第十二章〜末路〜
――――東歴2002年10月18日正午。
「じゃあ、もう大丈夫なのかい?」
「うん。ちょっと前までは苦しそうだったけど、今はほらグッスリでしょ」
光美に言われて雄一は医療室のベッドに横たわっている少女へと視線を移す。
確かに幸せそうな寝顔な上、口元からだらしなく涎を垂らしているその様は、とても苦しんでいるようには見えない。
あの尋常ならざる様子はなんだったのかと思いたくなるくらい、安らかな眠り姫の姿だった。
「医療スタッフさんの話だと、身体そのものには何処にも異常がなかったみたい。だから“新士”としての異常だろうって言ってたわ」
「成程ね、まあ予想通りと言えば予想通りか。やっぱり好野さんに色々調べてもらわないとな、この……えっと、なんて名前にしたんだっけ?」
つい先程聞いたばかりの少女の名前をド忘れしてしまい、雄一は名づけ親の双慈へと振り返る。
すると双慈は、気恥しそうに頬を掻きつつ明後日の方向を見ながら答えた。
「雷華」
「あ〜それそれ。けどあんだけ悩んでた割には、素直というか安直と言うか……」
「別にいいでしょ! いきなり言われて洒落た名前なんてでてこないよ!」
「……“ライハ”って、どういう意味?」
憤慨した様子の双慈を尻目に、光美が小声で繚奈に訊ねる。すると繚奈は微笑みながら答えた。
「雄一の言う通り、素直な連想できるものよ。雷の華と書いて、雷華」
「ああ、そうか。別に悪くないんじゃない? 私は結構良いと思うけど」
「双慈にとっては、良かろうと悪かろうと同じなのよ。気恥しいってことに変わりはないの」
「成程。双慈君もお年頃だから」
「勝手に決めつけて盛り上がらないでくれる?」
心底不機嫌そうな顔つきで、双慈は二人を睨みつける。が、それで臆するような繚奈と光美ではなく、クスクスと笑いながら形式だけの謝罪をするだけだった。
雄一はその様子を眺めて双慈を哀れに思いつつ、本題に入るべく好野への視線を向ける。
「で? 実際に見てどうです? 何かわかりますか?」
「ちょっと雄一、急かさないで。いくら私でも、ただ見るだけじゃ何もわからないわ。だけど光美ちゃんの言う通り、肉体的な問題はないと見て良さそうね。この寝顔を見る限り」
そう言って微笑みながら、好野は少女―—雷華の口元の涎を拭った。
「“新士”としての問題だと考えても、今すぐどうこうって事でもなさそうだわ。だから全ては、この娘が起きてからね」
「じゃあ、起こします?」
「いえ、寝かしといてあげましょう。酷く苦しんでいたのは事実なんだから。だから、と言うのも変だけど……」
表情を引き締めた好野が、一同をぐるりと見回す。
「これからの事で私に一つ提案があるんだけど、聞いてもらえる?」
「勿論、大歓迎ですよ」
繚奈が即答した。それに続くように、残る面々も大きく頷いてみせる。
願ってもない事だった。現段階では不明な点があまりにも多すぎ、動き方がまるで分からない状態なのだから。
どんなものであれ道筋を示してくれるのであれば、実に助かるというものだ。
「ありがとう。それじゃあ話すわね。正直、空振りの可能性も高いんだけど、貴方達はある場所を調べてもらいたいのよ」
「ある場所?」
「ええ。より正確に言うなら、ある一定範囲かしらね」
「どこなんですか、それ?」
雄一が訊ねると、好野は小型端末を取り出して起動させ、マップらしきものを見せる。
そこから更に操作をし、マップの一部分を赤く染め上げた。
「ここは……?」
「先日、繚奈ちゃんが調査に行った剣輪町付近山中の湖。そして此処、刀廻町を結んだ直線上で、生活圏外に位置する地点。結構な雑木林が広がっているみたいね」
「なんだってそんな所を?」
戸惑った様子の繚奈の問い、「つまり」と前置きをして好野は答える。
「こんな短期間で比較的近い二つの地点に、同種と思われる“新獣”が現れた。となればこれらの発生源、とでも言えばいいのかしらね。要するにあの“新獣”に関連する何かがあるんじゃないかって思ったの。そして、その可能性が高いのが、この地点ってこと。根拠としては、今一つ弱いけど」」
「そういう事ですか。でも確かにこの辺りは今まで行ったことがないし、ラボとかの類があっても不思議じゃないですね。前例もあるし」
「そうね。他にやることもないし、行くだけいってみましょうか」
「異議なし。そうと決まれば善は急げよ。早く出発しましょ」」
行動したくてウズウズしていた水音が、弾んだ声を上げる。それに反論する気は、雄一にも繚奈にもなかった。
たとえ空振りであろうとも、此処でジッと待っているだけよりはマシだ。
「よし、それなら早速向かうとするか」
「賛成。じゃあ光美、双慈。雷華の事、お願いね」
「分かったわ」
「ええ? また僕、留守番なの?」
二つ返事の光美に対して、双慈は不満を露わにしながらボヤく。
「仕方ないでしょ。貴方まで行ったら誰が雷華の面倒見るの?」
「う、それは……」
「ゴメンね、双慈君。雷華ちゃんが起きたら私、色々と調べたい事があるから。どうしても貴方には此処にいてもらいたいの」
「っ……わかったよ。此処にいる」
繚奈に加えて好野が手を合わせて頼んできたとくれば、双慈にもう勝ち目はない。
渋々承諾した彼は、三人を見送るべく気怠そうに手を振った。
「頑張ってね雄兄、繚姉、水音さん。出来れば早く帰ってきてほしいけど、無理や無茶はしなくていいからね」
目的地へは、思ったよりも楽な道中だった。
生活圏外とはいえ前人未踏の地というわけではないし、ましてや異界というわけでもない。
距離にしても飛行能力を持つ雄一なら、余裕で往復できる程に近い。尤も繚奈と水音が一緒にいるのでそれは不可能なのだが、それでも数時間と掛からぬうちに三人は付近まで辿りついていた。
「この辺だよな。雑木林になってきたし」
好野が作成したマップを端末で確認しながら雄一が呟くと、繚奈が額の汗を拭いながら言った。
「今のところ、特に妙な点はないわね。“邪龍”も何も感じないって言ってるし。そっちは?」
「こっちも同じ。何にも感じないってよ。……あ、水音さんの方はどうです? えっと……」
前に自己紹介してもらったにもかかわらず、水音と進化している神の名前をド忘れてしまった雄一は言い淀む。
水音はそんな彼に呆れ交じりの笑みをうけながら、軽く首を横に振った。
「残念だけど、こっちも貴方達と同じ。穿蝎も特に気づいた事はないみたい。……空振りかもね、これは」
「それならそれでいいんですけどね。まっ、とにかく調べるだけは調べてみましょう。じゃあこの辺りで三手に分かれて……」
雄一がそう言いかけた時だった。突然三人の前方から、凄まじい衝撃音が轟く。
ハッとして音の方へと振り返った三人の眼に、雑木林の中から何かが高速で空へと舞い上がり、雲の中へと消えていく光景が飛び込んできた。
ほんの一瞬の出来事であったため、その“何か”の正体は分からない。だが、放っておけるものではない事は確かだ。
刹那の時、雄一は“何か”を追いかけるか、それとも“何か”が飛び出していった雑木林に向かうか迷う。
効率を考えれば、繚奈と水音に雑木林の方を任せて、自分はあの“何か”を追いかけるのがベストだろう。
しかし自分達は勿論の事、神達でさえ気配を感じなかった存在と不用意に接触するのは得策とは思えない。
――深追いするのは危険だし、ここは一先ず放っておくか。
そう結論付けた雄一は、呆然としている二人を我に返らせるように声を張り上げた。
「急いで行ってみようぜ! あそこには絶対なにかある!」
「あ、え、ええ!」
「り、了解!」
慌てたように気を取り直した繚奈と水音が、そろって頷いてみせる。それを確認した後、雄一を先頭に三人は雑木林の中を駆けていった。
「! これは……」
「ビンゴ……だったみたいね」
「っ、もう少し早く着いてたら完璧だったようだけど」
数分の間雑木林の中を駆け抜けた三人は、やがて少しひらけた場所に出た。
そこには元は研究所と思わしき廃墟があった。しかも様子からして廃墟となったのはごく最近、というよりもほんの少し前だろう。
つまり、先程の“何か”の仕業と判断するのが自然だった。同時に好野の案が正しかった事の証明でもあった。
水音の言葉通り、後わずかでも早ければ面倒事は起こらなかったかもしれない。しかし、今更そんな事を言っても仕方がない。
「とにかく調べてみよう。何か手掛かりがあるかもしれない」
「分かったわ。でも相変わらず“邪龍”は何も感じないって言ってるし、“神”に関係する事ではなさそうだけど」
「まっ、調べたら分かるでしょ。行こ行こ」
どこか楽しそうな様子で、水音が廃墟の中へと入っていく。まるで好奇心旺盛な子供の様な彼女に呆気に取られながらも、雄一と繚奈は後に続いた。
外観から判断した通りこの廃墟は研究所だったらしく、多くの本棚や散らばった資料の残骸、そしていくつもの破壊されたコンピューターがある。
ただ、人の気配はまるでない。この様子からして生きた人間がいるとは思っていなかったが、死体の一つも転がっていないところからして、元々無人だったのかもしれない。
しかしそうなると手掛かりの期待も、あまり無いと思った方がよいだろう。
(二年前を思い出すな……)
雄一はボンヤリとそう思いながら彼方此方を調べるが、特にこれといったものは見つからない。
チラリと繚奈の方を見やると、向こうも同じようなものだった。念入りに様々なところを調べながら、時折落胆の溜息をついている。
そして水音はというと、さっさと一人で奥へと行ってしまったようで既に姿が見えない。敵の気配がまるで感じられないので、別段心配する必要はなさそうだが。
(とりあえず手当たり次第に調べるか。それしかないよな)
半ば諦め気味に雄一が心の中で呟いた時だった。
「い、いやあああっっっ!!」
「っ!?」
耳を劈くような悲鳴が、奥の方から聞こえてくる。声からしておそらく水音なのだろうが、それ故に驚きが大きかった。
まだ出会って然程経っていないが、彼女がこのような悲鳴を上げる光景が想像できない。一体、何があったと言うのだろう。
呆然としながら雄一が繚奈を見やると、彼女も口を半開きにしてこちらを見つめてくる。そのまま暫くの硬直を経て、二人はどちらともなく廃墟の奥へと駆け出して行った。
そこはどうやら、この廃墟でも重要な箇所だったらしい。
大型のモニターに加えてカプセル型の装置の残骸が散乱していた。そして、それらから剝き出しに内部から回線が火花を出している事からして、破壊されてから間もなくだろう。
その中心で、二人の人間が倒れている。そしてその内の一人の身体を揺さぶりつつ、水音が泣き叫んでいた。
「なんで!? なんでよ!? どうして!? どうしてよ!?」
「み、水音さん!? その人は一体……?」
戸惑いつつ繚奈が訊ねるが、まるで聞こえていないらしく水音は絶叫するばかりだ。
慌てて雄一が駆け寄り、彼女が抱きかかえている人物を見やる。
外見から判断するに、凡そ三十代の男性だ。明らかにサイズの合っていない眼鏡が、妙に印象に残る。
だが頭から大量の血を流し、微動だにしない様子からして既に息は無いだろう。
(知り合いなのか? まあ、今は訊くだけ無駄か。こっちは……)
水音に声を掛けるのを諦め、雄一は倒れているもう一人を確認する。
こちらは幾分か年をとった顔つきだ。推測するに五十代の男性だろうか。
しかしこちらもまた、既に息絶えている事は明白だった。左胸に大穴が空いていて、生きていられる人間はいない。
そしてその亡骸から、死因が穏やかなものではない事も容易に想像できた。
(やっぱり、さっきの“あれ”と考えるのが自然だよな。とにかく色々と報告して、調査してもらわないと)
雄一はそう判断すると繚奈に歩み寄り、小声で囁く。
「悪い繚奈、暫く水音さんを見ててくれ。時間が経てば……少しは落ち着くだろうから」
「貴方は?」
「好野さんに連絡してくる。本格的な調査を行う必要があるからな。此処といい、さっきの“あれ”といい、な」
「……了解」
頷いた繚奈に短く礼を言った後、雄一はその場を後にした。流石に未だ泣き叫んでいる水音のすぐそばで、通信をするのは躊躇われる。
〔なんだか大変な事になってきな〕
不意に”神龍“が声を掛けてきた。言葉だけをとれば独り言のようにも聞こえるが、そうでないことは長年の付き合いで分かる。
「ああ……ところで疑ってるわけじゃないが、本当に何も感じてないんだよな?」
〔面目ないが、全くだ。イリシレで見たあの生物の時といい、今回はどうにも役に立ててなくて悪い〕
「気にすんなって。いつも役に立ってるんだ。こういう時だってある」
珍しく殊勝な態度を見せた相棒にそう言うと、雄一は端末を取り出して好野に連絡を取った。