〜エピソード1〜
―――199X年。
「お〜い、ネス。これから野球の試合があるんだけどよ……」
「ゴメン! 今日は助っ人無理!」
放課後を知らせるチャイムが鳴り響く中、ネスはクラスメイトにそう告げると、一目散に教室を飛び出した。
そのままの勢いで校舎から出ると、グラウンドにいた知り合いの下級生に声を掛けられる。
「あっ、ネス先輩! お急ぎでどうしたんですか?」
「ちょっとね! 急用!」
軽く手を振ってそう返すのも、もどかしく思いながら、ネスは校門をくぐった。
――トレーシー、ちゃんと買っといてくれたかなあ?
自分より早く帰路についている筈の妹の事を考えつつ、彼はオネット郊外にある自宅への道をひたすらに走った。
体力的には全く問題無いのだが走る速度に難があるため、どうしても時間が掛かってしまう。
それでも彼は自身が出せる最大限のスピードで走り続け、どうにか三十分程度で自宅へと辿り着いた。
弾んだ息を整えた後、ネスは玄関のドアを開ける。すると、リビングで雑誌を読んで寛いでいる妹のトレーシーの姿が眼に映った。
「あ、お兄ちゃん、お帰り。……あれ? もしかして、走って帰ってきた?」
「ふう……見れば分かるだろ? ママとチビは?」
「散歩。結構前に行ったから、そろそろ帰ってくると思うよ」
「そっか。あ、それはそうと、頼んでおいた……」
「ちゃんと買ってきたよ。はい、これ」
言いつつトレーシーは、傍に置いてあった紙袋を手に取ると、その中から一冊の漫画を取り出す。
それを見た瞬間、ネスはパッと表情を明るくして、妹に近づいた。
「ああ、それそれ! サンキュー、トレーシー! いやあ、持つべきは頼れる妹だよ!」
「見え透いたお世辞、どうもありがとう。でも、本当好きだよね、その漫画」
「まあね。出来れば毎週雑誌で読みたいんだけど、そんなお金ないからね」
皮肉を言うトレーシーに眼もくれず、ネスは行儀悪くソファーに座ると、いそいそと漫画の封を開けて読み始めた。
この漫画は、彼が唯一読んでいる漫画で、一人の少年が巨悪に立ち向かうという典型的なヒーロー物である。
捻った展開や変わった登場人物も無く、悪く言えば“ありきたり”な漫画なのだが、ネスはこの漫画が大好きだった。
特に主人公の使う必殺技が、彼のお気に入りで、それが出てくるページを読むと、ついつい声を上げてしまう。
「やっぱり格好良いなあ、“ドラグーンブラスト”は」
「お兄ちゃん、その台詞もう何度目?」
「い、いいだろ別に。恰好良いんだから。こう……両手から虹色ビームが出て、四方八方から敵を……」
「はいはい。それも何回も聞きました」
呆れた様子でこちらの言葉を遮った妹を、些か気分を害したネスは睨みつける。
しかし、妹が読んでいた雑誌のタイトルを眼にして、首を傾げながら口を開いた。
「“アルバイト入門誌”? トレーシー、お前アルバイト始めるのか?」
「ううん、別にそんな気はないよ。本屋に置いてあったフリーペーパーだったから、もらってきだけ」
トレーシーがそう言い終えたところで、玄関のドアが開く音が聞こえ、二人は揃って玄関に眼を向ける。
すると、母親がタオルで汗を拭きながらリビングへと入ってきた。
「あら、ネスちゃん、お帰りなさい」
「ただいま、ママ。チビの散歩、お疲れ様……あ、チビ、お帰り」
母親の後ろから姿を見せたムク犬のチビに、ネスは手を振る。
しかし、散歩帰りはいつも上機嫌で愛想よく吠えたりする筈のチビが、何故か無言で自分の定位置に戻り、不貞腐れた様に眠り始めてしまった。
そんな愛犬の様子に疑問を覚えたネスは、母親に訊ねた。
「ママ、チビの奴どうしたの?」
「う〜ん、私にも良く分からないの。散歩してたら、急に変になっちゃって……」
「変になったって?」
興味を示したトレーシーが雑誌から顔を上げて訊ねると、母親は軽く嘆息しつつ言う。
「突然立ち止まって、キョロキョロし始めたかと思ったら、いきなり凄く吠えだして……怒っているというよりは、何かに怯えている感じだったんだけど……とにかく、そんなだから大変で……」
「あ、もしかしてママ、裏山の方に行った?」
「あら、そうだけど……それが?」
首を傾げた母親に、ネスは寝ているチビを眺めながら言った。
「なんか最近、チビの奴あの辺り嫌がるんだよ。変な感じがするんだって」
「変な感じ?」
「そう。薄気味悪いとかなんとか……あれで臆病だからな、チビは」
「お兄ちゃん……チビがそう言ったの?」
「え?」
ネスが思わずトレーシーの方へ振り向くと、トレーシーは怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
「どういう意味だ?」
「だから、チビが『変な感じがする』とか『薄気味悪い』とか言ったのって。犬が人間の言葉を話す訳ないでしょ?」
「あ、ああ……そっか……そうだよな、チビが喋る訳ないよな」
気まずそうに頬を掻きつつ、ネスは苦笑いする。
けれども心の中では、今し方の自分の言葉を否定していた。
――でも、確かに聞こえたんだよな。チビがそう言ってるのが。
それは最近、野球の試合の時に感じる“例の感覚”と似たような物だった。
チビと散歩をしていると、耳にではなく頭の中に直接声が聞こえてくるのだ。
最初にその声を聞いた時は、思わず周囲に誰かがいるのかを周りを見回したりしたネスだったが、何度も聞くにつれて次第に慣れていき、今ではチビの声だという確信を持っている。
――――他でもない、チビ自身にそう訊ねると、彼は大きく頷いて見せたのだから。
しかし、チビの声はいつも聞こえてくるという訳ではなく、常にハッキリと聞こえるという訳でもない。
だから幼い頃から憧れていた事の一つである、“愛犬との会話”という所までには至っていなかった。
それでも聞こえるか否かでは大違いだ。仕草だけでは分からない考えや感情を読み取ることが出来る、実に素晴らしい事だ。
――――……問題は、それを周りに説明しにくいという事なのだが。
「……ちゃん?……ネスちゃん?」
「ふえ?」
母親の言葉にネスが我に返ると、眼前で母親が手を振っていた。
「急にボンヤリしちゃって、どうしたの? 何処か具合でも悪いの?」
「あ、いや、そんな事ないよ。ちょっと疲れてただけ」
「お腹が減ったの、間違いじゃないの?」
「トレーシー、お前……あっ」
小馬鹿にしたような口調でそう言った妹に、ネスは文句を言おうとしたが、その途端に腹の虫が盛大に鳴った。
その絶妙なタイミングに、ネス自身は両手で腹を抑えて頬を赤らめ、トレーシーは雑誌に顔を埋めて抑えた笑い声を上げ、母親は呆れ交じりに微笑んだ。
「あらあら、そうならそうと言えば良いのに。仕方ないわね、少し早いけど夕食にしましょうか。トレーシー、手伝ってくれる?」
「は〜い。じゃあちょっと待っててね、腹ペコお兄ちゃん♪」
「……言われなくても」
憎まれ口を叩きながら、母親と共にキッチンへと入っていった妹にそう返すと、一人になり手持無沙汰になったネスは何の気なしにテレビのリモコンを取る。
そしてテレビをつけると、丁度定時のニュースが放送されていた。
『数か月前から、イーグルランドやフォギーランドをはじめとして、世界各国で動物が突然凶暴になる事件が多発しておりますが、未だその原因は判明しておりません』
「へえ……この町だけじゃなかったのか」
滅多に見ないニュースで世界の事情を知ったネスは、思わずそう呟く。
ここ最近、オネットでは野良犬やカラス、更にはヘビ等の動物が人々を襲うといった事例が多発していた。
ネス自身も、度々襲われた事があり、クラスメイトの中には入院する羽目になってしまった者もいる。
勿論、こういった事が昔から全く無かった訳というわけでないのだが、それにしても最近はあまりにも頻繁に起き過ぎてると、人々が不安視していた。
『また、この事件と同時期に各国で“UFOを目撃した”という証言が多く見られています。この二つの事件に関連性があるとして“宇宙人の仕業では?”と唱える学者もおり……』
「宇宙人? また突拍子も無い……」
「お兄ちゃ〜ん! ちょっと手伝ってー!」
「はあ……はいはい」
テレビの音声を遮る程の妹の声に、ネスはリモコンでテレビのスイッチを切り、キッチンへと向かった。
―――故にネスは、この後に放送されていた“地球を掠める隕石が急増している”というニュースを見逃してしまった。そして、そのニュースこそ、彼の長い旅を予告するものだったのである。