〜エピソード21〜
通路を抜け、ゲップーがいるであろう部屋に入った直後、ネス達はあまりの惨状に思わず立ち止まってしまった。
ただでさえ辛かった臭気は益々強さを増し、鼻を押えていても何の効果もない。
その上、床の彼方此方に、見ているだけで気分が悪くなるヘドロのような物が散乱している。とにかく不潔な空間だった。
しかし、それでも進まなければいかない。そう思い、嫌々歩き出した三人だったが、あまりの不快感にどうしたって悪態をついてしまうのを止められなかった。
「う……きつい……」
「まいるよ……本当に……」
「……っ……」
最早喋る余裕もないのか、ポーラは無言でネスとジェフの後ろを歩いている。
当然男二人はそんな彼女の様子に心配せずにはいられなかったが、励ましたところで気休めにもならないと分かっていた。
とにかく一刻も早くゲップーを倒すこと。それがこの地獄から逃れる唯一の方法なのである。
「ネス……『はえみつ』忘れないでくれよ?」
「……OK」
ジェフに言われ、ネスはリュックから『はえみつ』の入った瓶を取り出すとズボンのポケットに押し込んだ。
ゲップ―の好物というこの一品で、どれだけ奴の注意を引けるかは分からない。だが、有効打になる事は間違いないだろう。
そんな事を考えながら、ネスは心からの願いを口にした。
「とにもかくにも……さっさと終わらせたいね。そして此処から脱出したいよ……」
「全く……っ!?……なん……だ?……これ……」
「?……ジェ……うっ……!」
不意にジェフが呻き、そんな彼にどうしたのかと尋ねようとしたネスも、また同じように呻く。
理由は単純。既に凄まじいものだった臭気が、更に一段と強いものになったからだ。
まるで生ゴミをためこんだゴミ箱の中にいるような気分になり、遅かった歩みが更に遅くなる。
意識しなければすぐに止まってしまうであろう足を無理やり動かしつつ、ネスは漠然とある事を悟った。
――――ゲップーが近い。
いよいよ対決の時が迫っているのだと、ネスは気力を振り絞って歩を進める。
残念ながら、ポーラとジェフに注意を向けている余裕はない。それでも二つの足音が聞こえる事から、二人が自分についてきていてくれているのが分かった。
そんな仲間達に感謝しつつ、ネスは地獄の空間を歩き続ける。そして、細い通路から開けた場所に出た時、遂に奴が姿を現した。
『名は体を表す』とは、まさに奴の為にあるような言葉だった。
大量の嘔吐物を集めたような物体に不気味な眼と口が浮かび、その口が動く度に悪臭が漂ってくる。
油断するとすぐにでも気絶してしまいそうな最凶の敵――それがゲップーだった。
「ゲエーップ! お前がネスか……そうか……ゴゲゴゲゴゲ」
下品という言葉さえもったいなく思えるほどの醜い声で、ゲップーが笑った。喋るだけでここまで不快感を表せるとは、全くもって恐ろしい。
だが、奴の言葉に疑問を抱いたネスは、思い切り顔を顰めながらも奴に訪ねる。
「僕を……知ってるのか?」
「グゲグゲ、まあな。なんでもお前がギーグ様を倒すと予言があったらしいぞ。ゲハゲハゲハ、笑わせるよなあ。お前みたいなチビがギーグ様をなんて……グヒヒヒ」
「なっ!? ギーグ!? じゃあ、お前……ギーグの手下なのか!?」
「グッグッグ、なんだ、分かってなかったのか?……まあいい、どうせ知ったところで何も変わらないしな」
言い終えたゲップーが、不意に大きく口を広げる。それを見て何か嫌な予感がしたネスは、咄嗟にポーラとジェフに呼びかけようとする。
しかし、それよりもゲップーの方が早かった。奴は下品な声と共に口を窄め、そこからこの世のものとは思えない程の悪臭を吹きかけてきた。
「……っ!?……」
危うく失神しかけたところを、ネスは寸でのところで持ち堪える。その直後、背後で何かが崩れ落ちる音が聞こえたのに、彼は慌てて振り返った。
するとそこには、ぐったりと床に横たわっているポーラと、鼻を押さえて蹲っているジェフの姿があった。
「ポー……ジェ……!」
反射的に声を出そうとしたネスだが、今の彼にはそれすら困難な事だった。ゲップーの放った息は辺り一面に広がり、その凄まじい悪臭が充満している。
既に限界に近かったポーラは、これに耐えられなかったのだろう。そして、それはジェフにせよネスにせよ同じである。
不愉快を通り越して呼吸困難に陥るほどのこの悪臭に、そう長くは耐えられないだろうと本能が告げていた。
「ネ……早……みつ……っ」
顔を伏せたままのジェフが微かな声でそう呟く。それを最後に、彼もまたポーラと同じように床へと倒れこんだ。
「ゲーゲ、ゲーゲ、お仲間はもうダウンか? ではネス、残ったお前は俺様が最悪の戦いで始末してやろう。反吐まみれになって苦しめ! そして死ね!」
「!!」
叫ぶと同時に、ゲップーは口から汚れに汚れた液体を吐き出す。
咄嗟に避けようとしたネスだったが、それではポーラとジェフが危険にさらされてしまう。やむなく彼は、“PKドラグーンβ”で防ぐ手段に出た。
けれども今の状態で、満足に精神集中できる筈もない。事実、放たれた“PKドラグーン”は“β”どころか“α”程の威力もない、弱々しいものでしかなかった。
そんなものでゲップーの攻撃を防ぐことは無理で、結局吐き出された液体を僅かに分散させることしかできなかった。
当然ながら回避行動をとることも出来ず、ネスは両手で顔を覆った状態で液体を浴びる。
「……が……ぐ……っ!」
奴の体液なのだろうか。浴びせられた液体は奴の息と同レベルの悪臭を放っていた。しかも液体なのだから、気体である息よりも精神的にきついものがある。
「グヒヒヒヒッ! さあさあ、早くかかって来いよ! ゴゲッゴゲッ、ほらほらほら!」
顔を覆った状態で立ち尽くしているネスに向けて、ゲップーは次々と液体を浴びせ続ける。瞬く前に、ネスの身体は奴の液体塗れになっていた。
――まずい……早く倒さないと……!
ネスはこれまでのどんな戦いよりも焦りを感じる。
直接的な傷は無いに等しいが、精神的ダメージは既に限界点に達しているといっていい。許されるのならば、今すぐにでも気絶してしまいたいくらいなのだ。
最早一刻の猶予もないと思った彼は、片手で顔を押さえながら、空いている手をズボンのポケットへと伸ばす。
「ゲップー……!」
「ゲーーーップ! なんだ、最期に言いたいことでもあるのか?」
「っ……プレゼントだよっ!!」
叫びながら、ネスは『はえみつ』の瓶を力任せに投げつけた。
「ん?……んんっっ!? そ、それは!!……んぐっ!!」
一瞬驚いたゲップーだが、すぐにそれが何かを理解したらしく、攻撃を止めて大きく口を広げる。その直後、奴の口に『はえみつ』の瓶が吸い込まれていった。
「モグモグ……や、やはり! こ、この甘美なる蠅と蜜のハーモニー……!! ングング……!!」
咀嚼する音と共にガラスの砕ける音を響かせながら、ゲップーは『はえみつ』を貪りはじめる。
その隙にネスは、リュックに入れていたぬれタオルで顔を軽くふき、食事を始めたゲップーを睨みつけた。
「やい、ゲップー! その『はえみつ』ならいくらでもあげるから、早く“どせいさん”達を解放して、スリークから手をひくんだ!」
「ングングング……!!」
「?……ゲップー!!」
「ングングングング……!!!」
「ゲップーってば!!」
「ングングングングング……!!!!」
「……なんだよ……」
どうやらゲップーは、すっかり『はえみつ』に夢中になっているらしい。戦いの最中だというのにネスの姿には目もくれず、叫ぶ彼の声も全く耳に届いていないようだ。
完全に無視をされていることに少々寂しさを感じるものの、これは絶好のチャンスだ。そう思った彼は、急いで精神集中を始める。
ゲップーの液体による悪臭が悩ましいが、それでも先程よりかは遥かにマシだ。それに相手は全くこちらを気にしていないのだから、ある意味で精神集中しやすいとも言える。
――……よし!!
やがて、現在のコンディションにおいて最高まで精神力を高めたネスは、それら全てを一気に解き放つ。
「PKドラグーン……β!!」
絶叫と共に、彼の両手から幾筋もの光線が迸る。それらはゲップーへと向けて四方八方から降り注ぎ、全てが結集すると同時に大爆発を起こした。クリーンヒットである。
「グボアアアアッッ!?」
爆発に混じって奴の悲鳴が聞こえ、合わせて奴の身体の部分らしきものが周囲に弾け飛ぶ。ネスはそれから顔を守ろうと、咄嗟に両手を盾に顔を塞いだ。
ビチャビチャと不愉快な音を立て、彼の全身に粘着質なそれが付着する。当然というべきか悪臭を放つそれに、ネスは思わず声を出した。
「うわっ!? きったないなあ、もう!!」
「ゲーゲ、ゲーゲ……それはこっちの台詞だ。俺様の大好物を餌に不意打ちとは……ゲボゲボゲボ……!」
「っ!?」
慌ててネスがゲップーを見やると、奴はまだ生きていた。とはいえ身体が縮み、息も絶え絶えになっているところからして、かなりのダメージを受けているのは間違いない。
自分が優勢だと確信したネスは、脅しも兼ねてこれ見よがしに精神力を両手に集中させた。
「失礼だな、お前より汚いことなんかしてないよ。それより、どうするの? もう一発食らいたい?」
「ゲーーーップ!! 言ってくれるぜ。だがまあ……今回は引き分けって事にしておいてやる。どうせギーグ様は世界中に様々な仕掛けを施している。このサターンバレーやスリークが元通りになったところで、痛くも痒くもないさ。ゲロゲロゲロ……」
「なっ!? 様々な仕掛け!? それは一体なんだ!?」
「グブグブ、誰が教えるか……と言いたいところだが、一つだけ教えてやろう。おそらく直に大都市フォーサイドでスリーク以上の酷い事が起こるだろう。『マニマニの悪魔』によってな。ゲゲゲ……」
「マニマニの……悪魔?」
「ゲボッ、ゲボッ、精々に苦しみに行くがいいさ……ウッ!」
「えっ?」
突然ゲップーの顔を歪がませて口を閉じたかと思うと、奴の口が急激に膨れ上がっていく。それを見て、とてつもなく嫌な予感がしたネスは、顔を引き攣らせながら後ずさりした。
「ち、ちょっと待って、ゲップー……ま、まさかとは思うけど……」
「ゲ……ゲ……ゲローーーップ!!!!」
嫌な予感は的中した。ゲップーはその口から、どう見ても嘔吐物と思えない物を大量にぶちまけた。
反射的にネスは防御の姿勢を取るが、それはまるで意味の無い行動。今まで最大級の不快感と悪臭を放つ、ゲップーの嘔吐物塗れになったネスの意識は、瞬く間に遠のいていった。
少し熱く感じる湯加減と、立ち昇る湯気の香りが実に心地良い。
色々な意味で疲れ切っていた心身が癒されていくのを感じ、ネスは岩に背を預けながら大きく息を吐いた。
「ああ〜〜生き返る〜〜」
「おいおい。年寄りみたいだぞ、ネス。まあ、全面的に同意するけどな」
ジェフはそう笑いながら、普段はかけっぱなしの眼鏡を湯で洗っている。いつもの鋭利な眼差しが和らぎ、笑みも手伝って随分と穏やかな印象を受けた。
そんな彼に、ネスは闇に染まりかけている空を眺めながら言う。
「本当……あんな最悪……と言うより最低の戦いは初めてだったよ。どせいさんが言うには逃げてったらしいけど、もう二度と会いたくないな。ゲップーには」
「全く全く。だけど悪かったな、ネス。そんな最低の戦いを君だけにさせてしまって。……“どせいさん”が言ってたけど、相当汚されたらしいじゃないか」
「……言わないで。本気で思い出しくない」
思い切り顔を顰めたネスの脳裏に、あの戦いの光景が蘇る。身体の汚れは落とせても、この汚らしい記憶は当分消えそうになかった。
ゲップーとの戦いで最終的に全員気絶してしまった三人だが、ゲップーが逃げた事で解放された“どせいさん”達が、サターンバレーへと運んでくれたらしい。
そして意識を取り戻さないまま、彼らが造ったという温泉へと放り込まれたのである。理由は言うまでもなく、三人の身体の汚れだ。
“どせいさん”の話によると、ポーラとジェフも汚物塗れになっていた(おそらく原因はゲップーの置き土産)し、ネスに至っては凄まじく酷い有様だったらしい。
そんな状態で介抱したところで目を覚ました直後にまた気絶するだけだし、“どせいさん”達やサターンバレーそのものへの衛生面でもよろしくない。
そう判断したどせいさん達によって強制的に入浴させられたのであった。
尤も、ネス達の誰一人として、それに文句を言うつもりはなかった。むしろ素晴らしい判断をしてくれたと、温泉に浸かりながらしみじみと思ったのである。
「おふたりさん、ゆかげんはどうですか?」
心の底からくつろいでいるネスとジェフに、一人の“どせいさん”がトコトコと温泉に近づきながら話しかけてきた。
「ああ、丁度良いよ。熱過ぎでもなくぬる過ぎでもなく」
「それはよかった。どうぞゆっくりつかってください。ぽーらさんも、あといちじかんくらいつかるといってますので」
「えっ? そんなに入ってたら、ふやけるんじゃないの?」
驚きと呆れの混じった声で呟いたネスに、ジェフは苦笑する。
「それでも汚れているよりはいいんだろうよ。なにせ女子だからな、ポーラは」
「?……あ、ああ、そういうこと、か。そうだね。女の子にあの汚れはきついよね」
少し離れた場所で別の温泉に浸かっているポーラに、ネスは思いを馳せる。
衛生面では些かだらしない自分でさえ堪えたのだ。きっと彼女にとってゲップーの汚れは、普通の傷よりも比べ物にならない程に酷だっただろう。
――トラウマにならないといいけど。
ボンヤリとそんな事を考えながら、ネスは深く溜息をつく。今し方の言葉が、自分自身にも当てはまるのだと気づいて。
「まあ、ポーラはポーラとして……僕達もゆっくりしよう。色んな意味で、くたくただし」
「っ……そうだな」
ジェフのその言葉で、二人の会話は一先ず終了した。
それからはネスもジェフも何も喋らず、少しだけ暗くなりかけた空を見上げながら温泉に身を委ねる。そんな二人をしばらく眺めていた“どせいさん”も、やがて無言でその場を立ち去った。
結局、あれから三十分程湯治を楽しんだネスとジェフは、すっかり汚れが落ちた全身に満足しつつ温泉から出た。
身体の汚れも臭いもすっかり落ちた二人は、晴れやかな気持ちで“どせいさん”が用意してくれた替えの服に着替える。
少しサイズが大き過ぎて動きづらかったが、今日はもう休むだけなのだから特に問題となることでもない。むしろ、清潔な服を着れる喜びの方が、何倍も大きかった。
「ふう、本当に地獄から生還した気分だぜ。“どせいさん”達には、すっかりお世話になっちゃったな」
「うん。でも“どせいさん”達、なんでこんな服を持ってたんだろう? 着れないのにさ」
「時折、僕らみたいな旅人が来るんじゃないか? まあ、気にすることでもないだろう。深く考えず、ありがたく着させてもらおうぜ」
「そうだね。……あ、そういえば“どせいさん“、温泉から上がったら飲み物を用意してくれてるとか言ってなかった?」
「言ってた、言ってた。じゃあ、もらいにいこうか。……ああ、あれだな」
切り株の上にポットを用意している“どせいさん”を見つけ、ジェフが歩き出す。その後ろをネスがついていくと、二人に気づいた“どせいさん”が声をかけてきた。
「おふたりさん、ちょうどいいじかんです。こーひーのじゅんびができましたよ。のみますか?」
「おっ、いいねえ。頂くよ」
「コーヒー……か」
素直に喜んだジェフとは対照的に、ネスは渋い顔をする。それもその筈で、彼はコーヒーが苦手なのだ。
実家で時々母親が出してきた事があるが、今まで一度も美味しいと思った事がない。ネスにとってコーヒーとは、単に苦い液体でしかないのだ。
とはいえ、せっかく用意してくれたのだから飲まないのも失礼だろう。そんな事を考えながらの呟きだったのだが、それを聞いたジェフが意地悪そうな笑みと共に訊ねてきた。
「あれ? もしかしてネス、コーヒー飲めないのか?」
「の、飲めるよ! コーヒーくらい!」
「それはよかった。じゃあ、たっぷりいれますね」
「あ……ありがとう」
「……くく……」
若干引き攣った笑みで“どせいさん”に礼を言ったネスの隣で、ジェフが必死に笑いを堪えている。
そんな彼に文句の一つでも言ってやりたいネスだったが、それよりも先に“どせいさん”がコーヒーを淹れて、切り株の上に置いた。
「さあさあ、ゆっくりおたのしみください」
「サンキュー“どせいさん”。ネス、早く飲もうぜ」
「……OK」
愉快そうにカップを手に取り、コーヒーを飲み始めたジェフをジト眼で見やりつつ、ネスもカップを取ってコーヒーを一口飲む。
瞬間、強烈な匂いと苦みが口中に広がり、彼は思わずむせてしまいそうになるのを何とか我慢した。
――……不味い。
やはり遠慮しておくべきだったかと後悔しつつ横を見ると、ジェフは実に美味しそうに眼を閉じてコーヒーを楽しんでいる。
無性に悔しくなったネスは両眼を強く瞑り、意を決してコーヒーを口へと流し込んだ。と、その時だった。
『思えば、遠く来たものだ』
「っ!?」
「うわっ!? な、なんだよ、ネス!? 急に噴き出して」
「い、いや……」
急に知らない声が聞こえてきた事に、ネスは思わず咽てしまった。
その声はジェフは勿論、“どせいさん”達のものとも明らかに違う。無感情のようでいて、何処か温かみのある不思議な声だった。
しかし今この場にいるのは、自分を除けばジェフと“どせいさん”達のみで、他の姿も気配もない。よって、単なる空耳と片付けようとしたネスだっだが、その直後再び声が聞こえてきた。
『ネス……君が、この曲がりくねった冒険の旅路を歩むようになったのは、あの最悪の隣人……ポーキーのノックの音がきっかけだった』
「……っ……」
「ネス?……どうした、固まって黙りこくって?」
「こーひー、おいしくないですか?
すぐ隣で喋っているジェフと“どせいさん”の声が、とても遠く聞こえる。代わりに聞こえる誰かの声に、ネスは知れず耳を傾けていた。
『しかし、君は歩き続け、考え続け、戦い続けてきた。勇気を失わず、何度も傷つけながら、確実に強くなってきた』
まるで、今までの旅路を見守ってきたような語り。これまでの行いを褒めたたえるかのような語り。そんな語りを、姿なき語り手は続ける。
『それに、もう君は独りじゃない。可愛くて優しい、しっかり者のポーラがいる。運命に引き寄せられるように、遠い国から駆けつけてきてくれた気弱だが切れ者のジェフもいる』
自分だけでなく、仲間の事までも知っている語り手。一体誰なのかとネスが考える暇も与えず、絶え間なく声は聞こえてくる。
『どうやらネス、君は何かとても大きな運命を背負った少年のようだ。これから先の旅も、今まで以上に長く苦しいものになるだろう。でも君なら大丈夫だ。正しいものと正しくないものとがいて、それが戦ったとして……正しいものが負けると君は思うかね? 決して失ってはならないもの……それは勇気だ』
――……勇気か。
心の中で、ネスはポツリと呟く。これまで生きてきた中で、聞き飽きる程に聞いてきた単語だ。
だが、それが自分にあるのかどうか、ネスには分からなかった。仮にあったとしても、これから先、失わないでいられる自信もなかった。
そんな彼の思いを見透かすかのように、姿なき語り手は言う。
『勇気は、最後の勝利を信じることから生まれる』
――最後の勝利を……信じる。
簡単なようであり、難しくもあると思える言葉だった。けれども、いや、だからこそ、納得のいく言葉だとネスは思う。心の奥底に深く刻まれる、深い言葉。彼はそう感じた。
『苦しいことも辛いことも、まだまだ沢山あるだろうが、そんなことを楽しむくらいのユーモアも持っているのが君達だ。……広大な砂漠を抜けて大都会フォーサイドへと君達は向かう』
――っ!
刹那、ネスはゲップーの言葉を思い出す。確か奴も、フォーサイドで酷い事が起きると言っていた。
ならば、この語り手の言葉は真実なのだろう。次に自分達が向かうべき目的地、それはこのイーグルランド最大の都市フォーサイドだ。
『ネス……ポーラ……ジェフ……』
子を見守る親のような、包容力に溢れた声が徐々に遠く小さくなっていく。それが語りの終わりを示していると察したネスは、慌てて心の声で姿なき語り手に訊ねた。
――ま、待って! あ、あなたは一体……?
『君達にいつも、幸運の女神が微笑みかけてくれるように…………』
最後の方は殆ど聞こえなかったが、姿なき語り手の言葉はそれで終わる。途端、今まで全然聞こえていなかったジェフと“どせいさん”の声が、間近で聞こえてきた。
「ネス! ネスってば!」
「しっかりしてください。きこえてますか?」
「わっ!?……あ、ああ、うん、大丈夫、ごめん、ボンヤリしてた」
曖昧な笑みと共に取り繕いながら、ネスはもう聞こえなくなった声について思う。しかし、すぐに無意味だと結論付け、軽く被りを振った。
「とにかく……次はフォーサイドだな」
「フォーサイド? それってあれか? この国で一番栄えてる都市のこと?」
「あ……うん。ゲップーが言ってたんだ。そこで何か酷い事が起きるって」
無意識に漏れていた独り言に対して訊ねてきたジェフに、ネスはそう返事をする。
あの姿なき語り手の事は、今はまだ誰にも言うべきではないと、彼は思った。いつかきっと、またあの語り手の声を聞く時が来ると、漠然ながらも確信していたからである。
「ふ〜ん。まあ、目的地がハッキリしてるのは良いことだな。大都市フォーサイドかあ……まさか下水道にゲップーみたいなのがいたりとか?」
「や、やめてよ、ジェフ。縁起でもない」
本気で嫌そうな声をネスが上げると、ジェフは盛大に笑ってみせる。けれども、からかかわれていると分かりつつも、不思議とネスは不快に感じなかった。
あの姿なき語り手の言うとおり、ジェフは遠い国から駆けつけ、こうして一緒に旅をしてくれている。それがどんなに心強いことかを、改めてネスは実感した。
そして、それは勿論ポーラにも言えることだ。これから先も大変な事が続くだろうが、彼女がいることによる安心感は大きな支えとなるだろう。
この二人の存在がある限り、どんな事が起こっても大丈夫だと、ネスは思った。
――――そう思っていたからこそ起こる悲劇が、もう既に間近に迫っているということを、この時のネスはまだ知る由もなかった。