第七編〜福音の産声〜
――――某日。午後二時三十分。天気、晴れ。
今この時、ユリス邸は慌しい緊張の空気に支配されていた。その原因は、この屋敷のとある一室にある。
いや、もっと正確に言うならば、今そのとある一室の中にいる、モニカが原因であった。
なぜならば今、彼女は『出産』という一大事に取り掛かっているからである。
「う、うう……」
モニカの苦しそうな呻き声がその一室から漏れ、廊下で壁にもたれ掛かっていたユリスは僅かに反応して顔を上げた。
しかし、その後に聞こえた「モニカ様、気をしっかり!」「頑張って下さい!」等といったルネやその他使用人の声に、軽く溜息をつく。
(まだ……か……大変そうだな、モニカ……)
出来る事なら近くで励ましてあげたい所なのだが、彼女に余計な気を遣わせるかもしれないと思い、彼はこうして室外で待っているのだ。
……と言うのは殆ど建前で、実際の所は何も出来なくてオロオロする様を、モニカに見せたくないだけである。
(本当に、こういう時……男って嫌だな)
激しく動揺する心を無理やり鎮めているが、今の彼にとって、ただ無言で壁にもたれている事でさえ難しいものであった。
ちょっとでも気を抜くと、大声でモニカの名を叫んで部屋に飛び込んでしまいそうだ。
そんな格好悪い事だけは絶対にしまいと、ユリスはただひたすら、全ての理性を総動員して耐えているのである。
――――……そう、耐えているのだが。
「……っ……う、む……」
彼の目の前で同じ場所を行ったり来たりばかりしている男性の存在が、ユリスの神経を逆撫でする。
モニカの出産が始まってからというもの、飽きもせずにずっとこの調子なのだ。
(……ったく、もう!)
ずっと我慢していたユリスだったが、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
そして青い顔で周囲を歩き回る男性の腕をむんずと掴み、モニカ達に聞こえない範囲で最も大きな声で怒鳴った。
「父さん!!」
「っ!?……な、何だユリス?」
「何だじゃないよ!父さんがオロオロしても、どうしようも無いだろう!?少しは落ち着きなよ!!」
だが、彼の言葉に男性――ジラードは、事もあろうに反省するどころか怒鳴り返してくる。
「何を言うか!孫が生まれるという時に、落ち着いて等いられるか!!」
「父さんがいくら心配したって、何の意味も無いだろう!!」
「意味が有ろうと無かろうと、落ち着けんと言ったら落ち着けんのだ!!」
堂々とそう言い放たれ、ユリスは思わず頭を抱えてその場に蹲った。
(この父親は……ボクが生まれる時もこんなんだったのか?さぞ母さんは苦労しただろうな)
普段の少々気に障るくらい冷静沈着な振る舞いは何処に行ったのか。
今、彼の目の前にいるのは、ただのだらしない親父だった。
――――モニカから子供を身籠った事を聞かされてから数ヶ月。
光陰矢の如しとはよく言った物で、あっという間に出産日を迎えた。
幸いな事に予定日から大幅にずれるといった事も無く、ましてや母子に異常がみつかるといった事も無く、
ユリスからしてみれば、拍子抜けしてしまう程に何事も無く今日という日に至っている。
まあ、まだ出産した訳ではないから完全に安心する事は出来ないが、ここまで来たら、ほぼ大丈夫だろう。
何故その様に思うのかは彼自身にも分からなかったが、妙に確信が持てていた。
(けど……やっぱり辛そうだな……)
時折漏れてくるモニカの呻き声。それを聞く度に、ユリスは心臓を掴まれたかの様な気分に陥る。
気に食わないが、落ち着けるに落ち着けないと言った父親の気持ちも、彼は痛い程分かっていた。
(……しかしねえ……)
相変わらずウロウロしているジラードをジト目で眺めながら、心の中でユリスは呟く。
(こんなんだったら、言わない方が良かったかなあ……?)
ジラードに自分達の子供が出来た事を告げたのは、モニカが身籠っていると誰の目にも分かるくらいに彼女のお腹が膨らんでからだった。
実を言うと、ユリスは彼にこの事を伝えに行こう等とは、これっぽっちも考えていなかった。
元々、決して仲が良いとは言えない親子である。
だから、「父さんには生まれてから行けば良いんじゃないか?」とモニカに言ったのだが、彼女は頑なに首を振ってこれを拒否した。
――――それは礼儀を欠いている。やっぱり、きちんと報告しに行くべきだ、と。
一体、何の礼儀かは分からないが、確かにそれが正しい様に思えた物である。
そして、続けて彼女の口から発せられた言葉に、ユリスは完全に自分の考えを改めた。
――ジラードさんにも、出産に立会ってもらいたいの。この子には……出来るだけ多くの人に見守られながら、生まれてきて欲しいから。
少しばかり照れ笑いを浮かべながらそう言った彼女の顔は、紛れも無く母親の顔だった。
(あんなモニカの顔、初めてみたな)
僅かな思い出し笑いをし、多少気持ちが安らいだユリスだったが、目の前を往復する父親の姿に、すぐまた気持ちが冷める。
(本当に父さんは……こういう時こそ威厳を見せるのが父親って物だろうに……)
モニカと共に報告に行ったあの日。
絶対に何か小言を言われるだろう思っていたユリスの予想とは裏腹に、ジラードは別段何も言わなかった。
……いや、正確に言えば、何も言う事が出来無いくらいに動揺したのである。
その時ジラードが見せた情けない事極まりない表情を、ユリスは一生忘れる事は無いだろう。
自分の父親もこういう顔をするんだな、と、感慨深げに心に刻んだのだから。
(……まあ、あの時はからかいのネタが出来たな……とも思ったんだけど……)
今ここにある現実に、そんな思いは欠片も湧いてこない。
廊下を往復するジラードの顔色が更に青くなっていき、その内貧血か何かで倒れるんじゃないかといった勢いだ。
(ここに麻酔銃が有ればなあ……)
そんな父親への我慢が再び切れ掛かり、ユリスの頭に不穏な考えが浮かび上がってくる。……と、その時だった。
「……ゃぁ……!……ゃぁ……!」
「「っ!?」」
不意に聞こえた小さな声に、ユリスとジラードは同時にドアを凝視する。
その途端、今度はハッキリとした聞き覚えの無い声が、二人に耳に響いた。
「……おぎゃあああっっ!!……おぎゃあああっっ!!」
――――……生まれた。
ユリスとジラードは、同時に心の中で呟き、そして言い表せない気持ちになる。
特にユリスは初めて聞いた産声に、完全に聞き入っていた。
(これが、産声……か)
――――……何故だろう?音としては耳障りなものでしかない筈なのに、自分には楽隊が奏でるメロディーの様に聞こえてならない。
人は、こんなにも素晴らしい音を奏でながら生まれてくる者なのかと、呆然としながらユリスは思う。
そんな彼の耳に、またしても信じられない声が聞こえた。
「……おぎゃあああっっ!!……おぎゃあああっっ!!」
「……おぎゃあああっっ!!……おぎゃあああっっ!!」
(えっ?)
――――……いつの間にか産声が二重奏になっている。これは一体どういう事か?………答えは、一つしかありえない。
「まさか……?」
知れずユリスが呟いた直後、眼前のドアが勢い良く開き、息を弾ませたルネが顔を見せた。
「あ、ルネ……」
「ユリス様、お喜び下さい!」
そう言った後、彼女は幸せそうに微笑み、彼に告げる。
「無事に生まれました。元気な女の子と男の子の双子です!モニカ様もお元気ですよ!」
「……っ!」
瞬間、ユリスは反射的に身を乗り出して……慌てて思いなおした様に引っ込める。
「あ、ルネ……その……もう……?」
動揺している為か、必要な単語が抜けまくっているユリスの言葉に、ルネは苦笑しながら頷いた。
「はい、どうぞ中へ。モニカ様とお子様に顔を見せてあげて下さい」
「う、うん……」
そう言ってギクシャクしながら、彼はゆっくりと部屋に足を踏み入れた。
「あ、ジラード様は、もう暫く外でお待ち下さい」
「な、何故だ!?私だって、早く孫の顔が……」
――――そんなルネとジラードの会話を背に受けながら……。
「……モニカ」
部屋の奥のベッドに歩み寄りつつ、ユリスは言う。すると、少しばかりグッタリした声が返ってきた。
「ユリス……」
その声を聞く頃には、彼は既にベッドに辿り着いていた。
ベッドの上には酷く疲れきった――それでいてとても晴々とした表情のモニカ。その周りには出産を手伝った使用人達。……そして。
「……っ……」
――――彼女の横にある、小さな小さな二つの揺籠の中で眠る……生まれたての命。
それに眼を奪われているユリスに、モニカはクスリと笑いながら口を開いた。
「……ビックリした?双子で?」
「え?あ、うん……まあ……」
どう対応していいか分からず、彼は曖昧に返事をする。
そんなユリスにまた笑みを零しつつ、モニカは周りにいた使用人達に声を掛けた。
「ゴメン、ちょっと外してくれる?」
「「「はい」」」
聞かれるのが分かっていた様に、使用人達は即答する。
静かに彼らが出て行ったのを見計らって、ユリスはベッドの横にあった椅子に腰掛け、モニカに尋ねた。
「……具合はどう?」
「うん、大丈夫。ちょっとボーッとするっていうか、フワーッてするけど……とっても良い気分よ」
「っ……そっか」
ユリスは頷くと、徐に自分の子供達に視線を向ける。
つい先程まで、あれだけ元気な産声を上げていたにも関わらず、二人は実に安らかな寝顔だった。
「寝ちゃったんだ?」
「そうなのよ。さっきまであれ程『おぎゃあ!おぎゃあ!』って泣いてたのに。やっぱり産む方も疲れるけど、生まれる方も疲れるんじゃない?」
モニカの言葉に、「違いない」と頷きつつ、彼は穏やかな笑顔で再び双子に眼をやる。
――――輝く様な金の髪に、燃える様な紅い髪。
自分と彼女、それぞれの髪の色をそのまま受け継いでいるのを見て、彼の口から自然と言葉が漏れた。
「……金髪の子が男の子で、紅髪の子が女の子?」
「はずれ、反対よ。金髪の子が女の子で、紅髪の子が男の子」
「あ……そっか」
残念なのか安堵なのか自分でも分からない溜息と共に、ユリスは何気なく女の子の方に手を伸ばした。
「……ふぁ……」
「わっ!?」
瞬間、微かな声と共に女の子が動き、彼はビクッと身を竦ませて手を引っ込ませる。
その様子を見て、モニカが可笑しそうにユリスを見た。
「クスクス……そんなに驚く事ないじゃない」
「だ、だって……今、動いた」
「そりゃ動くわよ。生きてるんだもん」
「そ、それは……そうだけど……」
――……あ〜〜何でこんなオロオロしてばっかなんだ、ボクは!
自分ではもう少し冷静になれるだろうと踏んでいたのだが、それは完全に思い違いだった。
――これでは先刻までの父さんとまるで変わらないじゃないか。……いや、流石にそれよりはマシだろう。せめてそうは思いたい。
そんな事を心の中で呟きながら、ユリスはふと思い出した様に口を開いた。
「あ、そ、そうだ。な、名前を付けなきゃ」
「……そうね」
静かに笑みを消し、真顔で我が子達を見つめながら、モニカは小さく言う。
「ユリス、君は何か考えてる?私は一応、両方の名前を一つずつ考えてるんだけど」
「あ、ああ……実はボクも……一つずつ……」
そこまで言うと、ユリスともモニカはどちらともなく視線を合わせる。
瞬間、二人は互いに何かを感じた。確かな絆で結ばれた物同士にだけ存在する感覚を。
「……ひょっとして?」
「……ひょっとするんじゃない?」
揃って少々茶化した口調で言い合い、それから揃って笑い合う。
――ああ……やっぱり……。
ユリスとモニカは、心の中で同時にそう呟いた。そして、暫しの間を置いた後、ユリスが口を開く。
「……女の子がセイカで」
その後を、モニカが受け取った。
「……男の子がユイヤね」
――――ユイヤとセイカ。
それは彼らにとって大切な――もう会う事も無いであろう、女の人と男の子の名。
その名をいつまでも忘れないでいたいと、ユリスもモニカも思っていたのだ。
「……勝手に付けちゃったら怒るかしら?」
「それは……大丈夫だと思うよ。大体、勝手にって言ったって、許可貰いに行ける訳でもないんだしさ」
「ふふ、それもそっか」
言いつつモニカは、揺篭の中から男の子――ユイヤを自らの手で抱える。
そしてユリスの方を見て、ある事を促した。
「ほら、ユリスも」
「あ……う、うん」
「そっとね、そっとだよ?」
「わ、分かってるって」
緊張した顔つきで、彼はもう一つの揺篭から女の子――セイカを抱き上げた。
「「……元気に育ってね」」
――――その言葉に反応したかの如く、セイカとユイヤが眠りから覚めるのは、これからすぐの事である。