〜エピソード8〜
眼前に広がる大きくて柔らかそうなベッドに、ネスは無言でダイブした。
スプリングの軋む音と共に、彼の全身がシーツに沈む。すると今日一日分の疲労が一気に押し寄せてきて、ネスは思わず呟いた。
「疲れた、本当に疲れた……こんな一日初めてだよ」
―――シャーク団との戦い。『ジャイアントステップ』を目指す冒険。
この二つだけでも相当辛かったが、今日の出来事はそれで終わらなかった。
『ジャイアントステップ』の洞窟から戻った直後、一人の警官に呼び止められ、警察署へ出頭するように命じられた。
話によると『ジャイアントステップ』は立入禁止区域だったらしく、その事についての御咎めらしい。
不服に思いながらも渋々警察署へと出向いたネスだったが、そこで更に厄介な事に巻き込まれる羽目になってしまった。
長い説教を食らった後、現在オネットが完全封鎖中である事を聞かされ、外に行きたいのだとネスが告げると、何故か警官達と戦う事になったのである。
警官達は「外に行くだけの力があるかどうか試す」等と言っていたが、そもそもそんな事は警察の仕事ではない筈だ。
そんな苛立ちを糧に警官達を倒し、最後の相手であるストロング署長も“催眠術”を駆使して膝をつかせると、隣町であるツーソンへの道を解放してくれた。
とにかく先へと進みたかったネスはその足でツーソンへと続く森を抜け、ようやくツーソンへと辿り着いた時にはもう日が傾きかけていた。
町の入り口付近にあったホテルを見つけたネスは、最初から決めていたかのようにそこへ入り、チェックインをして現在に至る。
「ツーソンに来るのは初めてだから色々と見て回りたかったけど……流石にそんな元気ないな、今は」
そう呟く間にも、ネスの瞼は重くなっていく。襲い掛かってくるその睡魔に、今の彼は抵抗する気力も理由もなかった。
無意識に促されるまま、ネスは瞳を閉じる。程無くして、彼は眠りへと落ちていった。
ふと気がつくと、ネスは白一色の世界に立っていた。
周りには誰もいない。何もない。ただ白だけが広がっていて、彼はそんな世界に一人立ち尽くしている。
何故こんな所にいるのか分からないまま、ネスは辺りを見回しながら歩き出した。
しかし、いくら歩いても白の世界は終わらない。段々と不安や恐怖が募り始め、それを振り払うかのようにネスは声を出した。
「此処は……此処はどこなんだ?」
その問いに答えるものは何もない。だが、尚も歩き進んだところで、眼前に白い靄を纏った人影が現れた。
「……誰?」
思わずネスは訊ねるが、人影は何も答えない。そもそも白の靄が邪魔して向こうが殆ど見えないため、こちらに気付いているのかどうかも分からない。
けれども暫くすると徐々に靄が薄れていき、人影の正体が明らかになっていく。
顔はよく見えないが鮮やかな金の髪、そしてピンクのワンピースに真っ赤なリボンからして女の子のようだ。
どことなく妹のトレーシーに似ていると感じ、ネスは徐に彼女へと手を伸ばしながら呟いてみる。
「トレーシーか?」
「……ネス……」
返ってきた声に、ネスは驚いて伸ばしていた手を引っ込める。
――この声……違う。トレーシーじゃない……。
「……ネス……まだ会った事もない私の友達……」
鈴が鳴るような、透き通った可愛らしい声。その声が、まるで独り言の様に、言葉を紡いでいく。
「私はポーラ……ポーラです」
「ポーラ?」
初めて聞く名前に戸惑う彼だったが、急に調子の変わった眼前の声――ポーラの声に、我へと返る。
「ネス……ネス! 助けて! 助けに来て!」
「っ!?」
悲痛な、そして僅かに嗚咽を含んだその声に、ネスは胸を衝かれたような感覚に陥った。
「此処がどこなのか分からない……でも、遠くから水の流れる音が聞こえる……ネス……ネス! 助けに来て!……お願い……」
消え入るような懇願の言葉が聞こえた瞬間、不意に白い靄がポーラを包み込み、瞬く間に見えなくなる。
ネスは慌てて手を伸ばしながら彼女へと歩み寄ろうとするが、その刹那いきなり白一色だった世界が黒に染まっていく。
「ま、待って!!」
彼のその叫びは空しく闇の中に消えていき、次いで彼自身も漆黒の世界へと包まれていった。
「っ!?……あっ…」
やにわに顔を上げたネスは、自分がホテルのベッドの上にいる事に気付く。何気なく窓を見てみると、驚いた事に朝日が差し込んでいた。
いつの間にか、深く眠っていたらしい。徐に起き上がり、ベッドの上に座り込んだネスはボンヤリと天井を見ながら呟いた。
「夢……だったのかな?」
それにしては目覚めた今でもハッキリと思い出せる事を、彼は不思議に思う。
普段なら夢を見ても、その夢の内容は覚束ない筈なのに、ポーラと名乗った少女の切実な叫びが、今も尚ネスの頭の中で木霊している。夢と片付けるには、あまりにも生々しい感覚だった。
――もしかしたら、本当に……。
スッキリしない気持ちを抱えながらも、ネスはチェックアウトを済ませてホテルを出る。そして、とりあえず此処ツーソンを見て回ろうと思った時だった。
遠くの方から忙しない足音が近づいてくるのが聞こえ、驚いて足音の方へと顔を向けると、三十代ぐらいの男性が盛大に涙を流しながら走っている姿が眼に映った。
「ポ、ポ、ポーラーーー!! ど、どこにいるんだーー!?」
ネスは思わず飛び上がりそうになった。驚愕に眼を見開き、凄まじい勢いで眼前を駆けていった男性を眼で追う。
しかし、彼は瞬く間に町を行き交う人々の中に消えてしまった。泣き叫びながら『ポーラ』という名前を口にしつつ。
「おやまあ、今のはポーラちゃんのパパさんじゃない。やっぱりあの噂、本当だったのかねえ」
悲しげな口調の声がすぐ隣で聞こえ、ネスはそちらへ振り返る。するとそこには、初老の女性が杖で身体を支えながら立っていた。
「あの、おばあさん?」
「ん?」
「あの話って?」
ネスの問いに、女性は暫し眼を瞬かせた後、合点が言ったように「ああ」と頷き、説明する。
「あら、あんた噂で聞いてないのかい? ポーラちゃんが誘拐されちゃったって話」
「ゆ、誘拐!?」
反射的にネスは大声を出してしまい、慌てて手で口を押さえる。だが幸いにも、喧騒の為か周囲の人達は特別彼の事を気にしてはいなかった。
「な、なんでまた、そのポーラって子は誘拐されて……」
「いや、私もそこまでは……それはそうとあんた、話しぶりからしてポーラちゃんを知らないって感じだけど、もしかして違う町の子かい?」
「え、ええ。昨日、オネットから来たばかりで……」
「なんだ、隣町の子かい。それだったらポーラちゃんの事、一度や二度くらい聞いてないかい? あの子はかなりの有名人だから、オネットにも噂は行き渡ってる筈だよ?」
「え……?」
訝しげに女性に訊ねられたネスは、己の記憶を探ってみる。
しかし、元々ニュースや噂話には無関心な生活を送っていた上、友人と話す話題もゲームか漫画、或いは野球の事ばかりで女の子の話などした試しがない。
暫くして全く心当たりが無いという結論に達すると、ネスは首を横に振りつつ返事をした。
「……いえ、全然聞いた事ないです」
「はあ、珍しい子もいるもんだねえ。ポーラちゃんはここツーソンにある『ポーラスター幼稚園』の看板娘で、不思議な力を持っているって何度もテレビに出た事もあるんだよ」
「不思議な力?」
気になったその単語をネスが口にすると、女性は質問と捉えたようで、小さく頷く。
「いわゆる予知能力という奴だね。明日の天気とか誰かの落とし物とか……とにかく色んな事をピタリと当ててしまうんだよ」
「へえ、凄いですね」
「だろう? おまけにポーラちゃんは、気立てが良くて可愛いからねえ……あんたぐらいの男の子のファンも、大勢いる筈だよ」
「そ、そうなんですか」
「そうだよ。本当、あんな良い娘は中々いるもんじゃないわよ。綺麗な金髪を揺らしながらいつも笑顔で歩いてて、それがまた可愛くて。ピンクの可愛らしいワンピースに赤いリボンが、とっても似合ってて……ああ本当、パパさんが心配するのも分かるわ。眼に入れても痛くないくらい可愛がってるから。どこのどいつか知らないけど、誘拐なんて酷いことするもんだよ、全く」
刹那、ネスは頭を殴られたような衝撃に襲われた。
―――先程の男性の様子。この女性の言葉。そして自分が見た夢。
全てが奇妙にリンクし、疑惑を確信へと変えていく。直後、ネスは弾かれたようにその場を駆けだしていた。
その様子に気付いた女性が何かを言った気がしたが、最早ネスの意識はポーラの事で埋め尽くされていた。
「とりあえず水が流れる音が聞こえる場所を! となると、やっぱり川の近くとかか!?」
既に彼はポーラが誘拐されたという事を確信していた。そして、彼女が自分に助けを求めるという事も。
言いようのない不安、そして使命感に突き動かされるように、彼は該当する場所を探す事に決めたのだ。
しかし、そう決めてから幾許もしない内に、予想外に出来事に出くわしてしまう。ツーソンを南下し、家も疎らな郊外辺りにやってくると、道端で人が倒れているのを発見したのだ。
当然驚いたネスは足を止め、倒れている人物へと近づく。うつ伏せで倒れているから顔は見えないが、微かに聞こえてくる呻き声からして、どうやら男性らしい。
恰幅の良い体型に、丁度リンゴのように頭の中心から髪の毛の束が垂直に伸びている。ネスはそんな彼を軽く揺さぶりながら、声を掛けた。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
「う……た……た……」
「た?」
「食べ……物……」
「あ〜〜美味しい! こんな御馳走、何日……いや、何週間……いいや、何か月ぶりだろう。幸せ……」
ネスが買ってきたハンバーガーを次々と平らげながら、男性は至福の表情を浮かべる。
――ハンバーガーが御馳走って……相当ひもじかったんだな、この人。
そう思いつつ、ネスは更にハンバーガーの包みを差し出した。
「もっと食べます?」
「え? いいんですか!? ありがとう! 貴方は良い人だなあ!」
男性は素早くハンバーガーを手に取ると、瞬く間に胃袋へと収めていく。
その様子を苦笑しつつ眺めていたネスの脳裏に、ふと迷惑な隣人の姿が過ぎった。
――ポーキーもこんな風だったら……あいつは、さも当然の様に人から食べ物を奪い取るからなあ。
「はあ……流石に満腹です。本当にありがとうございます、わざわざ家まで運んでくれた上に御馳走してくれて。……えっと……?」
「あ、僕はネスって言います」
「そうですか、ネス君……は失礼ですね、命の恩人に。ネスさん、僕はアップルキッドって言います。この部屋を見れば分かると思いますけど、発明家なんです」
そう言いつつ、アップルキッドは部屋全体を見渡し、ネスも彼に倣う。
部屋の中には、ネスには何に使うのかサッパリ分からない機械や部品、そして難しそうな本が所狭しと散乱している。確かに、いかにも発明家といった感じの部屋だ。
「だけど全然儲からなくて、食べ物を買うお金も無くて……隣のオレンジキッドに何か食べさせてもらおうと思って外へ出たんですけど……」
「オレンジキッド?」
ネスがそう呟いた直後、控えめにドアがノックされた。するとアップルキッドは来客が誰か分かったのか、すぐに「開いてるよ」と答える。
するとドアが開き、眼鏡を掛けた男性が部屋に入ってきた。
「やあ、アップルキッド。……おや、君に来客とは珍しいね」
「まあね。……あ、ネスさん、彼が今言ったオレンジキッドです」
「え? あ……どうも」
ネスがぎこちなく会釈すると、オレンジキッドは気障な仕草で眼鏡を掛けなおしながら言う。
「稀代の天才発明家、オレンジキッドです。以後、お見知りおきを」
「は、はあ……」
「ところで、アップルキッド。“アレ”は完成したのかい?」
「ああ、“アレ”ね。うん、出来てるよ。ちょっと待ってて」
アップルキッドはのそのそと立ち上がると、部屋の片隅に置いてあった箱から“何か”を取り出した。
そして、その取り出した“何か”をオレンジキッドに手渡す。受け取ったオレンジキッドは短く礼を言うと、スタスタと部屋を出ていった。
「今のは、一体?」
「ん〜〜と、何だったかな? 確かゆで卵を生たまごに戻す研究に必要な装置だったと思いますけど……」
「……その研究、意味あるんですか?」
「さあ? 彼の専門分野は日用関係だから、良く分からないんです」
「へえ……それじゃ、アップルキッドの専門は何なんですか?」
「僕ですか? 僕は……っ……まだありません。一つも成果を上げてないですから。なにせ、研究資金が不足していて……」
そう言うとアップルキッドは意味深な眼でネスを見る。
その視線が何を意味するのか、暫くして理解したネスは、苦笑交じりに財布を取り出しながらアップルキッドに訊ねた。
「どのくらい必要なんですか?」
「え? 援助してくれんですか!? やった! それじゃあ200ドルお願いします!」
「200ドル? え〜と……」
結構な金額を提示され、ネスは財布の中を覗いた。幸い200ドルはあったものの、これを払ってしまうと殆ど素寒貧である。
――まあ、またCDで下せばいいか。パパが沢山、振り込んでくれてたし。
無駄遣いはしないと決めていたが、これは人助けだ。決して無駄遣いではないだろう。
そう結論づけると、ネスは200ドルを財布から抜き出してアップルキッドに手渡した。
「はい、200ドル」
「わあ、ありがとう! 出来る限り、頑張ってみます! よ〜し、まずはメンテナンスを終わらせて、そしたら部品を買いに……」
アップルキッドはブツブツと独り言を呟きながら、部屋中に置いてある機械を弄り始めた。
これではもう、当分他の事には眼が向かないだろう。そう思ったネスは徐に立ち上がると、己の目的に戻る事にした。
――早くポーラを探さないと。
そう思いながら、部屋を出ようとした時だった。
「待ってくれ」
「……えっ?」
不意に近くから声が聞こえ、ネスは立ち止まる。すると、またしても声が聞こえた。
「こっちだ。君の足元」
「足元?……わっ!? ネ、ネズミ!?」
言われて自分の足元を見てみると、そこには一匹のネズミがいた。
ネズミといっても『ジャイアントステップ』にいたようなバケモノじみたネズミではなく、至極普通の大きさのネズミである。
しかし、普通のネズミではない事は明らかだった。人語が話せるネズミが、普通の筈がない。
「き、君、喋れるの?」
「うむ。我輩はマウス。名前はまだない。主人であるアップルキッドへの援助、感謝する」
「え? あ、はあ……どういたしまして」
「そのお礼に、ある物を差し上げたい。少し待ってほしい」
ネズミ、もといマウスは素早く部屋の奥に行くと、何やら電話の受話器のようなものを引き摺ってきた。
「これは主人の発明品の一つでな。受信電話といって、文字通りに受信専用の電話なのだ。主人が用のある時は、これで連絡する。だから遠慮なく貰ってくれ」
「あ、ありがとう」
「うむ。それで君はこれからどうするのだ?」
「えっと……実はポーラって女の子が誘拐されたとかで……その子の行方を捜してるんだけど……」
ネスがそういうと、マウスはピクリと反応した。
「誘拐? 穏やかな話ではないな。だが、それならヌスット広場のトンチキという男に会ってみるといい」
「ヌスット広場のトンチキ?」
訊き返したネスに、マウスは「うむ」と答える。
「人が攫われただの物が盗まれただの、そういう類の話は大抵そのトンチキが関与しているらしい。行ってみる価値はあるだろう」
「うん、分かった。ありがとう……マウス?」
そう呼んでいいものか判断しかね、戸惑いながら呟いたネスに、マウスは小さな体を揺らしながら答えた。
「気にしないでほしい。我輩の勘だが、君とはこれからも長い付き合いになりそうな気がする。これくらいの情報提供、して当然だ」
「……っ……」
「あ……急ぐのに時間を取らせてしまった。ではな」
用が済んだとばかりに、マウスはアップルキッドの元へと駆けてゆく。それを見届けた後、ネスはゆっくりとドアを開けて外へと出て行った。
すっかり慣れた様子で、ネスは左手に力を込める。
すると彼の左手から仄かな光が生まれ、彼の前で蹲っているサングラスをかけた中年男の右足を包み込んだ。
やがて光が収まると、サングラスの男は苦々しく舌打ちをして立ち上がった。
「チッ……なんで分かりやがった?」
「いや、そりゃあ……飛び降りた時に、明らかに足が変な方向に曲がってましたよ?」
苦笑しつつネスが言うと、男は再び舌打ちをしたが、すぐに人相の悪い笑みを浮かべる。
「怪我人と分かってたのに、手加減なしか? 中々、容赦のない坊やだな」
「よ、容赦ないって、そんな! 何も痛くなかったでしょ? ただ単に眠らせただけなんですから」
「ガハハッ! 真に受けるなって!……にしてもすげえな、ちっとも痛まねえ。とんでもない力を持ってるじゃねえか」
豪快に笑い飛ばしながら男は立ち上がると、感心した様子で何度も頷いた。
――――この男こそ、マウスが言っていたトンチキである。
マウスの言葉を信じてまっすぐヌスット広場に向かったネスは、広場の奥に建てられた一軒家の屋根に、一人の男――トンチキが立っているのを眼にした。
そんな嫌でも目立つトンチキにネスが近づくと、彼は屋根から飛び降りるや否や襲い掛かってきたのである。
しかし飛び降りた時にトンチキの右足首が曲がったのを見逃していなかったネスは、すぐに彼から距離を取った。
当然トンチキは迫ってきたのだが、その動きは何処かぎこちなく、速さがなかった。その動作から彼が足をくじいているのを確信したネスは、すぐに“催眠術”を試みた。
精神集中に多少の時間はかかったが、足をくじいているトンチキ相手には十分確保出来る時間であった。
ネスの“催眠術”を食らったトンチキはその場に倒れ、次に眼を覚ました時には、あっさりと負けを認めた。
そして今、ネスは“ライフアップ”でトンチキの右足を治療していたところである。
「それで、このトンチキ様に何の用だ?……と、言いたいところだが、聞くまでもねえな。どうせ、行方不明のポーラって女の子の事を聞きたいんだろう?」
「は、はい。何か知ってますか?」
「まあな。グレートフルデッドは知ってるか?」
「え? あ、いえ……」
ネスが首を振ると、トンチキは徐に東の方向を指差した、
「此処ツーソンから東にある洞窟を抜けた先にある渓谷、そこがグレートフルデッドだ」
「渓谷……」
その言葉に、ネスは敏感に反応する。夢の中でポーラが言っていた言葉が蘇る。
――遠くから水の流れる音が聞こえる……。
確信めいた何かをネスは感じるが、トンチキはそんな彼に構う事なく話を続けた。
「俺はそこに小屋を持っててな。先日、その小屋を貸して欲しいと頼みに来た奴らがいたんだ。デブの子供が一人と全身青ずくめの集団という、妙ちきりんな連中だったぜ」
「デブの子供?」
思わずネスは聞き返したネスの脳裏に、忘れたくても忘れられない腐れ縁の顔が過ぎる。
――まさか……?
言いようのない不安が顔に出ていたのだろう。トンチキが怪訝そうに訊ねてきた。
「なんだ? 心当たりがあるのか?」
「い、いえ、そんな事は……それより、話の続きを」
咄嗟に誤魔化したネスが促すと、トンチキは頷く。
「分かった。で、まあアレだ。そいつらが昨日、礼を言いに来てな。楽しそうに言ってたぜ。『教団の姫神にする』だの『これで世界はハッピーになる』ってな。俺がなんの事かと訊ねると、あっけらかんと言ったよ。『ポーラスター幼稚園のポーラを攫った』ってな」
「!!」
「まあ、ポーラって子は、不思議な力を持ってるって評判だからな。おそらく、その子の力が連中の“何か”に必要なんだろう。……坊や、俺の言いたい事が分かるか?」
「……え?」
サッパリ意味が分からずネスが間の抜けた声を出すと、トンチキはニヤリと口端を上げ、それでいてサングラス越しにでも分かる鋭い眼をしつつ言った。
「連中が欲してるのは“ポーラの力”であって、“ポーラ自身”じゃないって事だ。つまり、その力さえ手に入れば、ポーラって子は殺してしまったって構わないって訳だ」
「なっ!?」
あまりにも飄々と物騒な事を言ってのけたトンチキに、ネスは思わず非難の眼差しを向ける。
しかしトンチキはなんら臆する事なく、ネスの肩を力強く叩いた。
「だから早く行ってやれ。今グレートフルデッドは訳の分からないバケモンがウヨウヨしてて危険極まりない所だ。坊やが行かなきゃ、きっと誰も助けに行かないぜ」
「わ、分かりました! じゃあ!」
気が気でなくなったネスは、情報を提供してもらった礼を言うのも忘れて身を翻す。
しかし、彼が駆けだそうとした瞬間、トンチキが大声で呼び止めた。
「ちょっと待った坊や!」
「わわっ!? な、なんですか!?」
焦れた様子でネスが振り返ると、トンチキは相変わらず人相の悪い笑みを浮かべたまま言った。
「そのポーラって子を救い出せたら、また必ず俺の元に来い」
「はい? どうしてですか?」
「理由はその時に教えてやる。いいか、か・な・ら・ずだぜ!!」
一句一句強調して言い放ったその言葉には、決して逆らえない気迫が込められていた。
その気迫に圧されたネスは、無言でぎごちなく頷く。それを見たトンチキが頷き返すのを見届けると、すぐに身を翻してグレートフルデッドへと駆けていった。