第十五章〜嵐の前の逢引〜
――――東歴2002年??月??日。
その者は、ただ歩いていた。痛さを覚える程に冷たい風が吹き抜ける、一面の雪景色の中を。
格好はこの場に酷く不似合いな物。ありふれたデニムパンツに、上は半袖の黒いシャツ一枚。見るからに寒い、否凍えてしまいそうな格好である。
それにも拘わらず、その者はまるで寒さに堪えている様子は無い。無表情でボンヤリと、それでいて足取りだけはしっかりとしながら、ひたすらに歩き続けていた。
やがてその者は、ある場所へと辿り着く。雪を積もらせた木々が覆い茂る森林地帯。その中にあった小さな廃墟に、その者は導かれるように足を進めた。
そこで見つけたのは、地下へと続く階段。その者は躊躇いなくその階段を下りていき、何かの研究所跡らしき場所へと出る。
瓦礫の山の合間を通り抜け、一つの巨大な装置の前まで来たところで、その者はようやく足を止めた。
そして装置を見上げると、徐に片手を伸ばす。その仕草は一見、求めていたものを探し当てたように思える。だが、次にその者の口から零れたのは失望の言葉。
「……やはり……いない……」
その者は伸ばしていた手を戻し、静かに項垂れる。そのまま幾許かの時間が流れ、やがてその者は再び口を開いた。
「今、何処に?……いつ、会える?……姉上…………」
――――東歴2002年11月3日午前十時。
「……っきし! ジワジワと寒くなってきたな。もうじき秋も終わりか……」
部屋の窓を開けた雄一は、途端に吹き抜けてきた冷たい風にクシャミをしながら独り言を呟く。そんな彼の視線の先には、雲一つない晴天の空が広がっていた。
それは眺めているだけで清々しくなる景色だったが、今の自分の近況との落差に虚しさを覚えるのも否定できない。不意にそんな事を考えた彼は、大きな溜息をついた。
「はあ、あれから全然進展無しだからなあ……早く終わらせたいもんだ」
〔同感だな……しかし、面目ないことこの上ないぜ。全然役に立ててないからな、今回……悪い、雄一〕
珍しく落ち込み気味の“神龍”に「気にすんなって」と返しながら、雄一は今回の一件の異例さを改めて認識する。
“ペリュトン”の新士、あるいは新獣の行方を捜すという事になってから、既に二週間近くが経過していた。
しかし、依然として手掛かりらしきものは一向に見つからず、日数だけが過ぎていくばかりである。
戦うわけでも調査に赴くわけでもなく、ただ待機しているだけの状態がこれほど続く今の状態は、これまでに経験したことのない状態だった。
これまでは数日の間に神連の捜査網に引っかる事が大半だったし、そうでなくても相棒の“神龍”が何らかの気配を感知して行動に移ることが出来ていた。
だが今回は“神龍”の力がまるで機能せず、好野のデータ解析の方も遅々として進んでいない。鬱屈した気持ちを抱えたまま日常を送るのは、思った以上に苦痛を伴うものであった。
「このまま何も進まずに冬になって、そのまま年越し、なんて事だけは避けたいよな。こんな気持ちで正月を迎えたくないし」
〔いや、流石にそれまでには……とも言い切れないか。全てはお前の母親にかかってるからな〕
「……ああ」
殆ど不眠不休で解析を行っている好野の姿を思い浮かべながら、雄一は低い声で頷く。
息子として彼女に何もしてあげられない事への不甲斐なさが募り、嫌な気分になりかけた彼は、それを振り払うかのように頭を振った。
その時、来客を告げるベルの音が階下から聞こえてくる。途端、雄一はハッとして焦った声を出した。
「やっべ、もう時間だったか!……はいはい、今開けるから!」
慌てて窓を閉めて部屋を飛び出した彼は、二段飛ばしで階段を駆け下りて玄関へと急ぐ。その最中、からかい交じりに“神龍”が声をかけてきた。
〔それじゃあ俺は、暫く離れてるよ。ゆっくりしてくれ〕
(ああ、すまない。そっちものんびりしてな)
雄一が心の中でそう返事した直後、感じ慣れた“神龍”が己から離れていく感覚が襲う。
それに対して軽く息を整えたところで彼は玄関に辿り着く。そして扉を開けると、やや緊張気味の光美が姿を見せた。
「ゆ、ゆういっちゃん、お、おはよう!……あ、こ、こんにちは、かな?」
「え? ああ……まあ、まだおはようかな。おはよう、光美ちゃん。じゃ、上がって」
「う、うん。そ、それじゃ、お邪魔します」
丁寧に頭を下げた後、光美はおずおずと靴を脱いで家の中に上がる。そんな彼女をリビングへと案内しながら、雄一は苦笑してみせた。
「そんなに緊張しなくてもいいじゃん。前の家の時は、何回も来てただろ?」
「そ、それはそうだけど……ゆういっちゃんの方から『家に来なよ』って言われたの初めてだし……」
「……そうだっけ?」
「そうよ! 子供の頃のゆういっちゃん、いっつも家の中で遊んでるか昼寝してるかで、全然外で遊ばなかったじゃん。だから私が、いつも誘いに来てたんだから」
「ああ、言われてみれば……そうだったかも」
幼少時の曖昧な記憶を辿ってみると、光美の言う通りかもしれなかった。確かに一緒に遊ぶ時は、常に彼女がこちらの家に来訪していた気がする。
その事に気づくと、妙な緊張が高まっていくのを雄一は感じる。それを誤魔化すかのように、彼は大仰な咳払いをしつつ光美をリビングに招いた。
次の休日に二人で過ごそうと雄一が光美に提案したのは、今月に入ってからの事である。そしてそれは、彼自身の為でもあり、彼女を思っての事でもあった。
動こうにも動けない状況が続く中、雄一自身どうしてもストレスが溜まっていくのは避けられなかった。
勿論それを無遠慮に曝け出して周りに迷惑をかけるような彼ではなく、しっかり自制し続けてきてはいた。
だが、それでも内に閉じ込めた負の感情を完全に隠しきる事は出来ず、それを敏感に察した光美に心配をかける結果となってしまっていた。
決して深入りはしてこないものの常に気遣う様子で寄り添ってくる彼女に、雄一は居た堪れない気持ちにならざるを得なかった。その解決策が今回の、所謂デートというわけである。
とはいえ、状況が状況なので何処かに遊ぶというのも具合が悪い。ならばと彼が思い至ったのが、自宅へ彼女を招くという事であったのだ。
「そういや光美ちゃん、もう大学も終わりが近づいてきてるけど、単位の方は大丈夫?」
光美にお茶を差し出しながら雄一が訊ねると、彼女は苦笑しながらそのお茶を受け取った。
「もう、当たり前でしょ。大学四年のこの時期で単位足りてなかったら大問題なんだから」
「あ〜〜そういうもんだっけ? 良く分かんなくてな、そのあたり」
雄一が小首を傾げながら呟くように言うと、お茶を飲み終えた光美はクスクスと笑みを零す。
「じゃあもしかしてゆういっちゃん、まだ単位足りてないの?」
「いや、確かもう大丈夫だった……はず。まあ別に俺は、卒業できなくても構わないんだけどな。就職活動だってしてないし」
普通の学生である光美と違い、雄一が大学に通っていたのはあくまで体裁のためである。
“神士”という世間一般に堂々と公表出来ない身分であるがゆえ、“学生”という肩書があった方が日常生活で便利なのだ。
それは同じ理由で高校にも通っていた以上、身を持って知っている。別段世間体をそこまで気にしているわけではないが、面倒事を回避するには目立たないに越したことはないのである。
「っ……そっか。ゆういっちゃんはもう、進路が決まってるみたいなものだもんね。じゃあ来年の春からは神士としての活動に専念するの?」
「ううん、今まで殆ど変わらないさ。普段はゲーセンの店員やって、事が起これば神士として動く」
「あ、そうなんだ」
「で、そういう光美ちゃんは?」
「え? 私?」
「ああ。俺と違って就職活動してるんだろ? もう決まったのかい?」
雄一が訊ねると、光美は少し渋い顔になり目線を手にしていたお茶へと落とす。それを見て、彼は一瞬自身の発言を後悔した。
就職活動というものが如何に過酷かという事は、仮にも大学に通っている手前、すれ違う学生達の会話や雰囲気から大体察せられる。
だが、それでも彼女なら平気だろうと根拠もなく考えていたが故の発言だったのだが、辛い現実を突きつける形になってしまっただろうか。
慌てて雄一は何か謝罪の言葉を口にしようと身を乗り出しかけたが、それよりも早くに光美がか細い声で呟いた。
「うん。一応、決まってる」
「え、あ、そ、そうなんだ。おめでとう」
「ありがとう……っ……」
「光美ちゃん? どうした?」
浮かない表情の彼女に、雄一は怪訝に思いながら訊ねる。就職が決まっているというめでたい事なのだから、暗くなる理由はない筈なのだが。
「あ……ううん。ねえ、ゆういっちゃん?」
「うん?」
「その……私の進路って気になる?」
「……へ?」
「だから……私の就職先、知りたい?」
光美はそう言いながら、何処か怯えたような瞳を向けてくる。それに対して雄一は、返答に困ってしまった。
彼女の進路を知りたいかと言われれば、その通りだ。しかし、こんな風に訊ねられては、素直にそう答えていいものか迷ってしまうというものである。
「あ……えっと……その……」
言葉に詰まり、雄一は落ち着かない気持ちで光美の顔を見る。すると暫くして彼女が、明らかに作り笑いと分かる表情を浮かべながら手を横に振った。
「ご、ごめん! 今の無し! 忘れて! その……卒業が近づいてきたら、ちゃんと言うから! だから今は気にしないで!」
「あ、ああ、うん、了解」
釈然としない気持ちながらも、雄一は光美の言う通りこの話題を止める事にした。だが、ふとある事を思い浮かんだ彼は、それを彼女に告げようと口を開く。
「……あのさ、光美ちゃん」
「ん? 何?」
「その……さ」
急に気恥ずかしさが込み上げてきたが、彼はそれを押し殺して言葉を続ける。
「まあ、約束……なんて大仰なもんでもないが、これは言える。光美ちゃんの進路が何であれ、俺達の関係が変わることは無いさ。……光美ちゃんが嫌にならない限りは」
「……っ……」
「だから、えっと……あんまり思い悩む事……うわっ?」
光美が突然こちらの胸に顔を押し付けてきたことに、雄一は驚きの声を上げる。だが光美を引き剝がしたりはせず、暫しの間を置いてからそっと彼女に声を掛けた。
「光美ちゃん?」
「……ありがとう、ゆういっちゃん」
「急にどうしたの?」
「ごめん……訊かないでほしいな……ダメ?」
「っ……いや……分かったよ」
雄一は苦笑すると、光美が彼の両腕に手を添えてくる。そのままぎこちなく指に力が込められ、握られた袖に皺が出来た。
そして彼女は徐に顔を上げる。その両の瞳が僅かに滲んでいるように、雄一には見えた。だが、悲しんでいるわけではない。彼は何故だかそう確信できた。
二人は至近距離で互いに見つめあう。周りの音が止まり、静寂が訪れたような感覚に陥る。
不思議と動揺はしなかった。感じるのは戸惑いと、このまま時が止まればという淡い願望。それとは裏腹に、何かが進むべきだと告げている気がした。
――――……一体、何が?
「……ゆういっちゃん」
自問する雄一の眼前で、光美が小さく唇を動かし彼の名を呼ぶ。そして眼を伏せ、微かに唇を突き出し、また眼を開けて彼を見た。
雄一は驚いた。彼女がこんな風に求めてくるなんて、想像もしていなかったからだ。
もう一度彼は、まじまじと光美の顔を見つめる。その美しい顔には、随分と薄くなったものの自分が刻んでしまった傷跡がまだ残っていた。
彼は無意識の内に、この傷が完全に消えるまでは、と思い続けていた。それが自分に課せられた、贖罪の一つだと。
――――だがもう、そう思うのは止める時なのではないだろうか。彼女が求めてきてくれている、そして自分もそれに応えたい。それで十分ではないだろうか。
雄一が身を乗り出すと、光美がそれに合わせるように再び眼を閉じる。そのまま彼女の期待に応えようと思った雄一だが、その前にしたい事があった。
彼女の唇の隣にある、細く長い傷筋に彼はそっと唇を触れさせる。すると彼女はくすぐったそうに眼を細め、虚を突かれた様子で眼を開ける。
そんな彼女の表情を見届けた後、彼は今度こそ唇の己のそれを合わせた。
刹那、光美が身体を強張らせたのが伝わってくる。それとは裏腹に、彼女の唇は柔らかかった。今までに感じたことのない、幸福を纏った柔らかさがそこにあった。
雄一の両袖を掴んでいた光美の腕が、やがて背中に回される。合わせて彼も同じように、彼女の背中に両手を回す。
と、その時だった。二人の世界を盛大に破壊するようなけたたましい電子音が突如として鳴り響き、雄一と繚奈は同時に悲鳴を上げて身体を離した。
「うわああっ!?」
「きゃああっ!?」
同時に尻餅をつき、顔を紅潮させて荒い息をつく二人の間に、尚も電子音は鳴り続ける。
それが聞き慣れた神連からの緊急連絡の音だと理解するのに、雄一は随分と時間をかけてしまった。
「ご、ごめん光美ちゃん! ち、ちょっと出るね!」
激しく波打つ心臓を懸命に抑えつつ、雄一は端末を開く。するとやや興奮気味の好野の声が彼の耳を打った。
『雄一! 聞こえる?』
「は、はい! 聞こえます!」
『?……雄一、声が何だか変だけど、何かあった?』
「え!? あ、いや……き、気のせいですよ! そそ、それより緊急連絡って事は、例の件で何か分かったんですか?」
『あ、そうなのよ! ようやくこちらから動ける時が来たわ。詳しく話したいから神連まで来てもらえる?』
「は、はい! すぐ行きます! じゃあ!」
通話を終えた雄一はあたふたと出かける準備をしながら、未だ放心状態の光美にたどたどしく言った。
「光美ちゃん。お、俺ちょっと行ってくるから! えっと……帰ってくるまで好きにしてくれていいから!」
「う、うん……行ってらっしゃい」
そんな光美に見送られながら、雄一は逃げるように自宅へと飛び出す。途端に吹き抜けてきた冷たい風を全身で受けると、ようやく彼は落ち着きを取り戻してきた。
「なんだかなあ……初めてがあんなんじゃあ……本当にタイミングが悪いったらありゃしない……」
思わずボヤく雄一だったが、すぐに気持ちを切り替え、神士の顔つきになる。そして心の中で相棒である“神龍”に呼びかけながら、神連への道を急いだ。