第四編〜最初の朝〜

 

 

 

 

 

「ん……?」

まだ暗闇の……それでも微かな明るさを感じる時刻に、ふとモニカは意識を覚醒させた。

そして、目の前にあった最愛の人の寝顔に、一瞬ドキリとする。

「っ!」

「……ん……」

それに反応するかの様に彼が身じろぎしたので、彼女は驚きと戸惑いを含んだ声でそっと囁く。

「ユリス……?」

「…………」

しかし彼が返事をする事はなく、ただ規則正しい寝息だけが聞こえてくる。どうやら、未だに夢の中の様だ。

「何だ、起きたんじゃなかったのね……あっ……」

そう呟いたモニカは、不意に今の自分がどんな姿であるのかを思い出し、急に恥ずかしくなってシーツを胸に手繰り寄せる。

(それにしても………)

ユリスの無垢な寝顔を眺めつつ、モニカはふと呟いた。

「本当に結婚……したんだよね……私達……」

正直、今でもイマイチ実感がわかず、彼女はその事が夢か幻ではないのかと、一瞬錯覚する。

それくらい昨日の出来事は、モニカにとって余りにも幸せすぎる物だった。

と、その時、何の気なしに動かした左手に違和感を覚え、彼女はふと視線を落とす。

「あ……」

――――青く輝く……彼がくれたサファイアの指輪。

それを眼にした瞬間、モニカは何もかもが現実であったと再認識する。

――――そう、夢でも幻でもない。自分と彼は……確かに結婚したのだ。

「……ユリス……」

言い様の無い幸福感を噛み締めつつ、彼女は再び彼の名を呼んだ。

返事等は期待してない。ただ呼びたかったのだ。そうする事で、少しずつ幸せに満ちていく様に感じて。

「……ありがとう」

様々な想いを秘めた礼を述べた後、モニカはジッとユリスを見つめる。

――――闇の中でも微かに見て取れる、鮮やかな金髪。今は閉じられている、エメラルドグリーンの瞳。

(思えば、私……五年前から、この寝顔見てるのよね)

そう。確かに自分は五年前から、この寝顔を見てきた。

あのアトラミリアを巡っての冒険から――途中に三年間の空白があったとはいえ、彼の寝顔は今更珍しい物ではない。

にも関わらず、モニカは今眼前にある寝顔が、初めて見る物の様に思えてならなかった。

そして同時に……そう思う理由も分かっていた。

(私がユリスを見る眼が……変わったからよね……きっと……)

――――初めは少々頼りないと感じる、年下の少年。その次は、些か苛立ちを覚える程に、大人びた感性を持った仲間。

その次は、アトラミリアに選ばれたのが、十分納得できるくらいの勇者。

(それから……それから……っ……)

心の中で思っているだけなのだから、誰にも聞かれる筈がないのにも関わらず、モニカはカアッと頬を赤く染める。

(やだ、私……何一人で恥ずかしがってんのよ?)

自分で自分に問いかけながらも、彼女はその続きを思った。

――――……その次は、惹かれてはいけないと分かっていながら、惹かれてしまった男の子。

その次は、誰にも渡したくない、ずっと傍にいて欲しいと、切に願う程に愛した恋人。

「そして今は……これからずっと一緒にいると誓った、最愛の夫……か」

口に出して呟くと尚更恥ずかしさが募り、モニカは思わずシーツを眼の位置まで引き上げた。

その際ユリスに掛かっていたシーツが、彼女の方に少し引っ張られるが、それでも彼が起きる気配は無い。

しかし代わりに無意識に違和感、或いは寒さを覚えたのか、彼はシーツを求めて手を彼方此方に動かし始めた。

まるで小さな子の様なその仕草に、モニカは思わず軽い笑い声を漏らす。

「クスクス……こうしてると、まだまだ子供って感じよね」

「ん……んん……」

彼女が笑うその間も、ユリスはシーツを探す手を止めない。

その様子を微笑ましく見つめていたモニカだったが、不意に肩に伸びてきた彼の手にギョッとした。

「えっ!?ちょ……ユリス!?」

反射的に大声を上げてしまったが、当のユリスは満足したかの様に、スヤスヤと眠っている。

――――……しっかりとモニカの身体を、両腕で包み込んで。

「〜〜……!!」

一方の彼女はというと、完全に目が覚めてしまい、とても眠る所ではない。

声にならない声を発し、カアーーッという擬音が聞こえてくるくらいの勢いで、熱くなっていく全身を持て余していた。

それから同時に、さっきの自分の言葉を撤回する。

――……こうしてると、まだまだ子供って感じよね。

(……違う。もうユリスは子供なんかじゃない。立派な男の人なんだ)

モニカはそっと、自分を抱きしめている彼の両腕に眼をやる。

どちらかというと華奢な腕だが、その中には確かな力が込められているのだ。――――自分よりも遥かに強い力を。

それは咄嗟だったとはいえ、全く抵抗する事が出来なかったさっきの事からも、容易に推測できる。

――ユリスは男の人で……私は女の人……。

いくら自分が鍛えていようと、やはり純粋な体力や力には決定的な差があるのだ。

それは昔から薄々気づいてはいたが、今になってより一層気づかされる。

「これがいわゆる、『時』の流れって奴……なのかな?」

男の子は月日を重ねて男の人になり、女の子は月日を重ねて女の人になる。考えてみれば、当たり前の事だ。

五年という歳月は確実にユリスを男の人にし、自分を女の人にしていった。そう思うと、何だか不思議な気持ちに襲われる。

(すごいわね……『時』って)

世界を変え、人を変えていく『時』……それは流れる水の如く、決して止まる事はない。

自分達もまた、そんな『時』に従って生きているのだ。……まあ自分達の場合、些か捻れがある訳だが。

(『時』が経って、私は変わった。……ユリスもきっと、変わったんだよね……)

何がどう変わったのか?……それはモニカ自身、ハッキリとは分からない。そして、それはきっとユリスも同じだろう。

しかし、何かが変わったというのは、間違いなく確かな事。それだけは、妙に確信が持てた。

――――けれど……変わらないものも……きっとある。

そう。どんなに『時』が流れても、決して変わらないものはきっとある筈だ。そう思いたいと、モニカは強く願う。

(私の傍にユリスがいて……ユリスの傍に私がいる)

この先にどんな未来があるのか分からずとも、それさえ変わらなければ……きっと、どんな事でも乗り越えていける。

彼女はそう思っていた。そしてそれは、恐らく間違っていないだろう。

――――だから……絶対に、変わらないで欲しい……。

「ユリス……」

静かに眼を閉じ、彼の温もりに身を委ねながら、モニカは小さく呟いた。

「これからも、ずっと……ずっと一緒だよ?」

彼女はそう言い終えると、安らぎに包まれた様に、再び眠りに落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

――――数十分後。

「……ん……?」

何やら心地よい温もりと香りを身近に感じ、ユリスは不意に眼を覚ました。

「何だ?……っ!?」

ボンヤリしながら呟いた彼だったが、ふと視線を落とした瞬間、ビクッと身体を強張らせる。

(な、何でボク……モニカを抱きしめて寝てるんだ!?)

急激に覚醒していく意識と高まっていく体温を必死に抑えつつ、ユリスは寝る前の記憶を呼び覚ました。

――――少々緊張しながら、同じベッドに入って……他愛も無い会話をして……愛し合って……。

恥ずかしさに少しばかり顔を赤らめながら考えてみたが、彼女を抱きしめて眠った覚えは無い。となると考えられるのは限られてくる。

(まさか……寝ぼけて!?)

最悪の考えに辿り着き、ユリスは焦った表情でモニカを見つめた。

スヤスヤと心地よく眠る彼女の寝顔に、一瞬心臓が高鳴ったが、今はそれどころではない。

「と、とにかく、放してあげた方が……いいよ……な?」

誰ともなしにそう呟きながら、彼はソロソロと彼女を抱きしめていた両腕を解き、ゆっくりと身を離した。

「ふうっ……よし、これで……てっ!?」

ユリスが安堵の溜息をついたのも束の間、不意にモニカが小さい声を漏らし、次いでモゾモゾと彼に擦り寄ってくる。

――――……まるで、温もりを求めるかの様に。

「え……えっと……」

やり場の無い両手を持て余しつつ、彼は暫し呆然と動きを止める。

しかし、ふとモニカが「ユリス……」と呟いたので、思わずビクリと身を竦ませた。

「モ、モニカ?……起きたの?」

「…………」

返事は無い。どうやら、単なる寝言だった様だ。

「なんだ……起きたんじゃ、なかったのか」

「……ずっと……」

「……えっ?」

「……ずっと……一緒だよ……」

「っ……」

その言葉を聞いた瞬間、ユリスは反射的に彼女を再び抱きしめていた。

多少強引とも思うくらいの抱擁だが、モニカが起きる気配は無い。……いや、彼女が起きない様に注意を払う事等、今の彼は考えていなかった。

――――ただ……ただ彼女が……モニカが愛しい。

その想いだけを心に宿し、ユリスは眼を閉じて全身で彼女を感じる。

「うん……ずっと……ずっと……」

先程のモニカの寝言に返事をしつつ、彼はこれまでの事を振り返った。

(思えば、この数年間……本当に色んな事が有りすぎたよな)

――――彼女との突然の出会いから、それまでの小さく狭い世界から飛び出していった自分。

その日から繰り返された、冒険と戦いの日々。その中で知った世界、真実、痛み。

待ち受けていた彼女との別れ。呆気無いとも思った早い再会を経て、また戦いと冒険の日々に戻る。

二度目の彼女との別れ。そして全てが終わり、平和になった日々。――しかし、自分には何かが足りなかった日々。

そして、三度目の彼女との出会い。別離の長さから生まれた、相手への想い、擦れ違い。……そこから生まれた、確かな愛。

再び狂い始めた『時』。自分と近い――そして同じ存在との逡巡。それに対しての葛藤を胸にしつつ、尚も戦い、戦い。

「…………」

まだ真新しい記憶の筈なのに、それら全部を鮮明に思いだす事が出来ず、ユリスは無意識に呟く。

「よく生きてたもんだな……ボクも……君も」

今だからこそ思える。自分達がいかに非日常で、危険な事に巻き込まれてきたのかを。

一歩間違えば、何度命を落としていたか分からない戦いの連続。そんな『時』を過ごしてきた事を思い、彼は今更ながら恐怖を感じた。

(無茶ばっかりするんだから……モニカは)

ふと閉じていた眼を開き、ユリスはそっとモニカを見つめる。

露出された素肌は、染みも傷も何一つ無く白い。剣を振るう事の多い腕は、華奢で弱々しく見えて仕方が無い程に細い。

『戦い』という荒んだ世界に身を投じ続けてきた者とは思えない程に、彼女は酷く儚く、そして美しかった。

「モニカ……」

愛しげに妻の名を呼びつつ、ユリスはそっと彼女の肌に手を滑らせる。

昔は欠片も意識してなかったが、それは確かに自分とは違い、柔らかい女性の物で。

(この肌に……残る様な傷が出来なくて、良かった)

不意に、そんな考えに囚われた。

もし昔の彼女と会話が出来るのなら、この言葉を伝えたいと、彼は切実に思う。

――もっと身体を大事にしなよ。女性なんだから、君は。

これまでの幾多の戦いで負った、擦り傷、切り傷、火傷。

一体、それらの幾つがモニカの肌に刻み込まれてきたのかと思うと、ユリスは耐え難い胸の痛みを感じずにはいられなかった。

その痛みを紛らわすかの様に、彼はより一層彼女を抱きすくめる。

――――……失いたくない。……傷つけたくない。

ユリスはそんな想いを胸に秘め、そっと眼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

――――昨日までで、彼らの一つの『時』が区切りを迎えた。

    そして今日から、また新たなる『時』が始める。……結ばれた、愛する者同士としての『時』が。

 

 

 

 

 

 

 


  

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