第五編〜流動の日々〜

 

 

 

 

――――ユリス邸。

昼下がり。ゴシゴシとモップを動かしながら、モニカは廊下を掃除していた。

「ふう……よし、ここはこんなもんかな?」

とりあえず一通り終わった所で、彼女は手を止めて額に浮かんでいた汗を拭う。

ざっと周りを見渡してみるが、果たしてこれで掃除し終えたのかどうかはイマイチ分からない。

考えてみれば、自分は生まれて此の方、『掃除』とは無縁の生活をしてきたのだ。分からないのが当前なのかも知れない。

と、そんな考えに耽っていたモニカに、聞き慣れた声が飛び込んできた。

「!?モニカさん!……ではなくて、モニカ様!!」

――――メイドのルネだ。

モニカが彼女に『さん』付けではなく『様』付けで呼ばれる様になって久しい。

まあ、居候に近い立場だった以前とは違い、今はこの家の当主の妻なのだから、そう呼ばれるのが自然なのだが。

「どうしたの、ルネ?そんな大声出して?」

何となく彼女が言わんとしている事は察していたが、モニカは敢えて疑問の声を発する。

すると予想通り、ルネは少々焦れた表情で口を開いた。

「どうしたの?……ではありません!モニカ様が掃除する必要等ございませんと、何度も申し上げたではありませんか!!」

「そ、そうだけど……他にする事もないし、別に良いでしょ?」

「ちっとも良くありません!!」

叫びつつ、ルネはモニカの手からモップを奪い取る。

「こういう事は使用人である私達のする事です!」

キッパリとそう言われ、思わずモニカはルネに気づかれない様に嘆息した。

(はあっ……でもねえ、やっぱり出来る様になっておきたいのよね)

ユリスと結婚してから、彼女は少しずつだが『家事』という物に挑戦し始めていた。

別にユリスから「してくれ」と頼まれた訳でもないのだが、彼の『妻』になった以上、少しは出来なければとボンヤリ思ったからである。

とはいえ、ここはパームブリンクスで一番の大豪邸。当然、多くの使用人を抱え、家事は彼らの仕事である。

故にルネの言葉通り、モニカが家事をする必要など欠片も無い。

いや、むしろ使用人達からして見れば、自分達が仕える人に家事をさせるなど、言語道断な事なのだ。

「ともかく、モニカ様。今後はもう、この様な事はしないでくださいね」

「っ……分かったわ、ルネ」

こういう事に関してはかなり強情であるルネに、これ以上言っても仕方ないだろう。

モニカは頷いて返事をすると、踵を返して自分の部屋に戻っていった。

 

 

 

 

 

 

「あ〜〜〜あ、何にもする事ないのって、苦手なのよねえ……」

自室に戻ってくるなり、モニカはドサッとベッドの上に倒れこむ。

「せめて天気が良ければ、外で剣の修行が出来るのに。中でも出来なくないけど、ルネ達に見つかると面倒だし」

彼女はそう呟きながら、恨めしそうに窓の外を見やった。

濁った雲が空を覆い、かなり激しい雨音がガラスを叩いている光景に、無意識に溜息が漏れる。

「ユリスが帰ってくるまで、もう少しあるし……どうしよう?」

ゴロンと仰向けになりながら、ここにはいない夫の顔を思い浮かべ、モニカは独りごちた。

「……部屋の掃除でも、しよっかな?」

ふとそんな事が思いつき身を起こしてみるが、部屋の隅々を見た瞬間、すぐにガックリと項垂れる。

(……って、ルネがさっき掃除したのよね。ピッカピッカのキラッキラだわ、本当に)

結局、自分が今やる事は何も無いと再確認したモニカは、大きく腕を開いてボスンとベッドに沈んだ。

――もうあれから……数ヶ月経つのよね。

不意に彼女は、心の中で呟く。あれからとは言うまでも無く、ユリスと結婚してからである。

正直な所、彼と結婚したら色々と生活が変わってしまうのではないかと内心不安だったのだが、それは全くの杞憂に終わった。

元々、一緒に暮らしていた為だろう。変化した事といえば、自分が使用人達から『様』づけで呼ばれる様になった事。

――――そして……。

「同じ部屋で……寝る様になったくらいね」

声に出してみると、急に恥ずかしさが込み上げてくる。

誰にも見られていないのにも関わらず、そんな気持ちになった自分に、モニカは知れず苦笑した。

「……にしても、暇だわ」

しかし、すぐに虚しさが心を支配し、溜息となって吐き出される。

元来、ジッとしてるのは苦手なのが自分の性分だ。こうして暇を持て余すという事が、一番不得手なのである。

と、その時ドアがノックされる音が聞こえてきた。

「モニカ様。よろしいですか?」

「ルネ?……良いわよ、どうぞ」

突然の来訪に少々驚きつつも、モニカは了承の返事をする。

すると遠慮がちにドアが開かれ、ゆっくりとルネが部屋に入ってきた。

「どうしたの?何か用事?」

モニカがそう尋ねると、彼女は少々あやす様な笑みを浮かべて口を開く。

「いえ。この天気だと、恐らく退屈なさっているだろうと思いまして。簡単なデザートでしたらご用意出来ますが、いかかですか?」

「デザート?……うん、お願い」

一瞬考えた末、彼女はコクリとう頷く。

どうせ他にすべき事もしたい事もないし、こんな時には何か食べるのが一番の楽しみだと判断したからだ。

それを抜きにしても、ルネが用意したデザートはとても美味しい。断る道理等、何一つないのが現状だった。

「かしこまりました。それでは、暫くしたら食堂までお越し下さい」

「あ、ううん。今行くわ。ただ待ってるのも何だし」

「そうですか?……では、行きましょう」

「うん」

会話を終えた二人は、並んで部屋を出て一階の食堂へと歩き始める。その最中、ふとモニカはルネに尋ねた。

「……ねえ、ルネ?」

「はい、何でしょう?」

「あのさ……貴方、ポテトパイ作れる?」

「ポテトパイ……ですか?」

「……うん」

そう呟いて俯き加減になったモニカを見て、ルネはクスリと笑みを漏らした。

「まあ、作れなくはないですけど……坊ちゃまの舌をご満足させられるのは、かなり大変だと思いますよ?」

「そっか……っ!?だ、誰もユリスに作ってあげようなんて、言ってないわよ!!」

「口では仰っておられずとも、顔がそう仰っておられますよ?」

「う……」

ルネの物言いに、モニカは思わず口籠る。

どうにも自分は、感情を隠すのが苦手だ。同時にルネは、他人の感情を読み取るのが非常に得意なのである。

(隠すのは無理か……やっぱり)

観念した彼女は、訥々と話し始める。

「だって……少しくらい、妻らしい事したいのよ……」

するとルネは、「その気持ちは分かります」と頷いた後、続けた。

「ですがモニカ様、あまり難しく考える事はありません。それに『妻らしい事』なんて抽象的な概念……考えても、答えなんて無いと思いますよ?」

「抽象……的?」

不意に首を傾げたモニカに、ルネは「ええ」と返事をする。

「どういう事?」

「ええっと、つまりですね…………モニカ様が考える『妻らしい事』とは、どの様なものですか?」

「ど、どんな物って……料理して、洗濯して、掃除して、とにかく家事をして……それから……何だろう?」

言われて思っていた事を声に出してみるが、成程確かにそれはあやふやで不明瞭なものだ。

何となく先程聞いた『抽象的』の意味が分かったモニカに、ルネは「でしょう?」と言った風に笑う。

「それにモニカ様。坊ちゃまが思っている『妻らしい事』は、モニカ様の考えているものと全く違うかもしれませんよ?」

「あ……」

その言葉に、モニカはハッとした仕草をする。それに合わせる様に、ルネは言った。

「だからモニカ様。貴方の思う様にすればいいのですよ。きっと坊ちゃまも……それを望んでいると思います」

「……そうね。ありがとう、ルネ。何か、スッキリした」

「いえいえ、お構いなさらず」

ルネがそう言い終える頃には、二人は階段を降りて食堂へと辿り着いていた。

そして食堂の扉を開けるルネに、モニカはちょっと意地悪く声を掛ける。

「ねえ、ルネ。気づいてる?」

「はい?……何をです?」

「……貴方、さっきからずっとユリスの事『坊ちゃま』って言ってるわよ?」

「っ!?」

瞬間、ルネはビクッと身体を強張らせ、勢いよくモニカの方に振り返った。心なしか、少々顔が青ざめている。

「モ、モニカ様!ど、どうか坊ちゃ……ではなくてユリス様には、ご内密に……」

「分かってるって。そんな事チクッたりしないわよ」

軽く手を振りながら、彼女はふと心の中で呟く。

(やっぱり中々抜けないみたいね、長年の呼び名は)

結婚してモニカが使用人達から『モニカ様』と呼ばれる様になったのと同じく、ユリスも『坊ちゃま』から『ユリス様』と呼ばれる様になった。

尤も、これは使用人達が自発的に……と言う訳ではなく、ユリス本人の要望であった。

――……18にもなって、『坊ちゃま』は変だろ?

憮然とした表情でそう言ったユリスの言葉を、モニカは今でもハッキリと覚えている。

余程、今までそう呼ばれていたのが嫌だったという事が、それからありありと分かった。

とはいえ使用人達からしてみれば、これはかなり難しい注文でもあったのだ。

何せこの家の使用人達の大半は、ユリスを幼い頃から見てきた者達である。

中でもルネは、殆どユリスが生まれてからと言っても過言では無い程、この家に仕えている者の一人だ。

十数年以上親しんできた呼び名を急に変えろと言われても、すぐには出来ないのも無理はない。

「でもさあ、言っちゃあ何だけど……」

「えっ?」

遠くを見やりながら微笑み、モニカは呟く様に言った。

「『ユリス様』って、おっかしいわよねえ?『坊ちゃま』で良いと思うんだけどなあ……」

「……ですよね」

「あっ、ルネ。今、本音出た」

「っ!?……モ、モニカ様!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「ただいま、モニカ」

「お帰り、ユリス」

ルネのデザートを食べ、モニカが自室に引き上げてから一時間程して、ユリスがメンテナンスショップから帰ってきた。

「やれやれ……助かったよ、雨が上がってさ。店にいる時はマズイと思ったんだよ、傘持って行ってなかったし」

帰ってきてから風呂に入ったらしく、彼はバスローブ姿で頭をゴシゴシとバスタオルで拭いている。

その姿に妙な色気を感じたモニカは、恥ずかしさから微妙に視線をユリスから外しつつ言った。

「そうね。都合よく晴れて良かったじゃない。これが日頃の行いって奴かしら?」

「はは、そんな大それた物じゃないって。単に運が良いか、間が良かっただけさ」

苦笑しながら、ごく自然に彼女の横に腰を降ろす。

並んでベッドに腰掛けながら、ユリスは不意に意味ありげな笑みを作り、口を開いた。

「そういえば……さっきルネが、ぼやいてるのを聞いたんだけど?」

「……えっ?」

何やら嫌な予感がし、モニカはぎこちなく彼に振り返り、そして尋ねる。

「な、何をぼやいてたの?……ルネは?」

――――……分かっている。分かっているが、分かりたくない。出来れば、自分の勘違いであって欲しい。

そう思う彼女だったが、ユリスの口から発せられた言葉は、やはり自分が思っていた通りの事だった。

「また掃除しようとして、注意されたらしいね?」

「……う……」

思わず絶句するモニカに、彼は心底面白そうに笑いながら続ける。

「しかし、まあ……君も意外に律儀と言うか、何と言うか……」

「な、何よ?」

からかわれている様な気がして、モニカは多少憤った口調でユリスを睨んだ。

しかし、当の本人は全く気にせずに、フッと肩を竦めてみせる。

「難しく考え過ぎなんじゃない?」

「っ!?」

ルネと似た様な言葉を言われ、ハッと息を呑むモニカに、ユリスは続ける。

「まっ、考えてくれるのは嬉しいんだけどさ。……君は今の君でいいんだよ。少なくとも、ボクはそう思ってる」

「……ユリス」

――ああ……どうして私の周りの人って、こうも鋭いんだろう。

モニカは心の中で、無意識にそう呟いた。

(それとも……そんなに私が分かりやすいのかな?)

思わず自問するが、実の所、その両方の要素が混じっているのではないかと、彼女は考える。

そんなモニカの心を知ってか知らずか、ユリスは穏かな笑みと共に口を開いた。

「無理しなくていいよ、モニカ。そんな必要……どこにも無いんだからさ」

「べ、別に無理してる訳じゃ……ただ……その……」

言い淀む彼女に、彼はそっと顔を近づけて囁く。

「だけど…………ありがとう、モニカ」

「っ!」

反射的にゾクッと身体を硬直させたモニカの唇を、ユリスはすっかり慣れた様子で塞いだ。

 

 

 

 

 

――――……想いが通じ合った日から、幾度と無く繰り返された行為。

    そして今度もまた、モニカはただその感触に身を委ねた。……全身が、幸福で満たされていくのを感じながら。

 

 

 

 

 

 

 


  

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