第二十九章〜去りゆく追想の日々〜

 

 

 

 

 

 

 

 

――――東暦2000年7月14日午後四時。

「じゃあ、三年前に?」

墓石に刻まれた名前を読んだ雄一は、隣で屈みこみ水を掬っている光美に尋ねる。

「うん。……繚奈と戦った人が」

柄杓で墓石に水を掛けながら答えた光美は、次いで両手を合わせて眼を閉じた。雄一も、その横で同じ様に手を合わせて黙祷する。

話がしたいと誘ったら案内したい場所があると返され、墓地に連れてこられた時はかなり戸惑ったが、今はその意味が分かり納得していた。しかし、気持ちは晴れたと言うには程遠かった。

(小父さんに小母さん……もうあんまり思い出せないけど、光美ちゃんの事はすげえ可愛がってたよな。出来れば、直接会って謝罪したかったけど……)

此処に来るまでの事を思い出し、彼はやるせない気持ちになる。

――――九年前のあの日の話や、その日から空白の年月の話。そして繚奈との『因縁』の事。

そんな、ある意味罪の告白とも呼べる内容の話を、雄一はたどたどしく光美に話した。正直、上手く話せた自信はまるで無く、無意識に保身めいた言い回しになってしまっていた気もする。

けれども、彼女は特に感情を示さなかった。我ながら酷過ぎて呆れかえるくらいの仕打ちなのに、彼女は非難も罵倒もしなかった。ただ小声で一言、「そう……」と呟いただけだった。

――――許してくれたのか? 或いは怒りを通り越して幻滅したのか?

雄一は光美の心が読めず、かといってこれ以上言うべき言葉も見つからず、右往左往するしかなかった。

彼女の両親の前でそんな醜態を晒している事が、尚更申し訳ない気持ちを駆り立てる。もっとしっかりしなければと思えば思う程、焦るばかりですべき事が見つからない。

仕方なく彼は、黙祷している光美の横顔をボンヤリと眺めた。期待はしていなかったが、やはり彼女の顔から感情は読み取れない。

ただ九年前に自分がつけた刀傷――それだけが何かを訴えている様に見えた。

「…………ゆういっちゃんが今、何を考えるか当てようか?」

「えっ?」

不意に眼を開け、こちらに振り向いた光美の言葉に、雄一は思わず聞き返す。

「何で怒ったり悲しんだりしないのか、許してくれるのかそうでないのか、こんな事でしょ?」

「あ、ああ……まあ……」

「……ふう、何だかなあ」

光美は大仰に溜息をつくと、寂しそうな笑みを浮かべた。その意味が分からずに尋ねようとした雄一だったが、それよりも先に彼女が続ける。

「どうして、そういう風に物事を悪い方に悪い方に考えるの? 実際にそうかなんて、話してくれなきゃ分からないのに」

「? それはどういう……」

「そのままの意味。前にバッタリ出会った時も言ったけどさ、私はこの傷に関して怒ってなんかないんだよ。本当に」

左手の人差し指で傷跡を撫でながら、光美は軽く。そして、言葉を失っている雄一の顔を一瞥した後、大空へと視線を移した。

「怒ってるとしたら……これもあの時に言ったけど、何も言ってくれなかった事だけ。でも、それも事情が有ったって分かったから、もう責める気も無くなったわ」

「事情って……あれは単純に俺のミスで、その後にいなくなったのもただ怖かっただけ……」

「それも立派な事情だよ。もし私が同じ立場だったら、多分同じ事してただろうし。あ、でも、手紙の一つくらいは書いてたかもね」

やや皮肉を込めたその言い回しに、雄一は光美の心の傷の深さを知る。自然と彼の口からは、謝罪の言葉が漏れた。

「本当にゴメン。許してくれるとは思わないけど、俺にはこうやって謝るしか……」

「やめて」

真っ青な空を見上げたまま、光美は雄一の言葉を遮る。面食らった表情を浮かべた彼に視線を戻した彼女は、再び大仰な溜息をついた。

「私はそういう、許す許さないって上から誰かを裁く様な事はしたくないの。この上なく嫌なの。今こうして、ゆういっちゃんの口からあの時の事が聞けた。

それだけで、私はもう満足してるの。待ち続けていた甲斐があったんだから。それに……」

再び雄一に顔を向けた光美が、不意に眼を伏せながら深呼吸をする。そして数秒後、眼を開けた彼女はフワリと微笑む。

それは一切の陰が無い純真な笑みで、雄一は心臓が高鳴るのを感じた。

「そ、それに……何?」

「うん。変に思われるかもしれないけど、ちょっと嬉しくもあったの。この九年間、どんな形であれ、ゆういっちゃんが私を覚えててくれたって事が」

「っ、忘れる訳ないだろ。あんな事をしたってのに」

「でも普通の人は、そういう嫌な事は忘れようとするんだよ? でだけど、ゆういっちゃんは覚えてた。忘れちゃダメだって思った。……その優しさが、私は嬉しいの」

「優しさを言うなら、光美ちゃんの方が優しいって。返すみたいだけど、普通の人だったら絶対そんな簡単に、その……割り切れたりしないぜ?」

思わず『許す』という言葉を使いかけ、少しだけ口籠った雄一の言葉に、光美は笑顔のままで軽く首を左右に振った。

「私は別に優しくないわ。ただ……ただ臆病なだけ。何かを口にして、大切な人が離れていくのが怖いだけなの。だから……」

そこで言葉を切り、雄一を見つめた光美の瞳に僅かだが涙が滲む。驚いた彼は口を開きかけたが、それよりも早く彼女が震える声で言った。

「だからもう、この話はやめよう。今、こうやってゆういっちゃんがまた私の前に居る。それだけで私はもう、十分だから」

「…………ありがとう、光美ちゃん」

彼女の慈悲深さに胸を締め付けられる様な感覚に襲われながら、彼はそう言って小さく頭を下げる。

すると光美は気恥ずかしくなったのか、不意に顔を背けると軽く息を吐いた。

「そんな畏まった態度はとらないでよ。もう、何だか繚奈と話してた時と同じ気分だわ。……流石きょうだいって事かしら?」

「!? 何故それを?」

雄一は驚いて光美に問う。

自分と彼女――繚奈が義長の血を引いているという事は、まだ光美には話していなかった筈だ。

一応彼女も奴本人からそれらしき言葉を聞いてはいたが、それだけでは余りにも不十分である。しかし彼女の言い方は、確信めいた物を秘めていた。

考えられる可能性は自分がまだ眠っている間に好野が話したという事だが、それなら好野が自分に何か言ってくる筈だ。

ならば残るは双慈ぐらいしかいないが、それは本当に僅かな可能性だろう。そんな風に色々と考えを巡らせていた雄一の耳に入ってきた光美の言葉は、全く予想外のものだった。

「クス……やっぱり、そうなんだ」

「え? あっ!」

鎌をかけられた事に気づき、彼は短く叫んだ後に複雑な表情で光美を見る。

すると彼女は、可笑しそうに笑いを零しながら手を横に振って謝罪の意を示した。

「ゴメンゴメン。でも、やっぱり気になってたんだ、あの人が言っていた事の意味が。だから知りたかったの。直球で訊いても、答えてくれないと思ったから」

「……まあ、それは否定しないよ。俺自身、まだ実感が湧かない事だから」

「じゃあ、まだ繚奈には言ってないの?」

「ああ。もう少し落ち着いたら話すつもり。……正直言うと、ちょっと怖いんだ。彼女が、どんな反応するかって考えると」

「そっか。そうよね……ずっと敵対してたんだものね」

「まっ、向こうが一方的に敵視してた面も有るけどな。だけど大丈夫。これからはきっと、上手くやれるさ。彼女を見てると……そう思える」

雄一がそう言うと、光美は嬉しそうに「良かった!」と声を上げて笑う。その後ふと両親の墓前に眼を向けると、感慨深い口調で言った。

「じゃあさ、来年の命日には三人でお墓参りしたいな。そうしたら、お父さんもお母さんも絶対喜ぶわ」

「っ……光美ちゃんがそう言うなら、きっとそうなんだろうな。よし、じゃあ来年は三人で来ようか。彼女も、異存は無いと思うぜ」

「うん!」

元気よく返事をしつつ、また光美が笑う。それは丁度あの時――彼女にブレスレットを贈った時の笑顔と似ていた。

ふと幼い頃の光美が彼の脳裏に浮かび、隣にいる光美と重なる。こうして見ると彼女は背こそ伸びたもの、あの頃から殆ど変わっていない。

――――黒く長い髪。紫の瞳。華奢な身体。そして全身から感じる、あどけなさと可憐さ。それらは全て、あの幼かった頃から少しも色褪せていない。唯一、頬の傷を除いては。

(……っ!)

不意に胸が痛むのを感じた雄一は、努めて明るい雰囲気を作りながら口を開いた。

「その傷も、早く治さなきゃな。神連の医療員に俺から話してみるよ。一応、決まりじゃ部外者の治療は禁止だけど、事情が事情だしきっと……」

「まだ嫌」

「……えっ?」

思ってもみなかった言葉に、雄一は眼を丸くして光美の顔を覗き込む。

するといつの間にか、彼女の顔から先程の笑みは消え、酷く辛そうな表情に変わっていた。

「光美ちゃん? 嫌ってどういう事だ? そんな醜い傷、サッサと消しちまった方が良いだろ?」

「消した方が良いって事には、私もそう思ってる。でも、まだ消したくはないの」

「な、何で?」

雄一が尋ねると、光美は俯き加減になりながら両手の指を意味なく合わせ始める。記憶にある仕草だ。

確か彼女は言いにくい事を言おうとする時、よくこんな事をしていた。その時に自分がどうしていたかを、雄一は思い出す。

極めて簡単な事だ。彼女が口を開く時まで、ジッと待ち続ける事。だから彼は、今もそうする事にした。

時間の経過等、気にはしない。そもそも、待つという事なら自分は彼女に散々させてきたのだ。それに比べれば、この程度は些細な事であろう。

そう思った雄一は、急に吹き抜けだした風に髪を躍らせている光美は、穏やかな眼で見つめ続けた。

「この傷ね……別に消すのが難しいから残してた訳じゃないの。その気になれば、もうとっくに消せてた傷なの」

一分ほど経過した時、まだ俯いたままの光美はか細い声でそう言った。

「昔からずっと、お父さんとお母さんからは『消しなさい』って言われてきたわ。でも私は消したくなかった。だって、この傷は……」

俯かせていた顔を上げ、光美は真っ直ぐに雄一の顔を見つめながら口を開く。

「ゆういっちゃんが、確かにいたって証だもの。だから、消したくなかった。じゃないといつか、ゆういっちゃんの事を忘れてしまいそうだったから。このブレスレットだけじゃ、不安だったから」

言いつつ彼女は軽く右手を上げ、愛おしそうに手首に巻かれた青いブレスレットを眺める。そんな光美を見る雄一の脳裏に、ふとある考えは浮かんだ。

それは彼にとって、嬉しくもあり後ろめたくもある考え。恐らくはあの事件以来、無意識に遠ざけ続けてきた考えだった。

「光美ちゃん。まさか君……俺……」

「ゆういっちゃん」

たどたどしく言葉を紡いでいた雄一を遮って、光美が言った。

「私さっきさ、大切な人って言ったでしょ?……それが、どういう意味か分かる?」

「あ、ああ……まあ……その……」

様々な感情が舌を絡め取り、雄一は上手く話す事が出来ない。焦りばかりが募り、言葉が朧気に浮かんでは消えていく。

「本当は……本当は、もう少しムードの有る時に言おうと思ってたんだけどね」

寂しい笑みと共に、光美が言った。

「でも、今ならちゃんと言えそうな気がするの。だから……言うわ」

「っ……」

その瞬間、雄一は本能的に逃げ出したい衝動に駆られたが、何とかそれを堪えた。

身体中にマグマを注がれた様な熱を感じる。少しでも動けばその熱が溢れ出るのではと思い、彼は微動だにせず光美を見つめる事しかできなかった。

「私は……私はもう、ゆういっちゃんが何処かに行っちゃうのは嫌。ずっと……ずっと傍に居て欲しい」

「…………」

「これが恋なのか愛なのか、それとも子供っぽい独占欲なのか……それは私自身、分からない。でも、何であれ想う事は一つだけ。ずっと二人で一緒にいたいの」

寂しい笑顔から笑みが消え、ただ憂いを帯びた表情だけが光美に残る。儚い。そのたった一言で、今の彼女は表現する事が出来た。

「そんな日々が約束される日まで、私はこの傷を消したくない。……こんな考えって、迷惑?」

「……いいや」

震える声でどうにかそう答えると、雄一はぎこちなく光美に両手を伸ばし、そっと肩を抱いて自らの方に引き寄せる。それは内面で荒れ狂う激しい想いとは裏腹な、とても優しく拙い行為だった。

彼女は一瞬ビクリと身体を強張らせたが、すぐに全身の力を抜いて彼に身を委ねる。そんな光美の背中を撫でながら、雄一は幸せな香りを放つ彼女の髪に顔を埋めた

凡そ彼らしくない行動だった。雄一自身、何故自分がこんな行動をとったのか不思議に思っていた。けれども、これが最良なのだと、何かが告げている様な気がしていた。

彼は思う。果たして自分が、光美に対して抱いている感情は何なのかと。光美の言葉を借りる訳では無いが、自分も恋とか愛とか、そういったものは良く分からない。

そんな感情が芽生え始める時期、自分は深い傷を負いながら神士として戦ってきたのだから。学ぶ、或いは覚える時期を自分は逃してしまっていた。

だけど、一つだけ確かな事が有る。それは、光美を大切に想う気持ち。幸せに生きて欲しいと願う気持ち。だから雄一は、そっと彼女の黒く真っ直ぐな髪を撫でながら、一句一句噛み締める様に言った。

「ずっと辛い思いをさせちゃってゴメンな。大丈夫。俺はもう急にいなくなったりなんかしないから。光美ちゃんが望むなら、ずっと一緒にいるから」

「うん……うん……」

光美が雄一のシャツを掴んで握りしめながら、何度も小さく頷く。その箇所が熱と湿り気を帯びていくのを感じながら、彼は続けた。

「ゴメンな。こんな子供の約束みたいな頼りない言い方になっちゃって」

「いいの……いいのよ。私達はこうで。だって私達二人の間の時計の針は、九年前で止まってるんだもの。子供みたいだからって、ちっとも不思議じゃないわ」

「そう……だね。確かにそうだ。なら、これから少しずつ、周りよりも随分遅いだろうけど、その針を進めていかなきゃな」

「ええ、ゆっくり、ゆっくりと。どれだけ遅くたって構わない。もう止まる事さえなければ……私はそれで」

「止まらないよ、きっと」

雄一が言うと、徐に光美が顔を上げる。両の瞳に涙を浮かべ、頬に雫を流しながらも、彼女は満面の笑みを浮かべていた。

その笑顔が余りにも眩しくて、雄一は不意に視線を落とす。すると彼女の両腕のブレスレットが眼に止まり、その内の青い石のブレスレットに手を伸ばす。

「ありがとう。ずっと持っててくれて」

「当たり前じゃない。私の宝物なんだから。ゆういっちゃんこそ、それ……」

言いつつ光美が手を伸ばしたのは、彼女が雄一に贈った青い龍のキーホルダーのペンダントだった。

「持っててくれたんだね、ずっと」

「ああ。まあ、その……あの時の直後は、捨てたいと思ったけど……やっぱり捨てられなかった。光美ちゃんから貰った、大切な宝物だから」

その雄一の言葉に、光美はまた声を上げて笑う。しかしそれも束の間。彼女は再び顔を歪めると彼の胸に顔を埋めて嗚咽を漏らし始めた。

雄一は特に抵抗もせずにそれを受け入れる。これで自分の罪が消えた等とは流石に言えないだろうが、それでも自分と彼女の溝が無くなったのは確かだろう。

これから先は、その溝が再び広がらない様にしていかなければならない。それは大変だろうけども、決して辛い事では無い筈だ。

そう強く思いつつ、雄一は泣き続ける光美の気が済むまで、彼女の背中を撫で続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――東暦2000年7月23日午後7時30分。

賑やかな喧騒に、彼方此方で灯っている提灯。立ち並んだ屋台から漂う、食欲をそそる音と香り。それに群がる人々。

そんな数年ぶりに見る祭りの風景を眺めながら、雄一は携帯を取り出して時刻を確認した。

約束の時刻丁度を示していたデジタル画面を見て、思わずありふれた台詞が彼の口から発せられる。

「遅いな……」

「まだ丁度でしょ。結構細かいのね、貴方」

隣に立っていた繚奈が、抱き抱えている輝宏の寝顔に指を触れさせながら、呆れ交じりに微笑んだ。それに対して雄一は、やや気分を害した様な口調で返す。

「別に、そんな細かくは無いさ。でも覚えてる限りじゃ、光美ちゃんって、絶対時間は守ってた筈だったし、ひょっとしたら何か有ったんじゃないかって……」

「心配し過ぎよ。単に準備に手間取ってるだけでしょ。浴衣着てくるって言ってたし」

「…………そっか」

「あ、今想像したでしょ? 光美の浴衣姿」

「し、してない!」

図星を突かれた雄一はムキになって反論するが、無論繚奈は動じたりしない。彼女は愉快そうに笑いながら手を振ると、彼に言った。

「照れない照れない。それよりも、ちゃんと褒めてあげなさいよね。口籠ったりしたら、彼氏として感心しないわよ?」

「っ!? 光美ちゃんから聞いたのか?」

主語の無い質問だったが、繚奈は心得た様子で頷いてみせる。

「ええ。それはそれは嬉しそうだったわよ。胸やけする惚気話を延々と聞かされて参っちゃったわ」

「っ……恥ずかしいな、もう。『神龍』がいなくて良かったぜ」

――せっかく恋人ときょうだいとの祭りなんだし、俺は『邪龍』と一緒に消えてるよ。

からかい交じりにそう言いつつ、分離して何処かに行った相棒の事を思いながら、雄一は悪態をつく。そんな彼に、同じく『邪龍』と分離している状態の繚奈がクスクスと笑いながら言った。

「ほらほら、気を遣ってもらったんだから感謝しなきゃ。だけど、大切にしなさいよ光美の事。……あんな健気な娘、滅多にいるもんじゃないんだから」

「……ああ」

雄一は言外の意味を汲み取り、真顔でそう答えると遠くを眺めながら言った。

「もう悲しませやしないさ。そして……一人にはしない」

「そう願うわ。でないと、また貴方に刀を向ける事になりかねないもの」

「シャレに聞えないのが怖いな」

「そりゃそうでしょうね。シャレじゃ無いんだから」

笑顔でありつつも鋭い眼の繚奈にそう言われ、雄一は思わず苦笑する。確かに、これでまた光美を悲しませようものなら、問答無用で繚奈の『紅龍刃』の錆にされそうだ。

(されそうって言うより、絶対されるな。間違い無く)

軽く悪寒を感じた彼は、再び繚奈に視線を戻して尋ねる。

「傷の事も、聞いたんだってな?」

「勿論。まあそれについては、色々思う事も有るけど……光美に免じて、何も言わない事にしてあげる。貴方の確かな気持ちも、聞けた事だしね」

「ありがとう」

雄一がそう言って軽く頭を下げた時だった。祭りの喧騒の中から「あ、いたいた」という幼い声が聞こえ、二人はそちらの方向に振り返る。

すると程無くして、人々の隙間を通る様にして双慈が姿を見せた。緑の甚平を身に纏った彼は、右手にビニール袋を幾つか抱えている。

その中から除く白い蓋をされた皿を見て、繚奈は笑みを零しつつ、駆け寄ってきた双慈の頭を撫でた。

「よかった、双慈。ちゃんと見つかったみたいね、たこ焼き屋」

「うん。二つ三つ有ったから、何処で買おうか悩んだんだけど……一番空いてる所で買ってきた。はい」

「ありがとう。……うん、確かに。じゃあ、暫く遊んできなさい。まだ少しお金残ってるでしょ?」

「良いの?」

「ええ」

「……感謝します」

「こういう時は『ありがとう』よ」

「……ありがとう」

ぶっきらぼうに言い放つと、双慈は再び人だかりの中に消えていく。その足取りはとても軽やかで、何処にでもいる少年そのものだった。

瞬く間に彼が見えなくなり、その後ろ姿を見送っていた繚奈が笑みを零しながら嘆息する。

「ふう……まだまだ色々と教えないといけないわね」

「何だか、楽しそうだな」

「まあ、楽しいと言うか遣り甲斐が有ると言うか……貴方にはまだ分からないでしょうけど、良いものよ、子育てって」

「ふうん」

曖昧な返事を返した雄一は、双慈が消えていた方向を眺めながら思いを馳せる。

――――刀廻町神士連合壊滅事件の犯人の一人。そして、新たに存在が認識された『新士』の一人。

そんな重要人物である双慈の処置を巡っては、剣輪町の神連でもかなり意見が割れていた。

一つの神連を壊滅状態に追いやったのだから厳重に処罰するべきだという意見に、貴重な研究サンプルとして保護するべきだという意見。

大別すればその二つ、細かく分けていけば更に多くの意見が出され、会議は難航した。それが最終的に『幻妖剣士』の保護の下、神連に迎えられる事になった経緯を思い出した雄一は、何気なく呟く。

「けどまあ、あれだな」

「何」

「いや、剣輪町の神連にいる人は、みんな心優しい人ばっかりだなって。そりゃあ勿論、好野さんの言葉が効いたってのも、あるとは思うけどさ」

「……そうね」

――――双慈が重罰を免れ、繚奈の保護下に置かれる事になった顛末を纏めると、次のようになる。

まず雄一が義長から聞いた話――刀廻町の神連を殺めたのは、拘束所から解放された神士達であり、双慈ではないという事。

次に繚奈が双慈から聞いた話――多量の血痕が有ったにもかかわらず人々が居なかったのは、義長の『新獣』が人々を喰らったからだという事。

そして双慈自身が言った話――自分が殺めたのは犯罪者である神士達であり、神連の人々は『鵺』の能力で気絶させただけだという事。

これら三つの事から双慈の罪はそこまで重くないという意見を、雄一と繚奈は出した。

勿論、どれも裏付ける証拠が無い証言ばかりだった為、周囲の人々からの反応はお世辞にも良いとは言えなかった。

しかし今回の事件においての功労者である雄一と繚奈の言葉であった為、人々は易々と無下にする事も出来ず、渋い反応を示した。

そんな彼らを納得させたのが、他でも無い好野だった。

――恐らく、そう遠くない未来に彼の様な『新士』が次々とその存在を露わにするでしょう。その時の為にも彼には生きてもらい、我々に協力してもらうべきではないでしょうか?

長い話の終わりに放ったこの一言が決定打となり、彼女は神連の人々からの共感を得たのである。

「好野さんも、大変でしょうね……これから」

数日前、調査団を組んで世界へと旅立った彼女を脳裏に浮かべたのか、繚奈は空を見上げながら呟いた。

「研究者の性を考えれば、義長が自身の研究について誰にも秘密にしていたとは考えにくい。詳細は話さずとも、研究の一部を誰かに漏らした可能性は十分考えられる」

「そして、その誰かが義長と同じ道を辿る事が起これば……か」

好野が会議の際に話した事を繰り返した二人は、ふと眼を伏せながら考える。

―――確かに、好野の言う通りだろう。いつかまた、新たな厄介事の火種が生まれる。それも今度は、下手をすればもっと多くのものを巻き込みかねない火種が……。

「『神の種』に『天上の庭』……そして『神素』か。確かに、不埒な輩が欲しがるには十分魅力的な物よね」

「ああ。俺達『神士』にとって、大きな問題が生まれちまった訳だ。これから、大変になるぜ」

「でも頑張らないといけないわ。その為の『神士』でしょう?」

「そうだな。そして、双慈君も……」

「ええ。『新士』として協力してもらわなきゃ。その為にも人の命の大切さや、力を持つ事の重みも教えていかないとね」

「やる気満々って感じだな」

「任せときなさい。輝宏共々、ちゃんと育ててみせるわ」

「はは、頼もしいな。流石母親って感じがするよ」

雄一が笑いながらそう言うと、不意に繚奈は複雑な表情を浮かべる。それを不思議に思った彼は、軽く首を傾げて尋ねた。

「どうした?」

「いえ、その……す、少し気になってる事が有るんだけど……訊いていい?」

「? 何?」

「そ、その……貴方……」

心なしか頬を赤らめた様に見える繚奈は、暫し俯いて言い淀みを繰り返す。そして一分程が経過した後、ようやく雄一へと向き直って口を開いた。

「何かのドナーになってたりとかする?」

「え、ドナー?……ああ……まあな」

思い当たる節が有った雄一は、複雑な表情をしつつ言葉を濁す。

これが臓器のドナーとかであれば躊躇いもしないのだが、提供している物が提供している物だけに、女性である繚奈にハッキリと言うのは気が引けたのだ。

なので仕方なく、内容は伏せて経過だけを彼女に告げる・

「何年前だったかな? 好野さんから話を聞かされて……まあその……報酬が出るって聞いて……そんで検査受けて、頗る健康だって結果出て……ってな事が、一回」

「……そう。そう、なの」

繚奈は乾いた笑顔を浮かべ、次いで苦しそうな表情に変わると同時に輝宏の頭を撫でる。

それを見た雄一は、やはり話すべきでは無かったかと頬を掻きつつ、彼女に声を掛けた。

「悪い。あんまり気分の良い話じゃないよな。報酬貰ってドナーになるなんて」

「ううん、気にしないで。まだ、確証が無い事だから」

「確証?」

「っ、何でも無い、忘れて。……そうそう、一つ教えてあげる」

「ん?」

雄一が眼を瞬かせると、繚奈は呆れた様な笑みを浮かべながら言った。

「ドナーは基本、報酬は禁止されてるのよ。例外は、現状一つだけ」

「っ! あんた、分かって……」

「ゆういっちゃん! 繚奈! お待たせー!!」

ギョッとして叫んだ雄一の言葉を遮って、聞き慣れた声がその場にいた二人の耳に響く。

ハッとして振り向いた彼らの眼に、紫色の浴衣を身に纏い、右手に巾着袋を持った光美が笑顔で現れた。

その可憐な姿に雄一は一瞬見惚れるが、慌てて我に返るとぎこちなく彼女に話しかける。

「あ、光美ちゃん。……っ、可愛いよ、浴衣」

「えへへ、ありがとう。でもちょっと遅刻だね。ゴメン、着付けに時間掛かっちゃって」

申し訳なさそうに光美が頭を下げるが、無論雄一は彼女を責める気は無かった。

「気にしなくていいよ。別にそんな厳守しなきゃいけない待ち合わせでも無いんだから」

「っ……ありがとう。ゆういっちゃんは優しいね。……あれ、繚奈?」

「えっ? な、何?」

不意に声を掛けられた繚奈は、妙な声を上げながら身を竦める。

「どうしたの? 変な顔してるけど?……あ、もしかして、大事な話をしてた?」

チラリと雄一を見ながら、光美はバツが悪そうに言った。それが指し示す事を瞬時に理解した彼が否定の言葉を述べるよりも先に、繚奈は誤魔化す様な笑顔で口を開く。

「う、ううん! 何でも無いわ。た、大した事じゃないから。ね?」

「へ? あ、ああ、まあ……そう、かな」

同意を求める視線を向けられた雄一は、曖昧に頷いてみせる。

実を言えば繚奈の様子からして『大した事』であるのは間違いないと思うのだが、今ここでその事を追及するのは好ましくないだろう。

それは光美に聞かせたくないという彼女の態度から、容易に想像がつく。仕方なく雄一は、これ以上光美が繚奈を追及しない様にと話題を振った。

「さて、三人揃った所で、そろそろ花火会場に行こうか。ちょっと早いけど、たこ焼き食べてたらすぐに時間になるさ」

「そ、そうね。光美、行きましょうか?」

「うん。それじゃあ、花火会場に出発! ええっと、此処からだと最短ルートは……」

キョロキョロと周囲に視線を彷徨わせながら、光美は歩き出す。その背中を追う様に、雄一と繚奈も歩き出した。

「……ありがとう」

その道中、不意に繚奈が小声で礼を言い、耳にした雄一は眼を瞬かせながら彼女を見る。

「何だ? 急に礼なんか言って」

「……気を遣ってもらっちゃったなって」

「ああ、そういう事か。なに、礼を言われる程の事でも無いさ」

苦笑交じりに雄一が言うと、繚奈も同じ様に苦笑した。しかし、それも束の間、すぐに真顔になると口を開いた。

「近い内に……ちゃんと言うわ」

「さっきの事か?」

「ええ。もし真実だとしたら、貴方に聞いてもらいたい事だから」

「そうか。……なら、俺もその時に言うよ」

「えっ?」

「こっちもあるのさ。聞いてもらいたい、大切な話がな」

「? それは……」

「もう二人共! ちゃんとついてきてよ!」

いつの間にか近くに来ていた光美が、右手で雄一の手を、左手で繚奈の手を掴む。その時、彼女の両腕に有る青と赤のブレスレットが、シャラリと音を立てた。

「っと! 光美ちゃん、そんなに引っ張らないでくれよ」

「そうよ。急がなくたって、花火は逃げやしないわ」

「もうっ! ゆういっちゃんも繚奈も暢気なんだから! 善は急げって言うでしょ! ほら、早く早く!!」

軽く頬を膨らませながらそう言うと、光美は二人の手を引っ張ってズンズンと人混みの中を歩いていく。

どうやら、自分が除け者にされていたと思ったらしい。二人してそう感じた雄一と繚奈は、光美に引き摺られる様に歩きながら顔を見合わせた。

「まっ、シリアスな話はまた今度って事で」

「同感ね。今日は難しい事は忘れて、楽しみましょう。私にせよ、貴方にせよ、せっかく大きな問題が一つ片付いたんだから」

「っ、そうだな。もう昔を思い出して、苦しむ事も無さそうだ」

そう言った雄一は、せかせかと前を歩く光美の後ろ姿を眺める。するとその視線に気づいたのか、不意に彼女がこちらに振り返ると嬉しそうに微笑んだ。

そこには相変わらず自分がつけた傷が有る。彼は一日でも早く、彼女が自らその傷を消す日が来るようにしなければと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――追想と今を行き来する日々はここまで。彼らはこれから先、今と未来を見据えて生きていく。

    その中でまた、再び戦いの火種が燻る時が来るであろう。しかし今この時は、彼らはその事を忘れて楽しんだ。ずっと心に巣食っていた、大きな闇が払われた喜びを噛み締めながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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