〜エピソード３３〜

 

 

 

 

 

何も感じなかった。そう、何もかも。何もかも。

何も見えない。何も聞こえない。身体を動かそうにも、その感覚すら既に失われてしまっている。痛みもなく、立っているのか横たわっているのかも分からない。

――俺はもう死んでしまっているのか？　俺にはもう、何も残っていないのだから。

無意識にそんな疑問が浮かんでくる。無論、その疑問に答えるものはいない。そう思った時だった。

（お前はまだ全てを失ったわけではない。お前に残っている最後のもの、それは心。そう、今こうしてわしの言葉を受け入れている、その心じゃ。その心が失われた時、お前は明確な『無』となる）

その言葉に、僅かながら自我が蘇るのを感じた。

――……そうか。俺は今……。

（よってこれより、お前の心を奪いとる。良いな？）

――……心を奪いとる？……それで俺は……。

（心を取るぞ？　それがお前の望みであろう？　心を失い、真の『無』となることが）

――……『無』……そう、俺はそれを得る為に……。

刹那、強烈な違和感を覚えた。それは瞬く間に大きくなり、同時に失われていた筈の感覚が戻ってくる。

――っ……違う！　俺が求める『無』は……真の『無』という物は……！！…………心があってこその物！！

心の中でそう叫ぶと、再び問いかける声が聞こえてきた。

（では、試練を……修行を諦めるか？　我が子孫……プー王子よ？）

「……否！！」

声の主―—試練の主である先祖の霊に対して、彼―—プーはあらん限りの力を込め、吼える。

「俺はたった今、『無』の何たるかを理解した！！　それこそが、この修行を終えた何よりの証となる！！」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吹き抜ける風の感触に、プーは静かに眼を開けた。

すると視界に入ったのは、見慣れた自国―—ランマの風景。そして自分が今居る場所が、そのランマの端にある『無の場所』なのだと認識する。

高く聳え立つ崖の、狭い頂上。そんな危険な場所であるにもかかわらず、彼はとても落ち着いた様子で立ち上がった。

違和感は何もない。見え、聞こえ、動くことが出来る。改めて己の身体が健在な事を確かめた彼は、小さく息を吐いた。

「……どうやら、無事に終えたようだな。『無の修行』を」

呟くと同時に、先程の体験が脳裏に蘇る。思い返せば夢か幻かと考えてしまいたくなる出来事だったが、間違いなく現実だったのだと彼は確信していた。

言葉では上手く表現できない。しかし身体、いや心の奥にある何かがそうであるのだと告げている気がした。

「プー王子様！　プー王子様！」

自分の名を呼ぶ嬉々とした声にプーが振り向くと、見知った顔である宮女が息を弾ませながら駆けてくるのが眼下に映る。

何事かと問いかけようとした彼よりも先に、彼女は満面の笑みで両手を合わせると深々と頭を下げた。

「おめでとうございます！　無事に修行を終えられましたね！　全てはイースーチー様の仰る通り。早く王子様とお話がしたいと宮殿でお待ちです！」

「！……イースーチーが……流石だな、既にこちらの結果を把握済みとは。……わかった、宮殿に戻るとしよう。言伝役、ご苦労だったな」

プーが労いの言葉を掛けると、官女はビクリと身体を震わせ、照れと恥ずかしさで顔を赤くしながら首を横に振る。

「め、滅相もございません！　わ、私のような者に、そのようなお言葉……で、ではなるべく早く宮殿にお越しください！　私は先に戻っていますので……！」

「まあ、待て。そう急くこともあるまい」

慌てた様子で駆け出そうした宮女を苦笑交じりに呼び止めると、プーはその場から軽やかに飛び上がった。そして、そのまま険しい崖を跳躍し、官女の元へと飛び移る。

常人離れした行為であったが、幼き頃から鍛錬に励んでいた彼にとっては造作もなかった。

「わざわざ呼びにいった相手を置いていく事もなかろう。共に参れ」

「は、はい！　お、お供させていただきます！」

官女は声を弾ませながら頭を下げた後、プーを先導するように宮殿への道を歩く。その様子は、後ろからでも明確に分かる程に嬉々としていた。

自国の王子に同行を促されるのが類まれなる名誉だというのは言うまでもない事だ。彼女が舞い上がるのも当然であろう。

そんな官女の後姿を眺めつつ、プーは再び苦笑するも何も言わずに彼女の後についていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おお、プー王子。よくぞ『無の修行』に耐えてくれました。このイースーチー、貴方なればきっと成し遂げてくださると信じておりましたぞ」

プーが宮殿に戻るなり、師であるイースーチーが珍しく笑みを浮かべて出迎える。それが合図であったかのように、他の面々も盛大な拍手で王子の帰還を歓迎した。

「うむ。流石に一筋縄ではいかなかったがな。……それでイースーチーよ、これで俺の方の準備は整ったとみて良いのか？　お前が兼ね兼ね言っていた、“歴史的な戦い”とやらに関しての」

――――ランマという一国だけの問題ではなく、この世の全てを巻き込む程に大規模な戦い。

幼い頃から、そしてここ最近は毎日と言っていい程に聞かされてきた話題をプーが振ると、イースーチーは神妙な顔で頷いた。

「左様です。このイースーチーが天より授かったお告げ……全ての邪悪なるものを動かし支配する神が、歴史上最大の戦いを挑んでおりまする。これを受けてたてるのは、この世に散らばる四人の少年達。

そう、プー王子。貴方がその内の一人なのです。そして四人の頭となる者……それがネスという少年であります」

「ネス？」

「はい。既に彼は王子以外の二人とは合流している事でしょう。そして王子。今こそ貴方もネス殿の元に赴く時なのです。さあ、すぐに向かってください」

そのイースーチーの言葉に、周囲の面々が再び一斉に拍手する。まさに門出を祝うといった雰囲気だったが、当の本人であるプーは珍しく困惑した表情になりながら口を開いた。

「いや、イースーチーよ……向かえと言われても、俺はそのネスという者の事は何も知らんのだぞ。一体どうやって向かえと……」

「大丈夫です。『無の修行』を成し遂げた今の貴方なら、転移術を会得している筈。……後は私が申し上げずとも、ご理解できるでしょう」

「転移術？……確か前にお前が行っていた……」

かつての修行を脳裏に浮かべながら、徐にプーは呟く。

―――—転移術。気を感じ取り、その気のある場所に己の身を飛ばす術。

何度も聞かされてはいたが、教えてもらった事はおろか見せてもらったことすら無い。ましてや、求める場所―—ネスという者の気など分かる筈もなかった。

とはいえ、こちらを見るイースーチーは一切の懸念を感じさせない顔をしている。つまり、“やればできる”という事なのだろう。そう思ったプーは徐に眼を閉じ、神経を集中させた。

（世界規模の戦いの頭となる者だ、相応の気を持ってはいるのだろうが…………む！？）

不意にプーは、遥か彼方にそれらしき気を感じ取る。雄大且つ強大で、それでいてどこまでも穏やかな気。そして、その気のすぐそばに、二つの気も感じ取れた。

（これは……とても温かい、まるで陽の光のような気だ。もう一つは……小さいながらも鋭い輝きが感じられるな。全部で三つの気……それら全てが常人の持つ気とかけ離れている。……これか）

求める気は、これで把握できた。後は、此処に己の身を飛ばすことが出来れば、転移術は成功となる。

しかし、そのやり方が皆目見当もつかない。仕方なくプーは、漠然とした想像を元に転移術を試みる事にした。

（この三つの気の内、一際巨大で穏やかな物がネスの気だろう。此処に俺を……いや俺の気を飛ばす様を思い描く…………っ！！）

刹那、彼は己の中で何かが動くのを感じた。言葉では上手く表せない、しかし確かな感覚。そして彼はその感覚こそが、転移術なのだと確信する事が出来た。

「っ……イースーチーよ！　皆よ！　行ってくる！！」

眼を閉じたまま力強く叫んだプーの姿は次の瞬間、音もなくその場から消え去っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ス……ネス！……ネスってば！」

「……ふえ？」

誰かに揺り起こされている事に気づき、ネスはボンヤリとした頭のままで眼を開ける。

するとそこには、呆れ交じりの笑みでこちらを見ているポーラの姿があった。

「やっと起きたわね。もう、こんな暑い所で、よくそんなグッスリ眠れるわね？」

「眠る？　日陰？……あっ……ここはサマーズか」

「？……どうしたのネス？　そんな分かり切ったこと言って？」

「いや……なんでもない」

――さっきのは夢だったのかな？　

ようやく覚醒し始めたネスは、頭の片隅に残る光景を追いつつ、自分の置かれている状況を確認する。

サマーズの海岸に設置されている、パラソル下のサマーベッド。そこで横になっている事に気づいた彼は、身を起こすと同時に記憶が蘇り、ポーラに訊ねた。

「マジックケーキの人は？　ジェフは？」

「職人さんなら、とっくに旦那さんの所に帰っていったわ。ジェフはドリンクを買いにいってる。もうすぐ戻ってくるんじゃないかしら」

「そっか。……だけど美味しかったなあ、マジックケーキ。もっと食べたかったよ」

やる気を取り戻した職人のご厚意により、ネス達は特製のマジックケーキをご馳走になった。

有名なだけあってその味はとても甘美で、三人はたちまち虜になり、特にネスは何回もお代わりをした。

そして満腹になった彼は強烈な睡魔に襲われ、抗う暇もなく眠りに落ちてしまったのである。

「もう、ネスってば。あれだけお代わりしておいて、まだ食べたりないの？」

「いや、だって本当美味しかったし……でも不思議だな、あんな急に眠くなるなんて」

「何言ってんだか。あんなに食べれば、眠くなって当然だろうに」

不意に聞こえた声の方向に振り向くと、ドリンクの缶が飛んでくる。

どうにかそれをキャッチしたネスは、缶を投げた声の主―—ジェフに抗議の声を上げた。

「ととっ！　ジェフ！　危ないじゃないか！」

「アハハ、そう怒んなって。しかしまあ、よく寝てたな君。いい夢見れたんじゃないか？」

「え、夢？……うん、そうかもしれない」

「へえ、本当に見てたのか。で、どんな夢なんだい？」

「え〜っと……何だか不思議な感じの国が舞台だったんだ。そして……あれ？　変だな、あまり思い出せない。確かにそんな夢だった筈なんだけど……」

そこまでネスが言いかけた時だった。不意にポーラが表情を険しくし、息を呑む。そして握りしめた両手で胸元を押さえだしだのを見て、慌てたネスとジェフは口々に叫んだ。

「ど、どうしたのポーラ！？」

「具合が悪いのかい！？」

「う、ううん……平気、心配しないで。ちょっと、感じただけよ」

「感じた？……感じたって、何を？」

当然の疑問をネスがぶつけると、ポーラは少しの沈黙を置いた後、悲しそうに首を横に振った。

「ハッキリとは分からない。でも、近づいてきているわ。そう……もうすぐ、此処にやってくる」

「え？　やってくるって……」

ジェフが独り言の様に呟いた刹那、突風が三人を襲った。三人はそれぞれ悲鳴を上げながら、周囲を舞う砂に対して眼を瞑る。

そのまま暫く時が流れ、やっと風が止むと三人は恐る恐る眼を開けた。そして、揃って驚愕に眼を見開く。

なぜなら、先程まで誰もいなかった場所に見知らぬ人物が立っていたからだ。

――――見た事も無い髪型に、見た事も無い服装。鍛え上げられた肉体に、端正な顔立ちの少年。

眼を閉じたまま微動だにしない彼は、一見隙だらけに見えて言いようの無い威圧感を放っていた。

そんな少年に三人は誰一人として声を掛ける事も出来ず、ただ彼の姿を眺める。と、その時、ゆっくりと少年が眼を開けた。

鋭い光を放つその瞳はジェフ、ポーラと順に見据えた後、ネスの顔を真正面に捉える。

「成程、お前が……お前が、ネスだな」

「……えっ？」

出し抜けに名前を呼ばれたネスは、反射的に驚きの声を上げる。

「なんで、僕の名前を？」

「それが運命というものだ。ネスよ、俺の名はプー。これで分かるのではないか？」

どこか試すような口調で、プーと名乗った少年はネスに問いかける。

それに対して一瞬怯んだネスだったが、ふとタライ・ジャブ、そしてブンブーンの言葉を思い出し、たどたどしく口を開いた。

「じゃあ君が……四人目の？」

「そういう事だ。ネスよ、この戦いの頭はお前だ。俺はこれより、お前のしもべとなろう。……俺の命は預ける。上手く使え」

「え、えええっっ！？」

とんでもない事を言われ、ネスは悲鳴に近い絶叫をする。しかしプーはまるで気にしていない様子で、淡々とした口調で続けた。

「さてと、まずは色々と教えてもらわねばならんな。この戦の目的地、そして敵の正体……他にも知りたい事は山程ある。何処か落ち着いて話せる場所はないか？」

「あ、え、えっと……じ、じゃあとりあえず僕らの部屋に行こうか。そのプー……」

圧倒されてばかりのネスだったが、ここはリーダーとしてちゃんとしておかなければと、プーに対して右手を差し出す。

「こ、これからよろしく」

「っ……ふ、しもべに対してこういう挨拶は不要だと思うがな」

「し、しもべはやめようよ。その……僕、そういうの好きじゃないし。仲間で良いじゃない？」

「仲間、か。まあ、頭のお前がそう言うのなら、俺はそれに従うまでだ」

微かに笑みを浮かべたプーは、そのまま差し出されたネスの右手に己の右手を重ねる。

「頼りにしてるぞ、ネスよ」

「う、うん！」

握られた手からプーの強さを感じながら、ネスはたじろぎながらも大きく頷いてみせた。