第二十八章〜『因縁』の終わり〜
……。
…………。
――――東暦1998年2月11日午後10時。
さざ波の音が規則正しく聞こえる海岸で、その場に不釣り合いな甲高い剣戟の音が響き渡っていた。
――――夜の闇に際立って映るは、紅い剣閃。対称的に夜の闇に紛れがちな、蒼い剣閃。
縦横無尽に幾度も幾度も交差し合うその二つは、遠眼には漆黒の中に浮かぶ鮮やかなネオンサインとも取れる。
それだけを見れば、ただ純粋に美しい光景。しかし、その光景の中で行われているのは、美しさからは程遠い血腥い事だった。
「っと!! おい、あんた! 何もこんな時間に、喧嘩吹っ掛けてこなくたっていいだろう!?」
次々と迫り来る紅い刃を躱し、或いは『龍蒼丸』で捌きながら、雄一は対峙している相手――繚奈に向かって叫ぶ。
「喧嘩? 何を言っている! これは『邪龍』と『神龍』に、ひいては私とお前に定められし、因縁の果たし合いだ!!」
「だからって出くわして早々、斬りかかって来る事は無いだろうっての!!」
「敵にわざわざ挨拶しなければならない道理は無い!!」
雄一の言葉を一蹴した後、繚奈は不意に連撃の手を止めて間合いを離すと、『紅龍刃』に黒い波動を纏わせる。そして勢いよく刃を突き出し、纏わせていた黒い波動を飛び道具として放った。
ハッとした雄一は咄嗟に『龍蒼丸』で防御しようとするが、波動を追いかける様に繚奈が迫っているのに気づくと慌てて回避行動を取る。
しかし判断の遅れからか、右頬を掠めるという際どい回避となってしまい、更に彼は体勢を崩す。
その大きな隙を見逃してくれる繚奈ではなく、雄一に接近した彼女は勝機を掴んだとばかりに『紅龍刃』を振り上げると、高々とした叫び声を上げた。
「殺った!!」
「!?……くっ!!」
迫り来る紅の刃に、雄一は心臓が戦慄で凍りつく様な感覚を覚え、一瞬だが呆然自失の状態になる。体勢が悪く、今から『龍蒼丸』を振っても防げそうも無い。
だが、正に視界が紅一色に迫るかという刹那、彼は殆ど無意識に左手で鞘を握りしめるや否や、素早く繚奈の右腕目掛けて振り回した。
予想外の攻撃だったのか、彼女は避ける事もせずに鞘の直撃を受け、驚愕と苦痛で顔を歪ませる。同時に斬撃の軌道がずれ、雄一の脳天を狙っていた刃は彼の右肩を斬り裂いた。
「痛っ!」
「ぐ……!」
鋭い痛みを感じた雄一に、鈍い痛みを感じた繚奈。二人はほんの束の間、至近距離で睨み合った後、どちらともなく間合いを離す。
両方とも大した傷では無かったが、既にかなりの時間を戦いづけている関係上、疲労も相まって実際以上のダメージを感じたからだ。
互いに痛む場所を押さえて荒い呼吸を繰り返しながら、それでも刀を握る手を緩める事はしない。
――――緊迫した空間の中、無言で向かい合っていた時間は、果たしてどれくらいだったか?
やがて大きな溜息をついた雄一が、心底うんざりした口調で言った。
「なあ、もう今日はこれくらいにしないか? 痛み分けって事でさ」
「っ!……たわけた事を!」
そう叫びながら、繚奈が再び雄一に迫ろうとした時だった。突如として、この場に不釣り合いな電子音が鳴り響き、雄一と繚奈は揃って動きを止める。
直後、音の発生源が繚奈からだと分かると、彼女は不愉快そうに舌打ちした。
「指令!? ちっ、こんな時に!!」
「こんな時にって……あんた、こんな私闘がそんなに大事か?」
「何が私闘だ! これはお前と私の……」
「あ〜あ〜分かったから。早く出なっての」
「っ、分かっている!」
苛立たしくそう言うと、繚奈は懐から携帯を取り出す。そして気持ちを落ち着ける為か一つ深呼吸した後、携帯を耳に当てながら口を開いた。
「はい、繚奈です」
今までとは打って変わって完璧に抑制された冷静な声に、雄一は半ば呆れ気味に繚奈を見つめた。
(軍人か、この人は……? 確かデータじゃ、普通の女子高生ってなってたけど……)
そんな彼の視線に気づくことも無く、繚奈は事務的な受け応えを続ける。
「はい……はい……分かりました。いえ、諸事情で今現場の近くにいますので、直接向かいます。……はい、ではこれで」
通話を終えた彼女は、携帯をしまうと落胆の溜息をつく。
何か大変な指令だったのかと尋ねようとした雄一だったが、それよりも早く彼女がこちらに顔を向けて声を発した。
「今日の所はここまでだ。……命拾いしたな」
「ああ、全くだ。……っと、大丈夫なのか右腕?」
皮肉交じりに頷いてみせた後、雄一は繚奈の右腕を指差しながら尋ねる。
袖に隠れて直接は見えないが、咄嗟の事で殆ど手心を加えてなかった鞘の直撃を受けたのだ。程度は分からないが、打撲をしているのは間違いないと思ったからである。
それは純粋に繚奈を心配しての言葉だったが、ある程度予想していたはいえ、彼女から返ってきたのはつれない言葉だった。
「要らない世話だ。あの程度の攻撃、どうという事は無い」
淡々と言い捨てると、繚奈は『紅龍刃』を鞘に納めると雄一に背を向けて駆け出す。不意に彼はその背中に何かを言おうとしたが、結局片手を伸ばしたまま沈黙し、程無くして手を下ろした。
〔やれやれ……今日も何とか、大事にならずに済んだか〕
「ああ」
心底安堵した様子で呟いた『神龍』に、雄一は相槌を打つ。と、その時になって、自分が右肩を負傷している事を思い出した彼は、今更ながらに痛みを感じて患部を手で押さえた。
「っ!……結構、ザックリとやられたな」
〔けど、今までに比べりゃマシじゃないか。背中をズタズタに斬り裂かれたり、脇腹を貫かれたりと散々だったもんな〕
「確かに」
雄一は思わず苦笑する。
繚奈と出会い、彼女が『神龍』と相反する神である『邪龍』と神化した神士……即ち、自分と『因縁』を持つ相手だと分かってから、もう随分と月日が経っていた。
――――その間、刃を交わした回数は果たして幾つだろうか? 説得の言葉を投げかけたのは幾つだろうか?
正確には不明だが、そろそろ数えるのが億劫になるくらいには達しているだろう。これから先、更にそれが続くのかと思うと、流石に気が重くなるのを雄一は感じる。
しかし、それでも繰り返すしか自分には無いのだとも、彼は分かっていた。――――自分が幼い頃にした誓約は、決して破る訳にはいかないのだから。
「……やっぱり、『邪龍』は話を聞いてくれないのか?」
右肩の応急処置を済ませ、『龍蒼丸』を仕舞いながら、雄一は『神龍』に尋ねる。すると、やはりというべきか、『神龍』は溜息交じりに答えた。
〔ああ。どうにもこうにも、随分と御堅い奴でな〕
「成程。でも、それって裏を返せば説得の見込みがある相手とも取れるんじゃないか?」
〔……いつになく前向きな意見だな、雄一〕
呆気に取られた調子の『神龍』に、雄一は聊か気分を害したものの、特に声を荒げるまでもなく「まあな」と返す。
「こんな事が繰り返されてると、穏便な方法で解決できると信じたくなるもんさ。……あの人も会う度に腕を上げてるし、俺もいつまで凌げるか分からないしな」
ふと斬られた右肩を眺めながら、雄一は繚奈の事に思いを馳せる。
現在、所属している神連のデータによれば、彼女は刀廻町という町の神連に所属しており、神士となってからの年月は、まだ二年足らず――新米の域だそうだ。
にも拘らず、既に十年以上もの経験を積み、最近になって『覇王剣士』という二つ名で呼ばれる様になった自分と伯仲する実力を持つのだから、その力は脅威と言わざるを得ない。
勿論、彼女と神化している『邪龍』が、『神龍』と同等の力を持つという事も理由であろうが、それ以上に彼女の神士としての素質が優れているのは明白だ。
この先、ずっと命を奪われない様に……また命を奪わない様にし続ける自信は、正直無かった。
〔雄一……〕
「っと。あんまり考えてても仕方ないな。さっ、そろそろ帰ろうぜ」
〔……ああ」
……。
…………。
――――東暦2000年7月14日午前11時30分。
何かの拍子で雄一は意識を覚醒させ、自分が夢を見ていた事に気づく。
無意識に身体を起こそうとした瞬間、引き攣った様な痛みが感じられ、反射的に苦痛の声を漏らした。
「てて。我ながら、よくこんな体勢で寝てたな」
背中を預けていたラボの硬い壁を眺めながら、彼は独りごちる。
単に休む筈だったのに、いつのまにか眠りに落ちていた事が、まだまだ己の状態が本調子でない事を物語っていた。
倒れた双慈のついでとばかりに、休んだ方が良いと半ば強制的にラボの外へと自分を出した好野の判断は確かだったと考えつつ、彼は深く嘆息する。
と同時に、急に熱っぽさを再認識して思わず額を押さえた。慣れていると言えば慣れているが、神力を酷使した後に来るこの状態はやはり辛い。我慢できるとはいえ、傷の痛みよりも遥かに億劫だ。
厳密に言えば身体の不調ではないので薬が効かない上、どうしたって気持ちが沈みがちになってしまうからである。尤も、後者は自分だけなのかも知れないが。
(好野さんの言った通り、自宅に戻ってしっかりと休むべきだったかな? けど、まだ色々と知りたいし……)
〔ふわあ……お、雄一、起きたか〕
不意に聞こえた相棒の呑気な寝起き声に、雄一の思考は遮られる。しかし彼は不快には感じず、むしろ少し気持ちが軽くなった様に思いながら口を開いた。
「何だ、そっちも寝てたのかよ」
〔ちょっと疲れてたし、お前が寝たのを見て丁度良いやと思って思ってな。どうだ? 少しは疲れが取れたか?〕
「っ……どうかな」
雄一がそんな苦笑交じりに返事をすると、『神龍』は何かを察した様に「そっか」と僅かに落胆を含んだ声で呟く。
〔まっ、色んな事が有った後だし、気が休まらないのも無理はないか。心に引っ掛かる事も沢山有るし、まだやんなきゃいけない事も有るしな〕
「ああ。それを考えると、どうにも落ち着かない。でも身体は疲れてる。だからだろうな、こんな所で眠っちまったのは」
〔……なあ、雄一?〕
「うん?」
〔早いうちに、彼女と……光美と話した方が良いんじゃないか? 何なら、今からでも〕
「…………」
わざわざ『神龍』に言われるまでもない事だった。本当なら、自分が目覚めてからすぐにでもした方が良い事だった。
だが雄一は、それを先延ばしにしていた。後ろめたさは勿論だが、気持ちの整理がついてなかった事も無視できない理由だった。
更に言えば彼女とは違う、もう一人の彼女――繚奈と会話するのが先だという思いも強かったのである。
〔俺の推測だけど、好野さんがお前に休めて言ったのは、多分そういう意味も含んでたんだと思うぞ。だから……〕
「そうだな。……そうするか」
何ども瞬きを繰り返しながらそう言うと、雄一は携帯を取り出して好野宛に連絡を送る。
眼前に積まれた問題は多く、それらは一つ一つ片づけていくしか無い。ならば今、可能なものから順番にというのが妥当だろう。
上手く話せる自信は皆無だ。けれども自分が……そして彼女が納得できるまで話し合えるだけの時間が、今は有る。それが何よりの救いだと、雄一は考えた。
「これでよしと。さて、んじゃ行くとするか。多分、あの人が入院してる病院かな?」
〔ああ、そう考えるのが一番……っ!?〕
「? どうした『神龍』……!!」
突然、緊迫した雰囲気を纏った『神龍』に、雄一は尋ねる。だが、その返事を聞くよりも先に、凄まじい悪寒が全身を駆け抜けるのを感じ、思わず身を竦めた。
―――間違いない、殺気だ。それも、よく知った人物が放つ殺気。
条件反射的に彼が『龍蒼丸』の柄に手を掛ける否や、土を踏みしめる足音が聞こえ始め、やがて徐に繚奈が姿を見せた。
身体の所々に包帯が巻かれた手負いの状態でありながらも、その眼は鋭く中には冷たい光が宿っている。これまで否応なしに見てきた、『幻妖剣士』が本気になった時の表情だ。
不意に雄一の脳裏を、先程の夢の内容が掠める。静かに、しかし強烈に放たれる殺気に肌がピリピリするのを感じながら、彼は低い声で繚奈に尋ねた。
「……一体、どういうつもりだ?」
「知れた事。決着をつけにきた」
短くそう言い捨てた繚奈は、軽く周囲を見回して人がいない事を確認する。そして、ゆっくりと『紅龍刃』の柄に手を掛けて抜刀術の構えを取り始めた。
(……?)
その姿を見て、雄一はふと疑問を覚える。これまで繚奈と戦ってきた中で、彼女がこんな構えを取るのを見た事が無かったからだ。
彼女が得意としているのは抜刀状態からの高速連撃であり、抜刀術の様な一撃必殺の攻撃は専門外だった筈である。
しかし、これ程までに殺気を剥き出しにした状態で悪ふざけするとも思えない。そもそも彼女がそんな人だとは、雄一には思えなかった。
――――ならば、一体繚奈はどんな思惑で…………?
「何をしている? さっさと構えろ」
「っ」
冷たい物言いとより強くなった殺気に、雄一は強制的に中断させられる。そんな彼の中で、苦々しく『神龍』が毒づいた。
〔くそ! 何を考えてんだ『邪龍』の奴!!〕
(『神龍』、『邪龍』は何て?)
〔何も言わねえんだよ、あいつ! 彼女もまだ怪我が完治した訳じゃないだろうに、どういうつもりなんだか!!〕
(本当だよな。けど……)
相棒の言葉に同意を示しつつ、雄一は徐に繚奈と同じく抜刀術の構えを取る。別段、『彼女に合わせた』という訳では無い。
手負い且つ満足に神力も回復しおらず、下手に『神龍』の技を使えない今、速さには速さで対抗するのがベストだと判断したからだ。
未だ繚奈の真意は分からない。しかし、だからといってこの場から逃げる訳にもいかない。そんな事が許されないのは、彼女が放つ殺気から容易に推測できる。
結局、今の自分にはこの勝負に受けて立つしか道は無い。そういう結論に達した彼は背中に冷たい汗を流しながら、繚奈に言った。
「怪我はもういいのかよ?」
「これから死ぬ人間に、答える義理は無い」
問いを一蹴した彼女は、唇を真一文字に結ぶと『紅龍刃』に掛けている手を強く握りしめる。そして、より一層鋭くなった眼光をこちらに向けてきた。
気遣いは無用という事だろう。仕方なく雄一も『龍蒼丸』を握る手に力を込め、繚奈の殺気に対して闘気を放つ。
それを感じた彼女が、ふと嬉しそうな表情を浮かべた様に雄一の眼に映った。しかし、彼がその事に怪訝に思えるよりも先に、真顔の繚奈が低い声で呟く。
「いざ……」
「尋常に……」
呼応するかの如く雄一はそう呟くと、全神経を研ぎ澄ませた。
この勝負を制するには、繚奈よりも早く強く刀を振るい、且つ彼女を殺めない様にしなければならない。
今までと同じと言えば同じだが、抜刀術同士の対決という一撃勝負でそれをこなすのは極めて困難な事だった。だが、どれだけ困難であろうと、自分はそれを成し遂げるしかない。
此処で終わりにする訳には、絶対にいかないのだ。改めてその事を強く心に刻み、雄一は深く息を吸い込むと高らかに叫んだ。
「「…………勝負!!」」
繚奈の声と重なったその叫びを合図に、二人は激しく大地を踏み鳴らしながら間合いを詰める。
瞬く間にその距離は縮まり、『覇王剣士』と『幻妖剣士』は獣の様な雄叫びを上げつつ各々の刀を抜いた。
それら――『龍蒼丸』と『紅龍刃』が軌跡を描き、蒼と紅の輝きが生まれる。鮮やかとも言えるその輝きが、次の刹那に激しくぶつかり合う。
――――そして、甲高い金属音が鳴り響いた時…………紅の刃が宙を舞った。
「俺の勝ち……って事で良いのか、これ?」
「……当然だろう」
ゆっくりと『龍蒼丸』を納刀しながら雄一が尋ねると、繚奈は酷く穏やかな声で答えた。
右腕を押さえ、片膝をついている状態でこちらに背を向けている為、彼女の表情を窺う事は出来ない。しかし、僅かに見える口角が吊り上がっているのを、雄一は見逃さなかった。
――――笑っている。
そう判断するしかない事に戸惑っている彼に、繚奈は言う。
「見ての通り、私はお前に競り負けて刀を手放した。そして今、右腕は麻痺して身体自体もロクに動かない。この状態の私なら、難なく斬り捨てられる。……違うか?」
「まあ、そうだが……俺は……」
「分かっている。誓約だろう? いつぞや、話してくれたな。人を殺める訳にはいかないと」
「……ああ」
雄一がそう言って呟いた瞬間、繚奈が笑った。声を上げ、肩を震わせながら笑ったのだ。
彼は更に戸惑う。不敵な笑みというものなら何度か見た事は有ったが、今の彼女の笑いはそれとは明らかに違う。
それが何を意味しているのか分からずに混乱する雄一に、彼女徐に身を起こしながら振り向いた。
「この勝負の勝者はお前だ。本来なら私とお前……いや『邪龍』と『神龍』は、永久に戦い続け、滅ぼし滅ぼされ合う運命。
だが勝者であるお前と『神龍』が、私達を滅ぼすのを拒むと言うのなら……敗者である私達は何も言いはしない。これもまた『因縁』の終わり。そう思うだけだ」
「私達って……じゃあ、『邪龍』も?」
「ああ、それで構わないと言っている。だから……」
そこで一旦言葉を切ると、繚奈は暫く眼を伏せながら俯き、やがて軽く頭を振りながら顔を上げた。刹那、雄一は一瞬彼女に眼を奪われる。
――――初めて彼女が自分に向けて、女性らしい優しい笑顔。
何か見るに堪えないものを感じた彼は慌てて眼を逸らし、一拍おいて再び彼女を見た。
軽く吹き始めた風に短い茶髪と両耳の赤い雫のイヤリングが揺れている。笑顔と相まって、それらは際立って美しく雄一の眼に映った。
「もう、私と貴方が戦う必要も意味も無くなったわ。……悪かったわね、今まで」
「い、いや、それは俺の方こそ……ってか、何だっていきなり……」
〔当たり前だ! じっくり聞かせてもらうからな!〕
「うわっ!?……『神龍』! いきなり大声出すなっての!」
〔へ? あ、ああ、悪い悪い〕
「ったく」
雄一は呆れた様に悪態をついたが、事情が何となく理解出来た為、それ以上の文句は言わなかった。
代わりに、自分の考えが合ってるかどうかを確認する言葉を、『神龍』に言う。
「また『邪龍』が、何か言ってきたのか?」
〔まあな。全部話してやるって…………何?……そうだな、分かった〕
「……『神龍』?」
こちらとの会話を中断し、『邪龍』と話し始めたらしい相棒に、雄一は怪訝そうな顔をしつつ尋ねる。すると、思いもよらぬ言葉が返ってきた。
〔雄一。悪いけど暫く離れさせてくれ。あいつと……『邪龍』とだけで話がしたいんだ〕
「え? 『邪龍』と?」
〔ああ。んじゃ、先に彼女と帰っててくれ。……よっと!〕
「ちょっ!? お、おい!……う……」
咄嗟に制止の言葉を掛けようとした雄一だったが、それよりも早く僅かに意識が遠退くのを感じて額を押さえる。
初めてではないとは言え、自分の中から『神龍』が離れていくこの感覚はどうにも気持ち悪くて仕方が無い。平常時ならいざ知らず、体調不良の今はかなり堪えるものがあった。
「……慣れないものね。これは」
不意に繚奈の声が聞こえ、雄一が彼女を見やると、彼女もまた自分と同じく額を押さえ、苦しそうな表情で汗を浮かべていた。
「『邪龍』も、あんたから出たのか?」
「そういう事。もうこっちから声を掛けたって、何も返ってこないわ。向こうがその気にならない限りは、ね」
こちらに説明するというよりも独りごちる様な調子でそう言うと、繚奈は覚束ない足取りで歩き出し、地面に突き刺さったままだった『紅龍刃』を抜き取る。
それを慣れた手付きで納刀すると、ゆっくりと雄一へと振り向いた。
「さてと。私はこれからに病院に戻るわ。抜け出す形で出てきちゃったし、早く戻らないと輝宏や光美が心配するだろうから。貴方は?」
「あ、ああ、じゃあ……俺も同行させてもらおうかな。光美ちゃんとも話さきゃならないし」
「っ……そう。なら、一緒に行きましょうか。だけど……クス」
「な、何だよ?」
いきなり笑みを零し始めた繚奈に、雄一は幾分か気分を害しながら尋ねる。
「ゴ、ゴメン。だけど、やっぱり変だなって思ったの。『光美ちゃん』って、子供の呼び方でしょ?」
「い、良いだろ別に! ずっとこう呼んでたんだから! 大体、変って言うなら、あんたのその言葉遣いの方がよっぽど変だぜ!」
雄一は気恥ずかしさを感じて、そう言い返す。しかし繚奈は、済ました表情で可愛らしく小首を傾げてみせると、おどけた口調で受け流した。
「あら。私は普段、こんな感じよ。あんな風に男みたいな感じになるのは、『敵』と喋ってる時だけ」
「……つまり、俺はもう敵ではなくなったから普段の口調に戻した、と?」
「御明察。結構、頭が回るじゃない。まあ、単細胞じゃないのは知ってたけど」
「く……」
――ある意味、こっちの方が厄介というかムカつくぞ。
ついそう口に出してしまいそうになった雄一だったが、寸での所で飲み込む。
何はともあれ、彼女との『因縁』はもう終わったのだ。全く実感が湧かないが、彼女の態度からしてそう考えざるを得ない。
非常に喜ばしい事だ。前からずっと……最近は更に重く圧し掛かっていた苦しみから解放された安堵感が、彼の心を満たしていた。
―――――自分が気に掛ける女性の親友……一児の母……そして、自分と半分だけだが血を分けている彼女と、もう戦わなくて済むのだから。
「まあ、これで話しやすくなったと言えば話しやすくなったか」
「?……何の事?」
「気にしないでくれ、独り言だ。さっ、早くあんたの病院に行こうぜ。……って、あんた歩けるのかい?」
「大丈夫。大分回復してきたし、走らない程度に動くなら問題無いわ」
「なら良いけど……あんまり無理すんなよ」
「あら、心配してくれるの?」
「そ、そりゃあ……」
その後に続く様々な言葉が浮かんでは消え、雄一は暫し逡巡する。やがて彼の口から出たのは、やはりというか最も当たり障りの無い言葉だった。
「もう敵じゃないんだからな」
〔はあ〜彼女がそんな事を考えてたとはねえ……〕
雄一と繚奈が町への帰路についてから十数分後。
『邪龍』との会話に一区切りがつき、聞き終えた『神龍』は感嘆の溜息をついていた。
〔最早戦う気になれない。けど決着はつけなきゃならない。だから敢えて自分が負けやすい勝負を仕掛けた……か。随分とまあ、不器用な遣り方だな〕
言いながら『神龍』は、先程の雄一と繚奈の戦闘を思い返す。
雄一も多少は勘付いたかもしれないが、あれは繚奈が意図的に仕組んだ不対等な勝負だ。
あの様な一撃勝負では、腕力で勝る雄一にどうしたって分がある。そしてそれを理解できない程、繚奈は彼を知らない訳でもない。
ハッキリとした申し合わせは無かった。しかし、頭の回る彼女の事だ。ああやって抜刀術の構えを取れば、自ずと雄一も同じ構えを取ると読んでいたのだろう。
――――自分に……そして雄一に対して納得させられる敗北を得る為に。
〔あんな事しなくたって、普通に『もう戦いたくないって』言やあ、雄一はアッサリ承諾したと思うんだがねえ……〕
〔それが繚奈ですから〕
呆れと喜びが混じった、珍しく軽い感じの声で『邪龍』はそう呟く。それを聞いた『神龍』は、少々非難する様な口調で意見を述べた。
〔でもなあ、どうせならもっと早くにそういう結論に至って欲しかったぜ〕
〔高望みはよしてください。あの様な考えに達しただけ、繚奈は出来た人です〕
〔……へえ〕
〔何ですか?〕
〔いや……やっぱり、お前も自分の相棒を贔屓したりはするんだなって〕
〔っ、別に私は贔屓してはいません。ただ、客観的に見て繚奈は……〕
〔あーあー分かった分かった。 お前がそう思ってるんなら、俺はこれ以上何も言わないよ。それより……〕
砕けた口調から一転して硬い口調に切り替え、『神龍』は『邪龍』に尋ねる。
〔彼女が言った事は、本当なんだな?〕
〔……ええ。私は、嘘をつくのは苦手ですから〕
〔その言葉を信じていいんだな?〕
〔疑り深いですね……というのは酷ですか。確かにこれまでの私らしからぬ事ですからね。せっかくですし、理由をお話しましょうか?〕
〔ああ、是非聞きたいな。『何もそこまで因縁に拘らなくていいだろ』って俺の意見をあれ程突っぱねてきたお前が、どういう心境の変化なんだ?〕
〔それです〕
〔はあ?〕
思わず間の抜けた声を出した『神龍』に、『邪龍』は〔ですから……〕と言って続ける。
〔貴殿が繰り返し言ってきた、その言葉が要因です。最近になって、それが正しいと思う様になったのですよ〕
〔何でまた?〕
〔繚奈です〕
即答した後、『邪龍』は記憶を呼び覚ますかの様に暫し間を置き、やがて再び話し始めた。
〔昔は誇らしく思っていたのです。私と貴殿の『因縁』を、自分の事として受け入れていた彼女を。ですが最近……繚奈が母親になってから、少しずつ疑問を持ち始めたのです。
彼女にこんな重く血腥い事を背負わせて良いのか、と。そんな私の思いとは裏腹に、繚奈は半ば意固地になった様に貴殿と彼を討つ事に拘り始めました。
それを見て、何か疑問を覚えたのです。果たしてこれが正しいのか、と〕
〔成程。で、極めつけはあの光美って所か?〕
〔っ……そういう事ですね。その辺りについても、お話しましょうか?〕
その問いに『神龍』は一瞬逡巡したが、ややあって躊躇いがちに答える。
〔……いや、いい。それは俺が聞くべき話じゃないと思うし〕
〔そうですか。では、そろそろ話も終わりですね。残っているのは後一つ……〕
〔そうだな。俺達の今後についてだ〕
『邪龍』が言い終わらないうちに先の言葉を察し、『神龍』は相槌を打った。
〔俺達が互いに滅ぼしあう理由は、もう何処にも無い。それが果たして雄一や彼女に……果てはこの世界にどんな影響を与えるのかは分からない。何せ、前例が無いんだからな〕
〔ええ。ですが私達は信じるしかありません。貴殿と私は多くの点で正反対ですが、一つだけ同じ点が有ります。神化している神士の幸せを願う心を持つ……そうでしょう?〕
〔ああ。『因縁』が終わった今、俺達が最優先に考えるのはそれだ。そしてそれには、俺達が協力しなければならない……そうだろ?〕
〔はい〕
そう言って頷いた『邪龍』の眼は澄んでいた。それを見た『神龍』は、柄にも無く難しい考えを頭に過ぎらせる。
――――今この瞬間、自分達は本当の意味で出会ったのではないか?……と。
だからこそ自然と口が動いた。それに対する戸惑いや羞恥心は、何処にも無かった。
「これからよろしく頼むな、『邪龍』」
「こちらこそです、『神龍』」
間髪入れず、向こうも似た様な挨拶を返す。こんなのも悪くない、と『神龍』は思った。
チラリと『邪龍』を見ると、何かを了承した様に向こうは頷いた。それと同時に、声ならぬ声が聞こえてきた様に、『神龍』は感じた。
――ええ、悪くありません。
そんな声が聞こえた様に。
「繚奈。輝宏君はグッスリ眠って……っ!」
病室のドアを開けながらそう言った光美だったが、室内にいた繚奈以外の人物の存在に、思わず絶句してその場に立ち尽くす。
繚奈が横たわっているベッドの傍らに立っていたその人物は、光美に視線を向けるとややぎこちなく片腕を上げて挨拶した。
「っ……邪魔してるよ」
「ゆういっちゃん……」
反射的に想い人の名を呟いた光美だったが、その後に続ける言葉を見失い、石像の様にその場に立ち尽くす。
そんな彼女を見かねたのか、ベッドの中の繚奈が苦笑を漏らした。
「もう光美ってば。そんなに固まらなくてもいいじゃない。……貴方もほら、言うべき事が有るんでしょ?」
軽く小突く仕草をしながらそう言った彼女に、雄一は曖昧な笑みを返しながらも「そうだな」と呟く。
そして徐に光美の傍へと歩み寄ると、何度か瞬きを繰り返した後に口を開いた。
「光美ちゃん」
「っ、な、何?」
「話したい事が有るんだけど……今から良いかな?」
「う、うん。私は……っ!」
刹那、光美の脳裏にある考えが浮かぶ。良い考えだと思った彼女は、迷う事無くその考えを口にした。
「私は構わないけど……ちょっと、ゆういっちゃんに来てもらいたい所が有るの。そこに行きながらで、良い?」
「来てもらいたい所? 別に構わないけど」
「良かった。じゃあ、今から行こう。ゴメン、繚奈。また後で」
「ええ、行ってらっしゃい。私の分も、お二人によろしく言っておいて」
「っ……うん」
流石は親友だと、光美は感心する。
――――繚奈は分かっているのだ。自分が雄一を、何処へ誘っているのかを。
「?……お二人によろしくって」
「行けば分かるわよ。ほら光美、早いとこ連れてってあげなさい」
「う、うん。ゆういっちゃん、ほら、行こう」
「うわっ!」
「……!」
無意識に雄一の手を握った途端、男性特有の硬い感触が伝わった事に、光美は一瞬だけ戸惑いを覚える。
自然と実感する九年の歳月。彼と自分の空白の時間。しかし彼女は意識してそれらを振り払うと、ゆっくりと繚奈の病室を出た。
――――自分の両親が眠る場所へ、彼を連れて行く為に。