〜夢現の繋がり〜

 

 

 

 

 

すっかり見慣れた光景となった、一つだけの月。

まだ輝きを放つ時刻には程遠く、澄み切った青空の一点にポツンと存在しているそれを眺めながら、ボクは公園のベンチに腰掛けた。

特に何か目的があったわけではない。ただ、静かに時を過ごしたいと思っただけだった。

最近こんな風に、何もしないでいる時間が増えている。昔から時々この場所でこうしていたけれど、段々と頻度が増していっているのが自分でも分かった。

原因なら、見当はついている。けど、だからといって解決するものでもない。むしろ、余計に気が滅入るだけだった。

「はあ……」

思わず溜息が漏れる。

あの冒険から、もう何年もの月日が流れていた。

世界から不穏な影はすっかり消え、毎日が慌ただしくも平穏に過ぎていく。そんな平和に感謝しつつも、ボクの心には決して塞がれることのない穴が空いたままだった。

この平和を、この世界を、この時間を、一番一緒に感じたい人が傍にいない。その事がボクに、この輝きに満ちている筈の世界を色褪せて見せていた。

「元気でやってるかな……モニカ」

彼女の名前を口にすると、自然と彼女の姿が脳裏に蘇る。

絹のような紅い髪に、年上とは思えない程にコロコロと変わる表情。軽やかな身のこなしと、それから繰り出される剣技。時として見せる凛とした佇まいに、仄かに香る甘い匂い。

時の浸食と共に少しずつ朧気で不明瞭になってはいくものの、それでもまだボクは彼女の事を覚えていた。

何故、と問う必要はどこにもない。ただ忘れたくないだけ。もう二度と会えないのならば、せめて会った時の記憶を失いたくないというだけだ。

それが虚しい行為だということも、何の生産性もない行為だということも理解している。だけど理解したからといって、納得できるかといえば、また別の話だ。

「……っ……」

遣る瀬無さが募り、だらしなくベンチに身体を預けると、急に眠気が襲ってきた。

それに抵抗する気力も理由もなく、ボクは眼を閉じて眠気に全てを委ねることにする。瞬く間に遠のいていく意識の中、ボクはふと思った。

――せめてもう一度……夢の中だけでもモニカと出会えたら……それすら、高望みなんだろうか?

誰に向けたものでもない問いかけは闇に消え、ボクは眠りに落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゆっくりと眼を開けると、懐かしい景色が広がっていた。

細部こそ所々の違いはあれど、大部分はあの時と殆ど変わっていない街並み。あまりの懐かしさに胸が痛くなった私は、無意識に胸元を手で押さえた。

もう二度と、此処に来る事はないと思っていた。いや、正確に言うのであれば、二度と此処に来てはいけないと思っていた。

けれども、あまりにも私が落ち込んでいるのを見兼ねて、母上を初めとした皆が特別に時間旅行を許可してくれた。

勿論、制限はある。時間はほんの数時間で、彼と直接話したりするのは禁止。要するに、彼の姿を見れるというだけだ。

それでも、たったそれだけの事でも、私の心は浮足立っている。早く会いたいと気持ちが逸り、居ても立っても居られなくなる。

そんな自分を懸命に抑えながら、私はゆっくりと彼の家へと視線を向ける。出来る事ならすぐにでも駆けていってエントランスに突撃したいというのが本音だった。

だけど、直接会うのが禁止されている以上、それは絶対に出来ない。精々、窓から覗く程度が限界だろう。

そう思い、嬉しさ半分寂しさ半分で歩き出そうとした私だったが、ある事を思い出した無意識に声を上げた。

「そういえばユリス、時々公園で寛いでたことがあったわね。こんな天気の良い日は特に」

昔の事だから、今もそうとは限らない。でも、家の中よりかは公園にいてくれていた方が、私としては彼をよく見る事ができる。当然、気づかれる危険性も増す訳だが。

――でも……気を付ければ大丈夫よね、うん。

まだ彼がいると決まっていないのに、私の頭は既に彼が公園にいると信じて疑わないでいる。

完全に末期症状だと他人事のように思いながら、いつの間にか私の足は公園へと歩を進めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は、本当にそこにいた。

ベンチに腰掛けた彼の後姿を見た瞬間、私は衝撃で息を呑み、その場で硬直する。そして直後、反射的に彼の名を口走ってしまった。

「ユリス……っ!」

慌てて口を押さえ、私は自分の失態を後悔する。

全てはもう遅い。一刻も早く此処を離れなければ。そう思い、踵を返そうとした私だったが、ふと彼が何の反応も示さない事に気づき、動きを止めた。

―――あら?

微動だにしない彼に、私は不思議に思いながらそっと近づく。そして恐る恐る彼の顔を覗き込んだ時、答えが見つかった。

彼は眠っていた。どことなく疲れた表情で微かな寝息をたてながら、彼は眠っていたのだ。

「お昼寝中だったのね。まっ、こんなに良い天気なんだし、昼寝にはもってこいか」

彼に気づかれる心配がなくなり気が楽になった私は、そんな独り言を呟きながら数年ぶりの彼を観察する。

輪郭から少しだけ丸みが消えた以外、私の覚えている顔となんら変わっていない。だがそれとは対照的に、身体の方は随分と大きくなっていた。

多分、私よりも背が高くなっているのだろう。そんな感想を抱いた私は、そっと彼の隣に腰掛け、身体を寄せてみた。

思った通り、彼の背は私を追い越していた。以前は顔を見るために下げていた視線が、今は上げなければ合わずにいる。

更に視線を落としてみると、足も長くなっているのが分かった。長身痩躯、という言葉がピッタリ当てはまる姿に、彼は成長していた。

「……やっぱり男の子ね。もう私の方が年上には見えないかも……」

彼が寝ているのを良いことに、私は彼の髪に指を通しながら呟き、一人笑う。

ある意味、こういった再会が一番良かったのかも知れない。直接彼と交流する事を禁じられているのを考えるのであれば。

「クス、相変わらずパサパサしてる。綺麗な髪なんだから、ちゃんと手入れしなきゃって言ったのになあ」

きっと今でも、美容には無頓着なのだろう。機械いじりや発明が大好きな、生粋のインドア派である彼らしいといえば彼らしい。

記憶にある、趣味に没頭している彼の姿を思い出しながら、私は指で彼の髪をいじる事を繰り返す。すると次第に、眠気が私を襲ってきた。

流石にこのまま眠るのはマズイと思ったものの、どうにも抵抗する気がせず、私の瞼はゆっくりと下がってくる。

――少しくらいなら……構わないわよね。

そんな勝手な考えが浮んだ直後、胸に何かが当たったような気がした。だが、それを確かめる間もなく、私の意識は途切れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふとボクは、顔に何か柔らかい物が当たっているのを感じた。

眠りから覚めたものの、眼を開ける程の活力はまだ無く、ボクは軽く顔を動かし触れている物の正体を確かめようと試みる。

だが、それが何なのか全く分からない。柔らかくて弾力があり、その上なんだか良い匂いがする。正に夢見心地といった気分になり、再び睡魔がボクを襲ってきた。

けれども眠りにつく寸前に、この香りに覚えがある事をボクは思い出す。ボンヤリした意識のまま眼を開け、重い頭を起こしてみると、懐かしい顔がそこにはあった。

「…………モニカ?」

整った顔に鮮やかな紅髪。記憶の中となんら変われない彼女の姿が、目と鼻の先にあった。何処か嬉しそうな表情を浮かべて、穏やかな寝息を立てている。

そんな彼女の顔を下から見上げているという事実に、ボクは自分がどんな状態だったのかようやく理解した。

どうやらボクは、彼女の胸を枕代わりにして眠っていたらしい。そして彼女は、そんなボクを咎める事もなく安らかに眠っている。

これらの状況を、未だ眠気の取れない頭で把握したボクは、真実に気づき無意識に自嘲の笑みを零した。

――そうか……夢か。

そう思う他無かった。

そもそも、彼女が此処に居る筈がない。彼女はとうの昔に、居るべき時代に戻っているのだから。

仮に何かの間違いで居たとしても、こんな状態を彼女が許す訳もない。男に胸を貸しながら自分も眠るなど、勝気な彼女が許す訳もないのだ。

つまるところ、これは全てボクの夢。彼女が傍にいる時に、密かに思い描いていた願望の具象化。

「未練がましいな……我ながら」

再度自嘲し、ボクは溜息を零す。だが、もう全ては過去の事。今更どうしようもないのだと諦めるしかない。

だからボクは、この夢を楽しむ事にする。再び眼を閉じたボクは、ゆっくりと彼女の胸に顔を預けた。気持ちいい柔らかさと匂いが、ボクを包む。

夢の中の夢へと誘う眠気が瞬く間に広がっていき、ボクはそれに意識を委ねる。夢の中ではあるけれど、こんな至福の時を過ごせるのは素直に嬉しいと思いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不意に吹き抜けた強い風で髪が靡き、私はハッと眼を覚ました。そして眠る前は青かった空が茜色になっている事に戦慄する。

どうやら、すっかり熟睡してしまったらしい。もうそろそろ、許された時間が無くなる頃合いだ。

一気に眠気が吹っ飛んだ私は、慌てて起き上がろうとする。だが、その刹那、自分の胸にある重みに気づいて視線を落とし、反射的に悲鳴を上げてしまった。

「やっ……!」

そこにあったのは、私の胸を枕代わりにして眠るユリスの姿。恥ずかしさが急激に増した私だったが、それでも彼を払いのける気にはならなかった。

何故、と訊かれたとしたら“彼だから”と答えるしかない。彼ならば、こんな事をされても構わない。そう思う私がいた。

――昔、きちんと想いを伝えていたら……何のしがらみもなく、こんな事をしていられたのかな?

そっと彼の顔を両手で抱きしめながら、私はそんな事を考える。

今更どうしようもない事だと分かっていても、いや、分かっているからこそ、願わずにはいられない。ずっとこのまま、彼とこうしていたい。そう願う、ただ願う。

だが、いくら願ったところで時間は止められない。容赦なく陽は沈んでいき、私の帰還を促す。

ほんの僅かな時間だけでも、こんな時間を過ごせた事に感謝するべきなのだろう。そう考えるしかなかった。

私は静かにユリスの肩に手を掛け、姿勢を正させる。それでも彼が起きる気配はない。相当深い眠りについているようだ。

そう判断した私は、ふとある事を思う。今の彼ならば、気づかれる心配はない。だから、きっと大丈夫だと。

髪を耳に掛けながら、私は彼に顔を近づける。相変わらず彼は、綺麗な顔をしていた。その顔に見惚れ、僅かに残っていた羞恥心も消え失せる。

自分でも驚くくらいスムーズに、私は彼と唇を合わせた。想像していたような緊張感や、胸の高鳴りはない。ただ、ジンワリと広がっていく幸福感があるだけだった。

数秒のキスを終え、私は彼から顔を離す。瞳を閉じたままの彼を見て、安堵と失望の念が同時に生まれた。

「…………元気でね、ユリス」

小さくそう呟くと、私は素早く立ち上がり、その場を後にした。

この思い出さえあれば、これから先どんない辛い事があっても生きていけると思った。偽りない、心からの思い。だけど、それでも悲しみの涙は生まれてしまう。

流れる雫を拭う事もなく私は駆け、元の時代へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

頬に当たる冷たい風が、ボクを現実へと引き戻す。

ボンヤリと眼を開けると、いつの間にか月が夜空で輝いていた。完全に熟睡だ。こんなにもグッスリ眠ったのは随分と久しぶりだった。

――まあ、あんな良い夢を見たくらいだものな。

甘い夢を思い出しつつ、ボクは立ち上がる。特に予定は無いとはいえ、流石にそろそろ帰らないと皆が心配する。

「リラックスにはなったかな……あれ?」

口を動かした時、ボクは違和感を覚えた。唇になにかが付いている。舐めてみると妙な味がし、ボクは首を傾げる。

「なんだ、これ? ボク、寝る前は何も食べてなかった筈だけど……」

気になったボクは、手の甲で唇を拭う。そして見てみると、赤い物が付着していた。

一瞬、血かと思ったが、微妙に色が違う。鼻を近づけて匂いを嗅いでみたが、やはり血の匂いではなかった。

――じゃあ、これは一体……?

訳が分からないまま、ボクは手甲の赤を見つめる。やはり血の色ではない。霞んではいるが綺麗で鮮やかな、“赤”というよりも“紅”の色。

と、そこまで考えた時、不意にボクの頭にある物が浮かんだ。

「まさか、これ……口紅?」

突拍子もない発想だと、自分でも思う。けれども、他に思い浮かぶ物はない。だが、もしそうだとしたら不可解な点が多すぎる。

何故、ボクの唇に口紅がついているのか。言うまでもないが、ボクに化粧の趣味はない。ドニー辺りの悪戯ならば、もっと派手に分かりやすく塗るだろう。

そして、今ボクの身近にいる女性は全員口紅をしていない。というよりも、ボクが知る中で口紅をしていた女性といえば、一人しか心当たりがなかった。

「まさか……」

無意識に記憶の糸が過去へと伸び、朧気な追憶の日々を呼び覚ます。

冒険を終え、ただ純粋な娯楽としてボクの元へとやってきていた彼女。自由気ままにボクの邸宅で遊び回る彼女を、ボクは呆れ半分嬉しさ半分で眺めていた。

そんな彼女が、時々鏡台を使って化粧する事があった。君って化粧するんだ、と今考えれば失礼な感想を言ったボクは、彼女はこう言った。

私これでも王女なんだから、と。身嗜みとして口紅くらいするわよ、と。そうなんだ、と呟いたボクに、彼女は鮮やかな紅色の唇を向け、こう言った。

それに私、紅が好きだから、と。だから別に化粧は嫌いじゃないわ、特に口紅は、と。

「モニ……カ……?」

反射的に視線が月へと移る。先程見た夢の記憶が蘇る。

――いや、きっと、あれは夢ではなく…………。

「……まだ繋がってると思っていいのかな?」

いつに間にか、ボクは笑みを零していた。決して塞げないと思っていた心の穴が、瞬く間に塞がれていくのを、ボクは感じていた。

この先、次があるなんて保証は何処にもない。今回が最初で最後だった可能性も十分にある。

けれど、不思議とボクは、まだ希望があるように思えてならなかった。何故と訊かれても、答えは無い。ただ、そう思っただけ。それが全てだった。

「次に会えたら……ボクから不意打ちしてやろうっと」

――その為にも明日から始めるか。時間移動の発明品を。

確かな目標が出来たボクに、色褪せて見えていた世界の本来の輝きが見えてくる。

酷く懐かしいものとなっていた、生きていく上での目標。それをしっかりと胸に刻み込めながら、ボクは岐路についた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


あとがき

 

リクエストは『ユリモニでお昼寝』でした。

お覇王様、リクエストありがとうございました。

 

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