〜エピソード12〜
最後の食器を洗い終えたポーラは、手についていた洗剤を綺麗に洗い流すと蛇口を閉める。
そして隣で明日の朝食の下拵えをしていた母親に声を掛けた。
「ママ、終わったわよ」
「ありがとう、ポーラ。ごめんなさいね。誘拐から戻ってきたばかりの貴女にこんな事させちゃって」
「あ、あはは……大丈夫よ。それに皿洗いなんて、いつもやってる事じゃない」
「それもそっか。でも、やっぱり貴女には神様がついているのね。こうして無事に帰ってきたんだもの。本当、何の心配もいらなかったわ」
そう言って微笑む母親につられて、ポーラも笑みを浮かべる。
心配性な父親とは対照的に、この母親は楽観主義だ。ポーラは生まれて此の方、母親が不安に陥っている顔を見た事がない。
それに対して些か疑問を感じなくもない彼女ではあったが、超が二つ付くくらいに心配性な父親と合わせて考えると、案外バランスが取れているのではとも思っていた。
「ママ」
「うん?」
「私がいない間、やっぱりパパ、凄く心配してた?」
「そりゃあもう。私が大丈夫だって言っても毎日毎日ツーソン中を走り回って……今夜はその疲れが一気に出たんでしょうね」
「……そっか」
その光景がありありと想像でき、ポーラは苦笑する。そして、少し前に就寝した父親に心の中で詫びた。
――本当にごめんなさい、パパ。
本音を言えば、これから暫くはずっと傍にいてあげたいところなのだが、生憎そうはいかない事情が今のポーラにはある。
その事を思い、無意識に嘆息した彼女に、母親が声を掛けた。
「そうそう、ポーラ」
「なに?」
「今日はもう寝た方が良いわよ。明日からネス君……だったかしら? 貴女の夢に出てきた男の子と、一緒に旅に出るんでしょ?」
「……うん……」
ポーラは俯きながら、曖昧な返事をする。
――――少年と一緒に、世界を救う旅に出るという、少し前から頻繁に見るようになっていた夢。
その夢の事は、両親にも何度か話していから、今更説明する必要はなかった。
他人からすれば決して分からないだろうが、ポーラ自身は確信している。この夢は単なる夢ではなく、予知夢なのだという事を。
いつから備わったのかは分からないが、自分の中に確かに存在する超能力――PSI。この力を、彼女は疑う事は出来なかった。
だから、ポーラは絶対にネスと一緒に旅に出なければと思っていた。しかし、いざその時になって、迷いが生まれる。両親の事だ。
二人共、娘の力については理解を示していたから、事情を分かってくれるかどうかという問題は無い。問題は、自分の旅立ちを許可してくれるかどうかだ。
――まあ……多分、ママは大丈夫だろうけど、パパになんて言えば……。
ただでさえ、心配性の父親だ。今まで友達の家への外泊も許してもらった事がないし、今回は一日や二日ではなく、いつ帰ってくるかもわからない長旅である。
しかも自分は誘拐事件から戻ってきた直後の身。極めつけに一人ではなく、男の子と一緒ときている。反対される理由が山積みだ。どう考えても許可が下りるとは思えない。
すると、そんな事を考えているのが顔に出ていたのだろう。母親が「大丈夫よ」と言いながら、ポーラの肩を軽く叩いた。
「あ、ママ……」
「パパだって、ちゃーんと分かってくれてるんだから。ちょっと待ってなさい」
母親はウインクした後、リビングへと向かい、小さな引き出しを開ける。そして二つの封筒を手にして戻ってきた。
「それは?」
「パパが書いた手紙よ。こっちの赤い封筒のが貴方宛の。そして、こっちの青い封筒がネス君宛のよ」
「えっ?」
「結構前から書き始めてたんだけど、文面に随分悩んでたみたい。特にネス君へのは……直接、会って話をする事はしないって言ってたし」
「ど、どうして?」
「だって、そんな事したら、パパ絶対にネス君に食って掛かっちゃうでしょ? 『娘を連れて行かせはしない!』って。例え頭で理解していても、やっぱり貴女が男の子と一緒に旅に出るのは嫌なんだって」
「あ……」
「勿論ポーラ、貴女に関しても同様。本当は絶対に旅になんか行かせたくなんかないし、直接貴女に許可を求められたら絶対に反対しちゃう。だから、手紙で言葉を送りだす事にしたって言ってたわ」
「……パパ……」
胸に込み上げてくるものを感じ、ポーラは自分宛の手紙を抱きしめる。そんな彼女に、母親がふと何かを思い出したように手を叩いた。
「あ、いけない。私も渡す物があったんだわ。……はい、ポーラ。これを持っていって」
「え、何?……あ、バンドエイド……」
「そっ、ハンドメイドのバンドエイド。略してハンドエイドってとこかしら」
「これ、ママが作ったの?」
「そういう事。どれだけ役に立つかは分からないけど、まあお守りみたいなものだと思えばいいわ。……ささ、ポーラ。今日はもう寝なさい。明日から大変なんだから」
「う、うん……」
母親に促されるまま、ポーラは自室へ戻るべく階段を上がり始める。しかしその途中で不意に立ち止まると、大きく深呼吸した後に母親に振り向いた。
「ママ」
「うん?」
「ありがとう。私……私、頑張るから。そして……ちゃんと帰ってくるから」
ポーラのその言葉に、母親は数度眼を瞬かせると、やがて穏やかな笑みを共に頷いた。
「そうそう、その意気よ、ポーラ。頑張りなさい。ママもパパも、勿論園児のみんなも、ずっと待ってるから」
「えっと……うん、こんなものかしら」
旅の支度を整えたポーラは、時計で時刻を確認した後、ベッドに入る。
「明日から、きっと大変になるわね」
ボンヤリと天井を見上げながら、ポーラは呟く。
詳しくは分からないが、自分の不思議な力が告げている。これから先、とても邪悪なものと対峙する事になるのだと。
それを思うと、自然と恐怖が生まれ、彼女はシーツの中で自らの身体を抱きしめた。
「やっぱり……怖いわね。……でも、きっと大丈夫よ。彼が……ネスがいるんだから」
彼の名を口にした途端、ポーラはフッと気持ちが楽になるのを感じる。これまで、夢の中でネスと会った時と同じ感覚だった。
けれども、現実に彼と会えた今、その感覚はより一層強くなっていた。
――――赤い野球帽から見え隠れする、ボサボサの黒い髪。華奢なようで、逞しい身体。無邪気で優しげで、それでいて強い光を放つ瞳。
彼の――ネスの何もかもが、ポーラにとっては印象強いものだった。まだ出会ってから間もないというのに、彼の姿が脳裏に焼き付いて消える事がない。
この先、仮にどんな危険な事や大変な事に巻き込まれようと、それがネスと出会ったが故の結果というのであれば、彼女はすんなりと受け入れられる自信があった。
――これが……恋なのかしら?
心の中でそう呟き、ポーラは片腕で両眼を覆う。
今まで生きてきて、一度も抱いた事のない感情。持て余すのは必然で、当分は心の最も奥に押し込んでおかなければならないと、彼女は考えた。
――――絶対に人には知られたくない。勿論、当の本人であるネスには……絶対。
「……まあ、今の所は大丈夫かしらね。ネス、テレパシーは使えないって言ってたし。……そろそろ寝ましょう」
そう言いつつスタンドの灯りを消そうとしたポーラだったが、ふと父親からの手紙の事を思い出し、ナイトテーブルに置いた封筒に手を伸ばした。
赤い封筒を開封し、中に入っていた手紙を取り出す。その手紙には、見慣れた父親の筆跡でこう書かれていた。
『ポーラへ
本当なら私の口から直接言葉を贈るのが筋なのだろうが、残念ながら何度イメージしても上手く出来そうになかった。だから、こうして手紙でお前を送り出そうと思う。
正直に言えば、私は心配で堪らない。万が一お前の身に何かあったらと考えると、それだけで胸が張り裂けそうになる。だが、お前の力の事は良くしっている。
別に私はお前が世界を救う勇者になどならなくても一向に構わないのだが、お前は優しい性格だからきっと世界中の人々を救いたいと願っているのだろう。
父親として、その意思は尊重したいと思う。ポーラよ、ネス君の力になってあげなさい。彼の事はまだ良く知らないが、お前が見た夢を信じるならば、きっと素晴らしい少年なのだろう。
お前が彼を信じるのなら、私も彼を信じよう。だからポーラ、私や家の事は気にせずに旅に出なさい。私もママも、そして園児達もそれを望んでいるのだから。
だが、時々でいいから電話はしてくれ。そして、辛くなったらいつでも帰ってくるのだぞ。 パパより』
「……パパらしい……」
そう呟きながら微笑んだポーラの瞳に、ジワリと涙が滲む。彼女はそれを拭うと、丁寧に手紙を封筒に戻して、スタンドの灯りを消した。
「パパ……心配しないで、待っててね。私はちゃんと帰ってくるから。……行ってきます」
「ちょっと早かったかな? でも、時刻を決めるのを忘れてたしなあ……」
ポーラを家に送り届けたその翌日。ホテルで一夜を過ごしたネスは、朝早くにチェックアウトを済ませると、ポーラスター幼稚園へと向かっていた。
しかし、徐々に幼稚園に近づくにつれて、足取りが重くなってくる。その理由は勿論、幼稚園に辿り着いてから、自分がしなくてはならない事を考えているからだった。
――許可してくれるかなあ? ポーラの両親……特に小父さんの方は。
まだ全くと言っていい程に会話していないが、このツーソンで見かけた姿、そしてポーラからの話で、彼がどれだけポーラを大事にしているかは容易に想像がつく。
――――そんな人が、果たして自分達の旅を認めてくれるかどうか……考えただけで気が重い。
「でも、ポーラにはなんとしても一緒に行ってもらわなきゃ。……あ、いや、別に変な意味じゃなくて、ブ、ブンブーンが言ってた言い伝えの事があるからで……」
自分が何かとんでもなく恥ずかしい事を言っているように思え、ネスは誰に聞かれている訳でもないのに弁明を始める。
そうこうしている内に、いつしかネスはポーラスター幼稚園のすぐ近くにまで辿り着いていた。その事を認識した彼は、軽く頭を振りながら帽子を被り直し、気持ちを切り替える。
――っ……とにかく、信じてもらえるかどうか分からないけど、ちゃんと事情を説明しよう。それからの事は、それから考えたらいいや。
結論を出したネスは、幼稚園の門の横で立ち止まると、一つ深呼吸をする。そして、さながら魔物だらけの洞窟の中に入るかの様な足取りで歩き出した。
だがその直後、幼稚園の中が視界に入った瞬間、ネスは予想だにしていなかった光景に驚いて立ち止まってしまった。
――え?……ポーラ?
そう、幼稚園の玄関に、既にポーラが立っていたのである。そして彼女の後ろには、彼女とよく似た顔立ちの女性が立っていた。ほぼ間違いなく、ポーラの母親だろう。
そう考えたネスに、女性は笑顔で手招きをする。戸惑いつつもそれに従い、ネスがおずおずと彼女とポーラの方に近づくと、女性は元気の良い声で言った。
「ヤッホー! グッドモーニング! 初めまして、ネス君。ちょっと遅くなったけど、ポーラを助けてくれてありがとう。この娘のママとして、お礼を言うわ」
「え、あ……は、はい……じゃなくて、い、いえ、その……」
どう返事をしていいか分からず、オロオロするネスに構わず、ポーラの母親はニコニコと笑いながら喋り続ける。
「でも凄いわねえ、ポーラと同い年くらいなのに誘拐犯をやっつけちゃったんでしょ? 君のその勇気と、うちの娘の不思議な力があれば、きっとどんな困難にも立ち向かえるわ」
「は、はあ……」
「まっ、私には世界の危機だとかそういう事は良く分かんないけど、ポーラがちょっと前からそういう事を言ってたのは知ってるわ。だから、まあ……」
そこで一旦言葉を切った母親は、不意に真顔になる。そして、ネスの顔を真っ直ぐに見つめながら続けた。
「心配が無いってわけでもないけど、喜んで娘を送り出すわ。ちょっと箱入りな所もあるけど、大事にしてあげてね」
「は、はい!」
反射的に姿勢を正し、ネスは上擦った声で返事をする。そんな彼を見て、ポーラの母親は満足そうに頷いた後、ポーラへと振り返った。
「良かったわね、ポーラ。ネス君となら、ママも安心できるわ。……しっかりやってきなさい」
「ありがとう、ママ。じゃあネス、行きましょうか?」
「うん。それじゃあ、ポーラ」
頷いたネスは、徐に右手をポーラの方に差し出した。その手を見て、ポーラもすぐにネスの意図を察し、自らの右手を差し出す。
そして二人、互いに互いの手を強く握りしめた。
「これからよろしくね」
「ええ、こちらこそ」
――――こうして今、ネスとポーラは正式に“仲間”となったのである。
「さてと、これからの事だけど……」
ツーソンデパートで食料を初めとした買い物を終えたネスは、並んで歩くポーラに声を掛ける。
「とりあえず、隣町に行ってみようか? 他にアテもないし」
「ええ、それが良いと思うわ。多分だけど、隣町……スリークでまた仲間に会えると思うから」
「へえ、それもポーラの力?」
「まあ、そうなるかしらね。……あ、いけない。私ってば、忘れてたわ。ネス、これ」
ポーラは一枚の青い封筒を取り出すと、ネスに手渡す。それを受け取ったネスは、訝し気に封筒を眺めた。
「なに、これ?」
「パパからの手紙よ。時間がある時に読んでおいて」
「ああ……あの小父さんからの手紙か」
ネスは無意識に難しい表情をする。どんな内容の手紙なのか、読まずとも大体予想できたからだ。
――まあ、当然と言えば当然か。一人娘を預かってる身だしな、今の僕。
改めて責任を感じたネスは、青い封筒を大事に懐にしまった。
そんな彼を見て何かを感じたのか、ポーラが少し困った表情になりながら言う。
「あの、ネス? パパがどんな事を書いてるかは分からないけど、あまり深く考えなくていいからね?」
「あ、ああ、うん、了解」
「多分……というより、ほほ間違いなく、私の扱いとかそういう類の事が書かれてるだろうけど、本当に気にしなくていいから。適当に読み流して……」
「おやおや、まあまあ。ポーラちゃんじゃないか。無事だったんだねえ」
不意に聞こえてきた声にネスとポーラが振り返ると、見覚えのある初老の女性がにこやかな笑みと共にこちらに歩いてきていた。
確か、ホテルの前でポーラの事を色々と教えてくれた人だ。そう思い、口を開きかけたネスだったが、それよりも早くにポーラが声を上げた。
「おばあさん、お久しぶりです!」
「本当に久しぶりだねえ。誘拐されたって聞いて、心配してたんだよ、私」
「お騒がせしました。色々とあったもので……」
どうやら顔馴染みらしく、ポーラと女性は互いに笑い合いながら話し始める。
蚊帳の外に置かれてしまったネスは、近くにあったベンチに腰掛けると、丁度良いとばかりにポーラの父親からの手紙に眼を通した。
『ネス君へ
出来る事ならば君と直接会い、面と向かって話をしたかったが、我ながら情けない話、君を前にして平常心を保てる自信が私には無い。
君がどんな少年なのか、私にはまだ分からないし、仮に素晴らしい少年であったとしても、愛娘を連れて行く少年であるならば、私にとっては悪魔の少年に変わりないというのが正直な感想だ。
けれども、ポーラは君に会うのを楽しみにしていた。まだ一度も会ったことがないにも拘らず、夢で見ただけでしかないにも拘らず、既に君に信頼を寄せていた。
だから私は、娘が信じている君を信じたい。ネス君、娘の事を頼んだよ。君が人の信頼を裏切るような少年で無い事を、切に願っている。 ポーラの父親より
PS 分かっているとは思うが、ホテルに泊まる際は必ず別々の部屋に泊まるように。 』
「ははは……これは本当に、責任重大だな」
「もしもし」
「うわっ!?」
手紙を読み終え、独り苦笑していたネスは、突然背後から聞こえてきた声に驚いて身を竦ませる。
慌てて背後に振り返ると、そこにはサングラスを掛けた、いかつい風貌の男性が立っていた。
「あ、あの……」
「ネスさんですね?」
「え? は、はい、そうですけど」
「良かった、やっと見つけました。私はトンチキさんの使いの者です」
「トンチキさんの……?……あっ! そういえば、確かポーラを助けたら俺の元に来いって……」
「はい、その事でトンチキさんがお呼びです。なんでも、差し上げたい物があるが是非、と。なるべく早く、ヌスット広場のトンチキさんの家にお越しください」
「わ、分かりました」
「では、確かに伝えました。……失礼」
軽く頭を下げた後、男性は俊敏な動きでネスの前から離れていく。程無くして男性が視界から消えると、ネスは溜息をついて緊張の糸を緩めた。
「ふう、ビックリした。あの人……なんか怖い雰囲気だった。あんな人が使いって事は、やっぱりトンチキさんって、そういう世界の人なんだろうな」
そう言いつつ、ネスはポーラへと振り返ると、丁度女性との会話が終わったらしい。互いに手を振りながら別れの挨拶を言い終えた所で、彼は彼女に言った。
「ポーラ、悪いんだけど、ちょっとヌスット広場に行っていいかな?」
「え、ヌスット広場? 構わないけど、どうして?」
「ある人との約束なんだ。じゃあ、行こう」
自然にポーラの手を取ると、ネスはヌスット広場へと歩を進める。ポーラは最初こそ驚いたものの、特に何か言う事もなくついてくる。
そんな彼女を一瞥した後、ネスは知れず険しい表情になりながら考えた。
――多分、大丈夫だとは思うけど……万が一、変な事になった時は……。
トンチキの人相の悪い笑みを思い出しつつ、ネスは無意識に空いている左手を強く握りしめた。