〜夜の森で(第二話)〜

 

 

 

 もう0時を回っているかも知れない。

森を浸食する闇の手に、月と星々が届ける微かな光だけが抗っている。

僕は黒々とした森の間に、なんとか道を見出そうとした。

しかし、背の高い草の茂みや月明かりさえ遮る密生した樹の群れを見て、今から帰るのは無理だと結論を下さざるを得なかった。

溜め息をついて、さっきからずっとすすり泣いているモニカに目を遣る。

僕は、こんな時になんて声を掛けていいか分からなかった。

励ましの言葉を口にするのは簡単だ。しかし、それはひどく無責任な事だと思えて、僕はいつまでも何も言えずにいた。

女性の顔っていうのは、傷付けられるのを絶対避けなきゃいけない場所だ。

僕だってそれは知っているけど、実際にどれほどショックなのかは分からない。

「…うぅ…」

聞こえてくる泣き声が、僕をどんどん焦らせる。

手で顔を覆う彼女の周りを、悲しみが膜になって包みこんでいるように思えて、近寄りにくい。

いつも明るく元気なモニカがこんな風になるなんて想像した事も無かったし、泣く女の子にどう接して良いかも分からなかった。

しかし、いつまでもこのままでいる訳には行かない。何とかしてその痛みを取り去りたいとも思う。

決心した僕は勇気を出して声を掛けてみた。

「モニカ、大丈夫?」

「…ううぅ…ひくっ…」

大丈夫な訳が無い。一人で怖い思いをした上、傷付けちゃいけない所まで傷付けられたんだ。

うつむきながら泣いているモニカに対して、僕はただただその姿を見つめる事しかできなかった。

なんだか、自分がとんでもなく見当外れな真似をした気がして、居たたまれない気持ちになってくる。

へたり込んで涙をぽろぽろとこぼしていくモニカ。それをただ突っ立って見つめている僕。

乗り遅れた客を気にせず走り出す列車みたいに、時間だけが僕らを置き去りにしてただただ流れていった。

背を丸めて俯いているモニカをいつまでも眺めていると、その時間の感覚すらも無くなりそうだった。

周りの闇が濃くなったのか、それとも変わっていないのか、それすらも分からなくなる。

また焦りが生まれる。

このままじゃだめだ。帰れないならここで夜を明かす準備をしなければいけない。いつまでも悲しんでいる余裕は無い。

そうだ、傷の手当てをしなきゃ。なんで気が回らなかったのかと慌ててカバンの中を弄る。

僅かしか持って来なかった薬は、先ほど魔物と打ちあった後に全て使い切ってしまっていた。

どうしたものかと悩んだけれど、彼女に話しかけるきっかけが出来てほっとした気持ちもほんの少しあった。

「モニカ、薬持ってる?」

「ぐすっ…」

彼女は顔を少し上げて僕を見てから、ふるふると首を振った。

「も、もう無いよ…」

どうやら彼女も僕と同じ理由で使い切ってしまったのだと察せられた。

しかし、泣くだけ泣いたせいか、少し落ち着きを取り戻している事も分かった。

無いなら仕方ない。僕はカバンからハンカチを取り出して、ビンに入った水をよく含ませた。

せめて傷周りを洗おう。ほったらかしにしておくよりずっとマシなはずだ。

布切れを傷に近づけると、彼女はびくっとして身を引いた。

「…え…?な、何を…」

「ごめん。でも、その傷拭かないともっと悪くなっちゃうよ」

「あ、そ、そうだね…じゃ、じゃあ…お願い…」

そう言って、彼女は僕の手当におずおずと身を預けてくれた。

こしこしと傷周りに布を当てている内に、なんだか気恥ずかしくなってくる。

こんな時に限って風も葉擦れの音も申し合わせたように止まってしまい、森全体が僕らに注目してる気がして落ち着かない。

視線を上げるとモニカと目が合ってしまい、ますます恥ずかしい思いをする事になってしまった。

傷口の表面を刺激しないように、湿った布で丁寧に撫でていく。

固まりかけていた血が溶けて、きれいな白い肌が表れた。もっとも、暗くてはっきりとは見えないけれど。

応急処置が終わると、最後に涙の筋をさっと拭いてあげた。

「あっ…」

小さな驚きの声が漏れ、僕は彼女に笑い返す。

そして涙を拭いた布を差し出して言った。

「あと、これでさ、血が完全に止まるまで押さえとくといいよ」

とりあえずは大丈夫だからさ、と軽い笑みに含ませて言う。

彼女は何かを心配するように、上目使いで僕を見つめてくる。

しばらくそうしたあと、恐る恐る布を取って頬の傷に当てた。

「ユリス…」

「うん?何々?」

モニカが自分から喋った事の嬉しさに、身をモニカに少し近づけた。

「なんだか…ごめんね…、こんな事までさせて。って、決めたのは私なのに」

「いや、気にしなくても良いよ。大丈夫?」

「うん、大分ましになったわ。ありがとう…本当に」

「喋る元気は戻ったんだね。良かった。」

そうは言いはしたが、まだ目に涙が溜まっているのを僕は知っていた。

不安定な場所に立てた花瓶見たいに、ちょっとした事で壊れてしまいそうな気配が感じられる。

「それでさ、どうする?もう今からは帰れそうにないからさ」

「あ…、そうだね。どうしよう…」

「やっぱり」

僕は近くの大木の下を見遣った。

「ここでやり過ごすしかないと思うんだけど」

 

 

 

 大木の下で、僕は遠い朝を待つ。

横にいるモニカは今日の出来事の疲れからか、眠りの世界へ深く潜り込んでしまったみたいだ。

眠っている姿は一見穏やかそうに見えるが、僕の目は、安らかな寝顔のすぐ下にある悲しみの影を見過ごす事はできなかった。

食事は木の下に座る前に一つのパンを分けあっただけだったけど、空腹感に悩まされる事が無かったのは、

さっきの出来事が僕らから食欲を奪ってしまったからに違いない。

街に戻ったら皆にあれこれ聞かれるだろう。

魔物は討伐できたのか、どうしてこんなに帰りが遅かったのかを。しかし、彼女の傷の事を一番深く聞かれるのは簡単に想像できた。

これから先の事を考えると気が重い。当ての無い思索をもてあそんで今日の出来事を頭から押し流そうとする。

しかし、あれこれ関係の無い事を考えて逃れようとしたところで、その思考の水路は結局隣の彼女に行きついてしまう。

 

この場所で夜を越そうと提案した時、彼女は不安そうな表情を浮かべた。

僕はそれに気付いて、そっと横から彼女の肩に手を置く。

「大丈夫だよ、何とかなるって!」

普段はこんな事言うのは彼女の役目だった。

僕は何とかして今の彼女に足りないものを、僕らが会話する時決まってモニカが持っていたものを代わりに補おうとした。

「今心配しても仕方ないって。疲れた体を休めるのが先決だよ」

「そ、そうよね、ごめんね、調子に乗ってこんな奥まで来ちゃって。ユリスは、反対してたのにね…」

「いや、それは悪くないよ。僕も止められないで、結局一緒に来ちゃった訳だし。そんな事より、今はもう休もうよ。ね?」

彼女は、こくりと頷いた。

元気は無いけれど、少しずつ回復しているように思われた。

活力を取り戻していけば、明日には普段の快活なモニカが見られるだろう。

しかし、まだ考えなければいけない事はある。

この大木の下に来る時、彼女は片足をかばうように歩いていた。

話を聞くと、魔物から逃げている際に、浮き出た木の根を踏みつけ転んでしまったのだという。

彼女は足を痛めているから、明日屋敷に戻る時も当然助けは必要だ。

助けとは?肩を支えれば大丈夫だろうか?具合によってはおぶって行く事も覚悟しなきゃならない。

「ねえ、ユリス」

不意に飛び込んできたモニカの声に、僕の思考は中断させられた。

「うん?」

「ユリス、私を竜から助けてくれた時の話だけどさ…」

「うん」

「あなた、あの竜の攻撃を受け止めたわよね…」

「うん」

「わたしもおんなじように受け止めたんだけど、そのまま押し切られちゃったのよ」

「…うん」

「でもユリスはしっかり弾き返したわ。それってすごいなって。わたしよりずっと力が強くなってるな、ってさ」

「……うん」

「もう、全然敵わないね…最初にあった頃はちょっとひ弱そうに見えたし、腕力だって負けてない自信はあったんだけどね」

「………う、うん」

「あの時は驚いたわよ…」

「い、いやあ、あの時は必死だったからさ、たまたま上手くいっただけだよ」

なんでこんな事を言ってくるのか、よく分からなかった。ただ、僕に何かを伝えたがってるように思えた。

「で、ね…ちょっと、」

「うん、なに?」

「えっと、その…」

「?」

「わ、わたし、嬉しいよ。こんな事になっちゃったけど、わたし、い、今なんかすごく嬉しいよ…」

そう言ってぎこちない笑みを向けてくる。笑顔を作りたいんだろうけど、体が震えていてうまくいっていないようだ。

その言葉は、言葉では伝わらない何かを伝えようとしているみたいにも感じられた。

「そ、それだけ伝えときたかったの。ごめんね、寝るの邪魔しちゃって」

「ううん、いいよ。でもモニカもそろそろ寝なきゃ」

「うん、おやすみ。今日は色々迷惑かけちゃったね」

 

 


 

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