!?」
「ご心配なく。私はそちらの男性の関係者ではありませんから。したがって、貴女の行為を咎めるような真似はしません」
相変わらず気絶したままの男を一瞥すると、女性はそう言った。その口調は穏やかで、発せられる言葉も何となく信用できそうに感じられなくもない。
しかし、凛穂にしてみれば、薄気味悪い事に変わりはない。
――――男の関係者じゃないというのであれば、一体何者だというのであろうか?
当然ながら、そんな疑問が凛穂の脳裏を掠め、女性への不信感を強める。更にこんな場面を見られた以上は、あまり関わりたくないというのが正直なところだった。
だから彼女は軽く女性に頭を下げると、独り言の様に「失礼します」と言うや否や身を翻し、足早にこの場を立ち去ろうとした。
けれども、今にも駆け出そうとした後ろから掛けられた言葉に、思わず動きを止めた。
「貴女には、幼馴染がいますね?」
「……え?」
それは、何の脈絡もない問いかけ。それにも拘らず凛穂が振り返ってしまったのは、女性の言葉が真実だったからだ。
すると驚愕の色が顔に出ていたのだろう。女性は徐に凛穂へと近づくと、懐から名刺を取り出しつつ言った。
「そんなに驚かないでください。仕事柄、分かっただけですから。……私は、こういう者です」
差し出された名刺に、凛穂は眼を落とす。そこには、こう書かれていた。
『途切れかけている絆、紡ぎ直します。 隋縁 愛結(ずいえん あゆ)』
「えっと……」
まるで身分が分からないその文面に、凛穂は困惑する。そして、戸惑いがちに女性――隨縁愛結を見た。
しかし、隨縁愛結は全く気分を害したり臆したりする様子も見せず、相変わらず穏やかな笑みを浮かべながら言う。
「不審に思うお気持ちは分かります。ですが、私を表すのに、それ以上に適切な言葉は見つからなかったのです」
「慈善活動団体のとかの方……ですか?」
「いいえ。私は何処にも所属してはいません。私の仕事は、私一人で成すべき事ですから。それでは、念の為に確認しますが……貴女には、幼馴染がいますね?」
「あ……は、はい」
脳裏に一人の少年の顔が自然と浮かぶのを感じながら、凛穂は頷く。すると、隨縁愛結も大きく頷いてみせた。
「でしたら、私は貴女に言葉を贈りましょう。それが私に出来る、貴女への唯一の事ですから」
「言葉?」
「ええ」
すると途端、隨縁愛結の眼に真摯な光が宿ったように、凛穂は見えた。
それは一瞬の事で、気のせいかとも思ったが、次に隨縁愛結が発した言葉には、変わらぬ穏やかな口調でありながらも、眼と同じような真摯さが込められていた。
「…………人は“強さ”を望みます。そして同時に、“弱さ”を忌み嫌います」
「っ……」
凛穂は、胸の中心を突かれたような衝撃を受ける。そんな彼女に向けて、隨縁愛結は言葉を続けた。
「だからこそ、多くの人が“強くなれ”と願い、教え込まれて生きています。そんな中で、“弱くても構わない”と思うのは、とても難しいことなのかもしれません」
「……っ……」
激しく脈打ち始めた心臓に、凛穂は手を当てる。呼吸が荒くなり、額に汗が浮かんでくる。
「ですが、本当は貴女も気づいている筈です。“強さ”や“弱さ”を理由に、人を愛したり憎んだりするのは間違いなのだと」
そこまで言うと、隨縁愛結は静かに身を翻す。そして、用事が済んだとばかりに歩き始めた。
凛穂は思わず手を伸ばしつつ声を掛けようとしたが、それよりも早くに隨縁愛結が遠ざかりながら言った。
「私が貴女に贈る言葉は、それだけです。貴女も早く此処から立ち去った方が賢明ですよ」
「あ……そ、そうですね」
すっかり忘れていた男の存在を思い出し、凛穂はハッとする。
そして、隨縁愛結から眼を逸らして男を眺めていると、先程よりも遠くなっている彼女の声が聞こえてきた。
「それでは、また……貴方の大切な絆が紡ぎ直された時に」
――――その声に凛穂が再び隨縁愛結の方へと視線を向けた時、不思議な事に既に彼女の姿は何処にも無かった。
自宅へと戻った凛穂は、何かに導かれる様に、久しく眼もくれていなかった机の一番下の引き出しを見つめた。
鍵付きの引き出しの中には、自分が長い間、封印している物がしまってある。捨てるには忍びないが、さりとて大切とも思っていない物。
――――いや、正確には“大切とも思っていないと思っている”というのが正しいのだろうか?
自問自答しつつ、凛穂は机に上に置いてある古びた貯金箱の蓋を空ける。すると、小銭に紛れて一つの鍵が埋もれていた。
その鍵を手に取ると、彼女は徐に引き出しの鍵穴にその鍵を埋め込み、やや緊張した手付きで解錠する。
そして静かに引き出しを開けると、中には一枚の少々色褪せた写真だけが入っていた。凛穂はその写真を手に取り、じっくりと眺める。
――――幼い女の子と男の子が、並んで映っている写真。少しばかり嫌がっている男の子の腕を、女の子が笑いながら掴んで寄り添っている写真。
「……勇磨(ゆうま)……」
無意識にそう呟いた凛穂の眼から、一筋の涙が流れる。その涙は雫となって、写真の中の女の子――幼い自分の顔に落ちた。
凛穂と勇磨は、小学校に入学する前からの知り合い――幼馴染だった。
お互いの父親が、二人の生まれる前に近所の空手道場の門下生として知り合い、親友となったのが全てのきっかけである。
家は離れていたが、家族ぐるみの付き合いは数えきれない程にあり、それこそ実のきょうだいのように、幼少期の凛穂と勇磨は育った。
活発で健康な凛穂と、物静かで身体の弱い勇磨。正反対と言って差し支えない二人だったが、特に衝突する事も無く、常にひっついて行動していた。
二人で道を歩いている時、何かの拍子に凛穂が駆けだせば、置いて行かれまいと勇磨も走り出す。しかし、いつも必ず足がもつれて転んでしまう。
転んだ彼は暫くすると嗚咽と共に身を起こし、立ち上がると眼を両手で抑えながら盛大に泣き始める。
そんな勇磨を見て、凛穂は走るのを止めて彼に歩み寄り、宥めながら涙を拭いてあげる。やがて泣き止んだ勇磨は、舌たらずな声でこう言う。
「凛穂ちゃん、ありがとう」
その言葉に、凛穂はこう返す。
「勇磨君、もっと強くならないとダメだよ」
すると、勇磨は決まってこう締めくくる。
「別にいいよ。僕は凛穂ちゃんじゃないもん。僕はこのままでいいの」
「もう。しょうがない、勇磨君」
腰に両手を当て、呆れた調子で凛穂が言うのを合図に、二人は意味も無く笑いだす。暫くして笑うのを止めると、どちらともなく手を繋ぎ、二人で歩き出す。
――――凛穂が幼少期の記憶の大部分を占めているのが、このような記憶だった。
おぼろげな記憶の中には、喧嘩したようなものも残っていなくはない。しかし、それは例えるなら、池の底に沈む小石の様に、不安定に揺らめいていて不確かなものだ。
だから凛穂にとっては、勇磨は大切な幼馴染であったのだ。そういう思い出を、彼女は今まで抱えて生きてきた。
――――決して消える事の無い、己の過ちと共に。
凛穂の父親と勇磨の父親は、揃って“人は心身共に強くなければならない”という信念の元に生きている人間だった。
よって当然ながら、自分の子供にも、そういう信念に沿った教育を施す事になる。
したがって凛穂と勇磨は、生まれてからの取り決めであったかの様に、小学生になると同時に、親と同じ空手道場に通うようになった。
――――これが二人の距離を徐々に広げ、心が擦れ違い始める出来事だったのだと、凛穂は思って……いや、確信していた。
空手、即ち武道の稽古は言うまでも無く厳しい。その上、同じ空間に自らの父親がいるというプレッシャーもあり、凛穂にせよ勇磨にせよ、空手はお世辞にも楽しいとは言えなかった。
しかし、凛穂は元々我慢強く、そして父親の信念に共感していたことも手伝ってか、徐々に空手の稽古に慣れていき、苦にならなくなっていった。
体力も技術も着実に向上していき、中学生に上がるくらいには、大会で優勝するくらいのレベルまでに到達する。
対して勇磨はというと、生まれつきの性格かセンスか、あるいは両方の要素故か、一向に上達しないままだった。
稽古に慣れる気配も無く、何年経っても体力も技術も平均以下のままで、勿論父親から厳しく叱責されるようになる。
そして、それが更に勇磨を後ろ向きにさせる原因となり、次第に彼は稽古をサボるようになり始めた。
いや、サボり始めたのは空手の稽古だけではない。中学二年生になる頃には、勇磨は学校にも姿を見せない日が多くなっていった。
この頃になると、凛穂と勇磨の距離は成長からくる男女の意識からか、徐々に離れていっている最中だった。
昔のように一緒に遊ぶこともなくなり、学校でしか顔を合わせないような関係になっていたので、勇磨が不登校気味になると、更に二人の関係は薄くなってしまっていた。
勿論、凛穂は勇磨の事を気に掛けてはいたが、だからといって何をしてあげれば良いのか分からず、更に父親から遠回しに勇磨と縁を切るようにも言われていた。
“強さ”を何よりも信条とする父親にとって、勇磨のような人間は唾棄するべき存在なのだろう。それが分かってしまうからこそ、凛穂は動くに動けなかった。
―――彼女自身、そんな父親と同じような考えに、自分自身でも知らぬ内に染まっていっていたのだから。
――――そうして、やがて迎えた中学三年生の十二月のクリスマス。この日が凛穂にとって、悪い意味で忘れられない一日となった。
この日は朝から雪がちらつき始め、町全体がホワイトクリスマスだと浮き足立っていた。夜にもなれば盛り上がりは最高潮に達し、幸せそうな家族や恋人達が町に溢れていた。
そんな町を、凛穂は一人歩いていた。この日も彼女は空手の稽古に励み、その帰り道の途中だった。
道着の入った鞄を肩越しに担いで歩いていた凛穂は、すれ違う人々を眺めながら大きく溜息をつく。
「毎年毎年、よくもまあ飽きずに騒げるわね……」
思わず漏れてしまった悪態に、軽い自己嫌悪に陥った。
いつの頃からか、自分はこういったイベントを楽しむ事を忘れてしまったのだと、凛穂は気づく。
毎日毎日、勉強と稽古を繰り返すだけの日々。最初は嫌がっていた筈なのに、いつしかその事も忘れて、そんな日々に慣れてしまっていた。
娯楽は人を堕落させるものだという考えを持ち始め、他人と友好関係を結ぶことも疎かにし、ただただ自己の鍛錬に明け暮れる日常。
気が付けば凛穂は、いつのまにか独りになっていた。それでも特に苦に感じなかったのは、彼女に強い自負があったからだである。
成績優秀で、かつ『空手に打ち込んでいた』というおあつらえ向きのエピソードを持つ凛穂は、人生で初めての受験も有名校への推薦入学がスムーズに決定していた。
教師達や両親から手放しに絶賛され、それが更に凛穂の自負を強める。だから凛穂は、自分が独りである事に不満はなかった。
――――今のように、時折感じる寂しさや虚しさを感じる事がある以外には。
「……早く帰ろう」
微かに感じた胸の痛みを紛らわすように鞄を掛け直すと、凛穂は足を速めた。と、その途端、曲がり角から現れた誰かとぶつかってしまう。
「きゃっ!?」
「うわっ!?……あ、すいません。……って、あっ……凛穂」
「あ……勇磨……」
予想だにしていなかった突然の邂逅に、凛穂は戸惑いを覚えて本能的に勇磨から距離を取る。
しかし、そのまま立ち去るという事も出来なかった彼女は、軽く眼を伏せた後、なるべく自然に見える笑顔を作りながら口を開いた。
「久しぶり。思ったより元気そうじゃない」
その言葉に、嘘は無かった。
殆ど学校に来る事もなくなっていた勇磨と顔を合わせるのは本当に久々だったが、眼の前の勇磨は凛穂が覚えている勇磨となんら変わりなかった。
相変わらず身体は細く、暗めの表情だが生気が無いというわけではない。内気な男子という言葉がピッタリな、いつもの勇磨だった。
「あ……うん」
勇磨はそう言いながら小さく頷くと、「それじゃあ」と身を翻して立ち去ろうとした。
その時、凛穂は彼がリュックサックを背負っている事に気付く。自分の記憶が確かならば、勇磨は外出時には基本手ぶらだった筈だ。
財布や鍵といった必要最低限の物も、上着のポケットに入れていたと思う。
だからなのか、なんとなく気になった凛穂は、立ち去りかけていた勇磨の肩に手を掛けて引き留めながら訊ねた。
「珍しいわね、リュックなんか背負って。どこか行ってたの?」
「……ううん」
「え? じゃあ……まさか、これからどこか行くの? あんたが?」
もう夜とはいえ、夜更けには程遠い時間帯。外出するのが珍しいという時間帯ではない。
とはいえ、勇磨に限って言えば“あり得ない”といってもおかしくはない話であった。
だからこその疑問だったのだが、返ってきた勇磨の答えは凛穂にとって完全に予想外の言葉だった。
「……うん」
「……マジ? どこ行くのよ?」
「……っ……」
それから暫く、勇磨は何度も忙しなく瞬きをしつつ、複雑な視線を凛穂へと向ける。
昔から、彼はこうだった。自分の事を誰かに話すのが、彼は酷く苦手だったのだ。
「何よ? 人に言えないような所に行くわけ?」
「……凛穂の知らない所だよ」
少しばかり苛立ち交じりになった凛穂の言葉に、勇磨はそう返事する。
しかし、凛穂からすれば、答えになっていない言葉だ。なので彼女は、苛立ちを強めて彼に訊ねる。
「へえ、私の知らない所なんだ?……で、どこなのよ?」
「だから、凛穂の知らない所だって」
「こっちの意図ぐらい察してよ。具体的な場所を訊いてんのよ」
「…………凛穂に相応しくない場所」
「なにそれ?」
相変わらず抽象的な物言いをする勇磨に、凛穂は更に苛立ちを強める。
こうも感情的になるのは久々だとボンヤリ思いつつ、彼女は不機嫌を露わにして言った。
「あんた、私をからかってるわけ?」
「……なんで僕が、凛穂をからかわなきゃいけないの?」
「じゃあ、なんなのよ? その曖昧な言い方は? あんたって昔っからそうよね、全く。そういうところは直した方が良いって言ってるでしょ? なのに……」
「うん、知ってるよ」
こちらが言い終わらない内に口を挟んできた勇磨に、凛穂は唖然として言葉を失う。
記憶にある限り、彼がこんな事をした覚えは無かった筈だ。虚を突かれ、動揺を覚えた彼女の眼に、はにかんだ笑みを浮かべた勇磨が映った。
「凛穂は……凛穂は昔から強いもんね。強くて逞しくて……弱いものを嫌うんだ」
「ゆ、勇磨……?」
「きっと凛穂のような人が、正しいんだよね。心身共に強くて、自分の意見をハッキリ言って、必要があれば躊躇いなく力を振るう。分かってる。それでも……それでも僕は、そういうのを好きになれない」
そう言いながら勇磨は、眼を細めながら自身の手を眺める。
「いくら空手を続けたって、僕は強くならなかったし、なりたいとも思わなかった。自分の欲を押し通す事も、力を振るう事も、僕はしたくなかった」
「勇磨……あんた、何を言ってるの?」
懺悔の様な、それでいて何処か吹っ切れた感じのする勇磨の言葉に、凛穂は困惑と不安の感情を抱く。
しかし勇磨は、そんな彼女の声が耳に入っていないのか、返事もせずに自身の言葉を続けた。
「だから僕は、凛穂の知らない所に行くんだよ。その方が……僕にとっても凛穂にとっても、一番良い筈だから」
そう言い終えると、勇磨は再び身を翻す。
ようやく彼が家出をしようとしていると気付いた凛穂は、無意識に本心を口にした。
「勇磨、ちょっと……バカな事はやめなさいよ。あんたみたいな人が、家出なんで出来る訳ないでしょ?」
「……」
何も言い返してこないが歩を止めた勇磨に、凛穂は次々と言葉を合わせる。
「どうせまた、小父さんに怒られたんでしょ? 男の子なんだから、それくらいで落ち込んでんじゃないわよ。自分の事を弱いんだって諦めるんじゃなくて、強くなる努力をしたらどう?」
「……」
「嫌な事から逃げ続けてたって、結局どうにもならないんだから。問題があったら、ちゃんと向き合って……」
「凛穂」
またしても凛穂の言葉を遮り、勇磨が声を発する。
彼らしくない事に再び驚きを感じた凛穂に、勇磨は僅かに振り向きながら言った。
「凛穂は……凛穂は強いままでいてね。でないと……辛くなるだろうから」
「はあ? あんた本当にさっきから何を言って……」
「メリークリスマス、凛穂」
その言葉と共に、勇磨は去っていった。
勿論、追いかけるのは簡単だったが、凛穂はそうしなかった。勇磨の態度に、戸惑いと苛立ちを感じていたが故である。
「……はん。どうせすぐに帰ってくるでしょ。勇磨に家出なんか、絶対出来っこないんだから」
吐き捨てるようにそう言うと、凛穂は一層増した不愉快さを持て余しながら帰路についた。
勇磨は帰ってはこなかった。あのクリスマスの日を最後に、彼は忽然と姿を消してしまった。
行方は誰も知らない。知ろうとした時は既に手遅れだったのだ。勇磨を探そうと本気で思った時、凛穂にはもう彼を探す事が出来なくなってしまっていた。
代わりに彼女は、別れ際の勇磨の言葉の意味を知る事になる。
――凛穂は……凛穂は強いままでいてね。でないと……辛くなるだろうから。
本当だった。突然発症した心臓の病により、凛穂の世界は一変してしまったのである。
死こそ免れたものの無理の効かぬ身体となり、当然ながら空手を続けられなくなった彼女は、その事が理由で両親から疎まれるようになる。
“強さ”が身上であった父親、そんな信念を持つ父親に惹かれた母親にとって、“病弱な娘”等は嫌悪の対象でしかなかったのだ。
そして、それは即ち、凛穂が本当の意味で両親から愛されていなかった証明でもある。
――――両親が愛していたのは“凛穂”ではなく“強い娘”だった。
その真実に気付いた凛穂は、今まで積み重ね自分を創り上げてきたものが音を立てて崩れゆく感覚に陥った。
自負でもあった“己の鍛錬”が出来なくなった事で完全に道を見失い、周囲から向けられるのも称賛ではなく哀れみや軽蔑。罵倒するだけの父親に、無関心になった母親。
拠り所となる友の存在も無く、これまで気にせずにいられた孤独感が、強烈なものとなって凛穂を襲ったのだった。
そんな状態で充実した高校生活が送れるわけもなく、いつしか彼女はかつての勇磨と同じく学校をサボるようになり始めた。
だからといって家に居場所がある訳でもなく、凛穂は完全に自分を見失ってしまっていた。
病弱の身であるが故、喫煙や飲酒、あるいは薬に手を出す事は無かったが、ただアテもなく街を彷徨い歩くようになった凛穂からは、かつての“文武両道の優等生”という面影は完全になくなっていた。
そのまま一年、二年と淡々と時が過ぎていっても、凛穂は変わる事は無かった。そして、そんな彼女を気に掛ける存在も皆無だった。
凛穂は完全に周りから切り離され、彼女もまた周りを拒絶していた。そんな風だったから、両親が不慮の交通事故で亡くなっても、何の感情も浮かんでこなかった。
ただなんとなく、もうあの冷たい言動に悩まされる事はないのだと、漠然と思っただけだった。
そして更に年月は流れ、凛穂は大人になっていた。少なくとも、肉体的には。だからこそ、生きていく術を見つけるのは簡単な事だった。
かつての彼女なら、きっと忌み嫌っていた生き方だっただろう。しかし、自暴自棄になっていた今の彼女は、特に何も感じなかった。
精神的な時を止め、少女の心のままで肌を見せる凛穂は、男達にとってどこか背徳感のある扇情さがあった。そして、“病弱”というのもまた、セールスポイントとなった。
病からくる覇気の無さが“儚さ”と映り、また一線を越える事を拒む理由にもなり、彼女は客にも金にも困る事はなかった。
時折、迷惑な客に絡まれ、条件反射的に反撃してしまい、苦しむ事を除けば、それなりに穏やかな日々を過ごしていた。
――――だが……だが、本当は…………。
「……ん……」
不意に眼を開けた凛穂の眼に映ったのは、見慣れた自室の天井だった。閉められたカーテンの隙間から、微かな光が降り注いでいる。
ボンヤリする頭を抱えながら身を起こした彼女は、状況を確認した。
――――自分の下にあるのは、自分のベッド。ベッドの隣には、乱雑に置かれたバッグ。そして、自分の手元には一枚の写真。
「……寝ちゃってたんだ」
呟きながら、凛穂は写真を――自分と勇磨の写真を眺める。
今にして思い返せば、この写真に写っている頃の自分が、最も幸せだった時期なのかもしれない。
――――小学生に上がる前。ただ幼馴染の男の子と遊んでいた頃。なんの重みも無く、“強さ”という言葉を口にできていた頃。
もう二度と戻る事のない過去が、甘美な追憶となって凛穂を包む。それに促されるまま、彼女はベッドに仰向けに倒れ、静かに泣いた。
(“強さ”や“弱さ”を理由に、人を愛したり憎んだりするのは間違い……か)
昨日出会った隨縁愛結の言葉を反芻し、凛穂は思う。もっと早く、その事に気付きたかった、と。
気付くのが遅すぎたのは分かっている。今更、どうしようもない事は分かっている。それでも凛穂は、悔やまずにはいられなかった。
そして猛烈な寂しさが凛穂を襲い、彼女にある感情を呼び起こさせる。凛穂は再び写真を眺めると、素直にその感情を口にした。
「会いたいよ……勇磨……」
呟いた後、漏れる嗚咽を堪えようともせず、凛穂は声を上げて泣いた。それは彼女の記憶にある限りで、初めての事だった。
(何処に行っても、何年経っても……クリスマスってのは賑わうものね)
仕事を終え、帰り道を歩いていた凛穂は、街行く人々眺めながらそう思う。それと同時に、胸に小さな痛みが去来した。
羨ましいという感情は沸いてこない。昔を懐かしむ気持ちも同様だった。元々彼女には、クリスマスを楽しんだ記憶が無いのだから。
ただ思い出されるのは、あの時の記憶。勇磨と最後に会った、クリスマスの記憶だった。
(丁度、こんな夜だったわよね。あの時は稽古帰りで、こんな風に一人で歩いてたら……っ!?)
俯き加減で回想に浸っていた凛穂は、曲がり角から姿を見せた人影に気付くのが遅れた。
「うわっ!?」
「きゃっ!?……あ、すいません。……っ!?」
謝罪しながら衝突した相手の顔を見た瞬間、凛穂は時が凍り付くような感覚に襲われる。
勇磨だった。最後の出会った時から数年経っているというのに、背が伸びた以外は少しも変わらない勇磨がそこにいた。
「勇……磨」
「え?……あっ!……凛穂……だよね?」
こちらに気付いたらしい勇磨が、驚いたように呟く。
「……うん」
「あ……ああ……えっと、久しぶり」
戸惑いの色を顔中に浮かべながら、勇磨はぎこちなく挨拶する。だが凛穂は、そんな彼に上手く言葉を返す事が出来なかった。
会いたいと願ってはいたが、それにしたってこれは突然過ぎる。思考回路が接触不良を起こし、何をどうしていいのかが分からない。
動揺し、困惑していた凛穂の左胸に、突如として鋭い痛みが奔った。馴染みのある、しかし決して慣れる事のないその痛みに、彼女はその場に蹲った。
「り、凛穂? どうしたの?」
「だ、大……丈夫。気にしないで、少し休めば…………っ!?」
心配そうに覗き込んできた勇磨にそう言いかけた凛穂だったが、益々激しさを増す痛みに苦悶の呻きを漏らす。
今までに感じた事のない痛みだった。時間が経てば経つ程に酷くなっていき、次第に呼吸が苦しくなっていく。
全身が震え出し、冷や汗が止まらない。果ては眼が霞んでいき、すぐ近くにいる筈の勇磨の姿さえ覚束なくなっていった。
そして次の瞬間、世界が歪む。身体が傾き、凛穂は地面へと倒れこみ、そのまま気を失った。
「凛穂!!」
――――意識を手放す瞬間、そんな勇磨の声が聞こえた気がした。
額から感じる心地よい冷たさに、凛穂は意識を取り戻す。
徐に眼を開けると、見知らぬ天井が視界に広がった。自分の部屋ではない。かといって、ホテルでもない。自分以外の誰かの部屋の天井だった。
それに気づくと同時に、自分が布団の中で横たわっている事に気付く。何気なく額に手をやると、濡れタオルが置かれてあった。
「気持ちいい……」
呟くと同時に、凛穂の頭に記憶が蘇ってくる。
――――今までにない激しい胸の痛み。遠のいていった意識。最後に聞こえた自分の名を呼ぶ声。
彼女はそれらから、今どうして自分がこうしているのかを察する。というよりも、それしか考えらなかった。
「勇磨?」
ポツリと呟くと、鍵が外される音と共にドアが開き、買い物籠を両手に抱えた勇磨が姿を見せる。
彼は凛穂が起きているのを眼にすると一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに安堵したかのような笑みを浮かべた。
「あ、凛穂。気がついたんだね」
「え、ええ……」
戸惑いながら凛穂は上半身を起こしつつ答える。勇磨が手にしている買い物籠から、ペットボトルや米――重量のある物がいくつか覗いて見えたからだ。
(昔はちょっと重い物を持つだけで、息が上がってたのに。私をここまで運んだり、随分と強くなったわね……)
知らぬ間に力をつけていた勇磨に、反対に弱くなってしまった自分が酷く惨めに思う。
それによって、凛穂が無意識に胸元のシャツを握りしめると、勇磨が心配そうに訊ねてきた。
「大丈夫、凛穂? まだ苦しいの?」
「あ……ううん、平気。でもごめんね、ビックリしたでしょ?」
「え?……ああ、急に苦しみだした事? 気にしなくていいよ。まあ……ビックリはしたけどさ」
勇磨が苦笑しながら凛穂の傍に腰を下ろし、それから凛穂も力なく笑う。
「私らしくないって?」
「っ……まあね」
一瞬竦んだ仕草を見せた後、勇磨は再び笑みを浮かべながら言った。
「病気にでも罹ってたの?」
「……罹ってたっていうより、ずっと罹ってるの」
「へ……?」
間の抜けた声と共に、勇磨は眼を見開いた。
驚愕の表情でこちらを見つめる彼に、凛穂は自嘲の溜息をついた後、口を開く。
「心臓の病気なの。あんたがいなくった後にすぐに罹って……もう長いお付き合い」
「え、あ……だ、大丈夫なの?」
「まあね。派手に動いたりしなければ、時々痛くなる以外はどうってことないわ。空手も辞めちゃったし、今はのんびりしてるから……」
「いや凛穂、僕が言いたいのは身体の事じゃなくて……」
凛穂の言葉を遮って口を開いた勇磨だったが、不意に口籠り気まずそうに眼を泳がせる。
そんな彼を見て、凛穂は悟る。彼が一体、何を言おうとしているのかを。
だから凛穂は、軽く目を伏せると、出来る限り平静を装いながら言った。
「……少なくとも、今は大丈夫よ。もう、お父さんもお母さんもいないから」
「えっ?」
「交通事故。結構前にね。それから私は、ずっと一人っきり」
「……そうなんだ……」
おそらく、余計な事を言わないようにとしているのだろう。
か細い声で相槌を打ったきり、黙り込んだ勇磨に、凛穂は微笑んでみせた。実際に微笑みになっていたかは分からなかったが。
「あんたが言っていた意味、今なら痛いくらいに分かるわ」
「……何の事?」
「何よ? 自分で言っといて忘れたの? あんたが私の前からいなくなる前に、言った事よ」
「?…………っ……ああ」
かなりの間を置いて、勇磨は納得した様子で口を開いた。きっと彼の頭の中では、あの時の自分の声が再生されているのだろう。
――凛穂は……凛穂は強いままでいてね。でないと……辛くなるだろうから。
「やっぱり……辛かったの?」
「学生じゃなくなるまではね」
凛穂はそう言うと、天井を見上げる。そこには、忘れ去ってしまいたいのに全く色褪せない過去の映像が、浮かんでは消えていった。
「お父さんからは、それはもう毎日毎日罵声の嵐よ。お母さんは何も言ってくれないし、助けてもくれない。本当にこの人達は私の両親なのかって、何回も思ったわ。進路の方はまあ、一応進学はしたけど全然楽しくなかったな。思い出になるような出来事も一切なし。気が付いたら、年齢が二十歳を越してたわ」
「何の仕事をしてるの?」
この話の流れで言えば、ごく自然な問いを、勇磨は口にした。
それに対して凛穂は一瞬躊躇したが、やがて軽く息を吐くと、無造作にシャツのボタンを外して肩を曝け出した。
すると勇磨は言葉にならぬ声を上げ、慌てて眼を反らす。経験の無い少年そのものの彼の反応に、凛穂は思わず噴き出した。
「……びっくりさせないでよ」
酷く不機嫌な声で、勇磨が言った。けれどもその顔は、未だに明後日の方向を向いている。
想像通りと言えば想像通りだが、未だに彼は女性に対する免疫が出来ていないようだった。もう少しからかってみるのも面白かったが、流石にそれはマズイと、凛穂は服を着直した。
「ゴメンゴメン。ま、でもつまり、こういう仕事よ。これでも結構人気者なのよ、私」
「……心疾患の人が、そんな仕事していいの?」
「“本番”さえしなければね」
澄ました仕草と共に凛穂はそう言うと、暫し勇磨を見つめた。未だに先程見た光景が残っているのか、彼の顔にはぎこちなさが濃く出ていた。
「軽蔑した?」
「……分からない……ただ……」
「ただ?」
「あまり……良い気分にはなれないな」
絞り出されたようなその言葉に、凛穂の心は掻き乱される。それを紛らわすかのように、彼女は話題を変えた。
「ところで勇磨、あんたの方は?」
「え?」
「だから、そっちの事。何の仕事してるの?」
「ああ……」
勇磨は徐に立ち上がり、部屋の隅にあった机の上のパソコンを開いてみせる。
「これ」
「これって……それじゃ分からないわよ」
自分の話になると不明瞭な事しか言わなくなるのは相変わらずだ。そう思いながら凛穂が促すと、勇磨は「だから」とパソコンのキーボードを軽く叩いた。
「これで仕事してる。色んな人から色んな仕事を受けて……それが僕の仕事」
「…………成程」
正直、全く分からなかったが、この調子では問い詰めても絶対に彼は話してくれないだろう。
そう察した凛穂は、せめてこれだけは確認したいと、努めて平静な調子を作りながら訊ねる。
「堅気な仕事よね?」
「当然」
即答した勇磨に、凛穂は満足した様子で頷く。それが確認できれば、とりあえずは十分だった。
「で、その仕事は儲かってるの?」
「まあ……しっかり食べていける程度には」
「凄いじゃない。昔のあんたを知る私からしたら、夢みたいだわ。立派になったじゃない、勇磨。それに強くもね」
おどけた調子でそう言った凛穂は、勇磨が憤慨するのを期待した。しかし、その期待は裏切られる。彼がしたのは苦笑だった。
「そんな事ないよ。僕は立派にも強くもなってない」
「謙遜しなくて良いじゃないの。ちゃんと自立してるんだし、昔のあんたからしたら大した進歩だと思うわよ」
「……そんな事ないよ」
そう繰り返すと、勇磨はパソコンを閉じて再び凛穂の隣に腰を下ろす。
「僕はあの頃から、何も進歩しちゃいない。ただ単に、生きる糧が偶然見つかったってだけ。本当にそれだけだよ。それ以外は昔のまま」
「本当?」
「うん。いまでも走ったら足がもつれるし、体力だって大して無いし。まあ力は……少しはついたかも知れないけど」
言葉を紡ぐ勇磨の顔に、後ろめいたものは感じられない。つまり、彼が言っているのは真実なのだろう。
そう思った凛穂は、無意識に嘆息した。
「なら……」
次いで、自嘲の笑みを浮かべる。
「私が弱くなったのね。だから勇磨が強く、立派に見えるのか」
すると勇磨は一瞬、大きく眼を見開き、それから複雑な表情を浮かべながら小さく首を横に振った。
「そんな……別に凛穂は……」
「いいの、気を遣わなくて。事実だから。私は弱くなっちゃった。心臓に病を抱えながらも、男に色を売る事で糧を得る……矮小で汚れきった女よ」
「…………でも……」
やや長い沈黙の後、勇磨はしきりに瞬きをしつつ絞り出すように言った。
「でも……凛穂は凛穂でしょ?」
「……え?」
驚いた凛穂は、勇磨の顔へと視線を向ける。すると彼は恥ずかしいのか慌てて眼を反らし、やがて俯き加減になりながら続ける。
「少なくとも、僕は……今の凛穂と昔の凛穂がそんなに変わってるとは思ってないよ。だからそんなに、卑下する必要なんか無いと思う」
「……勇磨、私の話を聞いてた? 私は見ての通り、弱くなったって……」
「僕はそんなの気にしない」
凛穂の言葉を遮って、勇磨は彼らしからぬ強い口調で言った。
「“強い”とか“弱い”とか、僕はそんな事で凛穂が凛穂なのかを判断したりなんかしない。そういう言葉……昔から嫌いだから。だから……あの時に凛穂とは違う世界に行こうって思ったんだ」
「っ……つまり、今あんたは“強さ”や“弱さ”で評価されない世界にいるって訳?」
「うん」
即答した勇磨に、凛穂は訝しげな視線を送る。
「そんな世界あるの? “強くなければ生きていけない”ってのが、この世の真理だと私は思うけど」
「あるさ。現に僕は今、そういう世界で生きている」
「どんな世界よ?」
「簡単さ。小さな狭い世界。人との関わりを最小限に抑えた世界。誰かと比べられる事のない、シンプルな世界だよ」
「……あんた、さっきパソコンで色んな人から仕事を受けてるとか言ってなかった?」
「そうだよ。パソコンを通してでしか、人は関わらないようにしてるから。だから、真の意味で“人と関わる”事は、ここ数年殆ど無かったな」
何処となく哀愁を感じさせるような素振りで勇磨は言ったが、それが虚像だと凛穂にはすぐ分かった。
彼は満足している。自分が探し求めた、理想の世界で生きている事に。そして、そんな彼に憧れの情を抱いている自分に、凛穂は気付いていた。
――――自分も彼がいるような世界に行けたなら。生まれたからずっとついて回り、失った今も尚、苦しめられている“強さ”という呪縛から解放されるなら。
「羨ましい……」
「え?」
「あっ……ゴメン、何でもない。気にしないで」
無意識に正直な気持ちが口から出てしまい、凛穂は誤魔化しの笑みを浮かべた。
けれども、どうやら勇磨には伝わってしまったらしい。彼の顔から表情が消えた。
「凛穂」
「な、何よ?」
「辛いの? 今いる世界が」
途端、凛穂は胸に痛みを感じた。それは一瞬の痛みだったが、彼女の奥の奥、真実の心にまで行き渡る鋭い痛みだった。
だから凛穂は、正直な気持ちを告げる。
「辛いわよ、そりゃあ。でも……」
そこで一旦眼を伏せ、芝居がかった仕草で勇磨を見る。
「それが生きるって事でしょ? みんな、そんな思いを抱えて生きているもんよ?」
「……それは僕に対しての皮肉?」
「そう聞こえるなら、そうなんじゃない?」
精一杯の強がりでそう言うと、凛穂は大きく伸びをして横になった。
「ごめん、起きてすぐに沢山話したから疲れたわ。私、少し眠りたいけど良い?」
勿論それは嘘だったが、とりあえず話を終わらせるには、そう言うのが一番だと凛穂は思った。
「構わないよ。その布団、予備で使ってない奴だから」
勇磨の返事に凛穂は「ありがとう」と言い、眼を瞑る。すると程無くして、睡魔が襲ってきた。
どうやら、本当に疲れていたらしい。徐々に夢の世界へと沈んでいく意識の中、勇磨の声が聞こえた気がした。
「凛穂……」
――――聞こえた気ではない。確かに聞こえていた。
「辛いなら……ううん、こんな事を言っても、凛穂には伝わらないよね」
最初は苦笑気味だった口調が、照れを含んだものへと変わっていく。
「ねえ、凛穂。僕は今でも強くなんかないけど……それでも凛穂が泣いていたら、涙を拭ってあげる事くらいはできるよ。昔、凛穂が僕にしてくれたみたいに。だから……」
――――沈んでいた意識が、徐々に呼び戻される。力を取り戻した瞼に、熱いものが込み上げてくる。
「だからさ…………凛穂もこっちに来たら? また一緒に歩くのも……悪くないと思うよ」
「……っ……」
どこまでも穏やかに話す勇磨に気付かれないようにと、凛穂は懸命に嗚咽を堪えていた。
吹き抜ける爽やかな風の中の所々に桜の花弁が混じり、何処かへと運ばれてゆく。
満開の時期を過ぎ、既に葉桜へと変わっている木も多かったが、それでも十分に春を感じさせてくれていた。
「こういう花見も悪くないわね」
車椅子に腰掛けている凛穂が呟くと、勇磨のからかいを含んだ声が返ってきた。
「いつだったか『葉桜なんか桜じゃない』って、言ってなかった?」
「……悪かったわね。分かったわよ、撤回する。葉桜も良いもんね」
苦笑した凛穂は「この辺で良いんじゃない?」と勇磨を促す。その言葉に勇磨は頷き、車椅子を押していた手を止めた。
そしてすぐ近くのベンチに座り、鞄の中からおにぎりを取り出して、その一つを凛穂に手渡した。彼女はそれを頬張ると、軽く息を吐く。
「美味しい。勇磨って料理上手よね」
「おにぎりが料理って言う? こんなの誰でも作れるよ」
「……それ、私に対する嫌味?」
凛穂が低い声でそう言うと、勇磨は「ああ」と何かを思い出したような仕草を見せた。
「そういえば凛穂、おにぎりも作れなかったよね。小学一年の頃だったっけ? ピクニックで近くの山に行った時に見た事があるけど、あの見た目は本当に……」
「勇磨、私に恨みでもあるわけ?」
恥ずかしさを誤魔化す為、凛穂は最大限に不機嫌な声を出す。しかし勇磨は全く堪える事のない様子で、首を横に振った。
「あるんだったら、今こうして一緒にいたりしないよ」
その顔は至って真面目で、声も穏やかそのものだった。凛穂が言葉を失っていると、更に彼は続ける。
「手術……無事に終わって良かったね」
「…………勇磨のおかげよ、ありがとう」
長年、凛穂を苦しめていた心臓の病。彼女がそれと別離の時を迎えたのは、ほんの二週間前だ。
勇磨が腕利きの医師を見つけてくれ、その医師の手術により、凛穂は長い付き合いだった痛みから解放されたのだ。
一体どうやってこんな優秀な医師を見つけ出せたのか、勇磨は詳しくは教えてくれない。「仕事で知り合った人だよ」としか言ってくれなかった。
更、入院や手術にかかる費用は、全額彼が負担した。凛穂が「私の事なんだから私が払う」と言っても、彼は譲らなかった。
結局は凛穂が折れ、彼女は勇磨の全面的な援助を受けて、手術を受ける事になったのである。
そして今、凛穂は久しく離れ離れだった健康な身体で、勇磨と病院の近くの公園にいる。手術の成功祝いと、少しばかり遅れた花見が目的で。
「不思議。なんだか生まれ変わった気分だわ」
おにぎりを食べ終え、澄み渡った青空を見上げていた凛穂が呟いた。
「生まれ変わった?」
「ええ。ずっと心臓に絡みついていた鎖が取れた感じ」
それは本当だった。今ようやく、自分は自由になれたのだと凛穂は強く思っていた。そして、そうしてくれたのは他の誰でもない勇磨であるとも。
――――そう。病という鎖……そして“強さ”という呪縛から、解き放ってくれたのは、間違いなく彼なのだ。そして、もっと楽に生きる世界へと連れて行ってくれたのも。
「勇磨とこうして一緒にいれてよかった」
「?……急にどうしたの?」
「別に。ただ、そう思っただけ」
首を傾げた勇磨に、凛穂は微笑みながらそう返す。
――――もう“強さ”に怯える事はない。もう“弱さ”を非難される事もない。
「そう?……あ、僕ドリンク買ってくるよ。お茶でいいよね?」
「炭酸が飲みたい」
「っ……はいはい」
言外に「病み上がりなのに」と言いたげな勇磨だったが、苦笑するだけで咎める事はせず、少し離れた自動販売機へと歩いていく。
その後ろ姿を眺めながら、凛穂は眼を伏せつつ息を吐いた。
「悪くない……本当、悪くないわ」
「どうやら、無事に紡ぎ直されたみたいですね」
聞き覚えのある声が後方から聞こえ、凛穂は驚いて振り返る。
すると、そこには隨縁愛結が前に出会った時と同じく、穏やかな微笑を浮かべながら立っていた。
「隨縁……愛結さん」
「おや、光栄ですね。覚えていてくれましたか」
「ええ、それは……」
とても大切な言葉を掛けてくれた人物だ。忘れる訳もない。
突然の再会に戸惑いつつも、何かお礼を言うべきだと凛穂は言葉を探す。
しかし、それよりも早く隨縁愛結が満足そうに頷きながら「ありがとうございます」と言った。
何故、自分が礼を言われるのか分からず、凛穂は訊ねる。
「あの、どうして私にお礼を?」
「簡単な理由です。私が成した仕事の報酬……それを頂いた事へのお礼です」
「報酬? 私は別に何も貴女に……」
心当たりがなく戸惑う凛穂に、隨縁愛結は微笑のまま首を横に振った。
「たった今、頂きましたよ。貴方達の大切な絆を、この眼で見る事が出来た。それが私にとって何よりの報酬なのです」
隨縁愛結はそう言うと、会釈した後に踵を返す。
「これで私の仕事は終わりです。願わくば、もうその絆が途切れぬ事を……万一また途切れた時は、再び紡ぎ直す為にお会いしましょう。それでは……貴方達の間にある絆に、永遠の祝福を」
次の瞬間、一際強い風が吹き、桜の花弁や葉が舞い、凛穂は思わず両手で顔を覆いながら眼を閉じる。
やがて風が止み、彼女が眼を開けると、先程までいた筈の隨縁愛結は忽然と姿を消してしまっていた。
「……え……?」
眼を閉じていたのは僅か数秒だ。そんな短い時間で、そう遠くへ行ける筈もない。
凛穂は車椅子から立ち上がって周囲を見渡すが、隨縁愛結の姿は何処にもなく、代わりにドリンクを買い終えて戻ってくる勇磨の姿が眼に留まった。
「凛穂!? ダメだよ、座ってなきゃ」
「あ……ゴメン」
オズオズと車椅子に座り直した凛穂に、勇磨は訊ねる。
「どうしたの? なんか変なものでも見た?」
「う、ううん……ねえ勇磨、さっき女の人と会わなかった?」
「女の人? どんな?」
「スーツを着た女の人」
「いや、見てないよ」
「…………そう」
残念に思いつつも、どこか納得した感じを覚え、凛穂はポツリと呟いた。
「ひょっとしたら、女の“人”じゃなかったのかもね」
「?……何の事?」
「気にしないで。私の気のせいだったみたいだから。それより炭酸、買ってきてくれた?」
「はいはい。ほら、これでしょ?」
「そうそう、これこれ。久しぶりに味わえるわ」
「昔から思ってたけど、よく飲めるよね、炭酸」
「あ、勇磨は今もダメなんだ?」
「うん。何度か飲んでみた事はあったけど、僕にはとても飲めるもんじゃない」
「その分じゃ、お酒も無理ね、絶対」
「お察しの通り」
即答した勇磨に笑みを浮かべながら、凛穂はいそいそとプルタブを開けて飲み始める。が、その直後、炭酸特有の刺激に強い違和感を覚え、反射的に咽てしまった。
「っ!?……げほっ!! げほっ!」
「凛穂!? だ、大丈夫!?」
「げほ……な、なんとか……」
勇磨に背中を摩られながら、凛穂は苦し気に返事する。
暫くして、どうにか息をつけるくらいに回復すると、彼女はボンヤリと手にした缶を眺めた。
(咽ることなんか、今まで無かったのに……炭酸に弱くなってる……体質が変わったのかな?)
そう考えた凛穂だったが、やがてある結論に達する。
――――ひょっとしたら、変わったのは体質ではなく、もっと根本的な……そう自分自身なのかもしれない。
「凛穂、炭酸飲めなくなってたの?」
心配気な勇磨の声に、凛穂は我に返る。そして、軽く頷いてみせた。
「みたいね。あの刺激が好きだったのに、今じゃなんだか受け付けないの。弱くなったみたいね、炭酸に」
「そっか……残念だね」
「そうでもないわよ」
今度は首を横にふってみせた後、凛穂は勇磨と視線を合わせた。
「今の私はもう、弱くなるのに抵抗なんかないわ」
「……それはちょっと、意味が違うような気がするけど?」
苦笑した彼に、彼女も同じく苦笑する。
「確かに、今のはちょっと格好つけたかっただけのセリフかもね。……でも、別に嘘はついてないわ。それにこれからはあんたと一緒に歩いていくんだもの。嗜好はなるべく同じ方が良いでしょ?」
「……凛穂」
笑みを消し、切な気な表情をして勇磨が見つめてくる。そんな彼に、凛穂は言った。
「これからよろしくね勇磨。昔と違って、強いのはあんたの方かもしれないけど……今、私達はそういうのを気にしないでいられる世界にいるんだからね」