〜第十二章〜喜びの因、嘆きの果〜
……。
…………。
――――東暦1978年2月25日午後11時。
「……っと。ふう、少し休憩休憩」
カタカタとキーボードを叩いていた手を止め、好野はいつの間にか額に滲んでいた汗を拭う。
そして何の気なしに時計に眼をやると、自分が改めて随分と長い間、作業に没頭していた事を理解した。
「やだ、もうこんな時間?……あ〜〜あ、今日はここに泊まりか」
いかにも残念そうな口調とは裏腹に、彼女の表情はそれ程曇ってはいない。それもその筈、こんな事はもう慣れっこだからだ。
この小さな研究所に勤める様になって、早二年。好野は寝食が疎かになる程、ここでの研究に没頭する毎日を送っている。
――――眼には見えない『神』という存在。そして、その『神』の力を行使できる『神士』という存在。
初めは到底信じられないものであったが、ここにある書物やデータを読み漁っていく内に、いつしかそれらの魅力に取り付かれていった。
元々好野は、神話に関する文学を大学の講義や図書館で学ぶ程、『神』というものに興味を持ってはいたのである。
ただ、それらは単なる想像の産物でしかないと思っていた。そして、同時にそう思うしかない現実に辟易もしていた。
――――もし、この世界に神がいたとしたら、人間とどんな繋がりがあるのか?……どんな風に生きているのか?
心の奥底で密かに考え続けていた事が、今は好きなだけ調べられ、更には研究する事出来る。
好きな事を好きなだけする事が許される。それがどれだけ幸福で、どれだけ充実感を得られるものか、彼女は強く噛み締めていた。
「……まだ残ってたのかい? 本当、君は熱心だなあ」
「あ、先生」
柔らかな物言いと入室してきたこの研究所の主に、好野はクルリと振り返る。
すると先生と呼ばれた男性は苦笑を浮かべながら口元に手をやり、彼女に近づいた。
「武真君。先生はよしてくれって言っただろ?」
「で、ですが、先生は『神』や『神士』についての素晴らしい論文やデータをいくつも作成していますし…………この前も確か、発表した論文が
大きな反響を呼んでたじゃないですか。それ程の人を先生と呼ぶのは、然程不自然じゃないと思いますけど」
「ははは、まあ過大評価されるのは悪くないけどね……」
彼は相変わらず苦笑いをしたまま好野の隣にある机に向かうと、コンピューターの電源を入れつつ頭を掻いた。
「まだまだ僕は、そんな風に呼ばれる者じゃないよ。あの論文にしたって、単に詳しい考察をしていたから注目を浴びただけさ。
それに……『神』や『神士』についての研究は、公になっていないから厳密には分からないけれど、始まってから月日が浅い。
だから研究者は上も下もなく、皆平等かつ一丸となって研究していかなければならないと僕は思うんだ」
言いつつ彼は、片手でプログラムを立ち上げて好野に視線を向ける。
「…………」
その眼が言わんとしている事を察した彼女は、暫しの沈黙を置いた後、徐に口を開いた。
「はい、それは私も同意見です。でも……でも私にとって、先生は先生です。やっぱり、そう呼ばせて頂くのが礼儀だと思います」
「ふうっ…………強情だな、君は」
疲れた様な表情で嘆息した彼に、好野は慌てて謝罪する。
「す、すいません! あ、あの、その……本当に嫌なのでしたら、直し……」
「……いや、いいよ。好きな風に呼んでくれて」
「あ……は、はい! 先生!!」
嬉しさで紅潮した顔でそう言った好野に、彼は微笑を浮かべながら頷き、そして言った。
「さて、それじゃ僕も、もう少し頑張ろうかな。一日でも早く『神士』を日陰の存在ではなくする為に、ね」
「はい!!」
……。
…………。
――――東暦2000年7月3日午後4時30分。
「……うっ……」
後頭部に焼け付くような暑さを感じ、公園のベンチで眠りについていた好野は強制的に意識を覚醒させる。
全身には不快な汗が滲み、頭は夏の日差しを浴び続けていたせいかクラクラする。
腰掛けているベンチも熱した鉄板の如き温度を保っており、まさに灼熱地獄といった感じだ。
こんな環境でよくもまあ眠っていられたものだと、好野は我ながら不思議がる。
汗を拭いつつベンチから立ち上がり腕時計に眼をやると、ここにやってきた時から二時間も経っていた。
「暑……そろそろ神連に戻らないと。にしても、少し休むだけのつもりだったのに」
好野はそう呟きながら、先程見ていた夢の内容を思い返す。
――――もう二十年以上も前の頃の記憶。ただただ希望に溢れ、研究に打ち込み、そんな自分の環境に幸せを感じていた頃の記憶。
夢に見たのは初めての事であったが、こうして振り返って見れば何と輝かしいものだろうか。
あの頃の自分が『神』についての研究に向けていた情熱は、半ば使命感を帯びていたと言ってもいいくらいだった。
『神』と『人間』――これらの関係がもっと多くの人々に知られる様に。お互いが、お互いの繁栄への架け橋になる様に。
『神士』が異端の存在ではなく、自然と社会にとけこめる様に。普通の人々、何ら変わりなく生きてゆける様に。
そう思い、信じ、願って続けた研究……それが今の自分に、どんな形で残っているかを考えた好野は、思わず胸元を握り締めた。
「……雄一……」
おのずと口から零れた名前が、更に彼女の胸をしめつける。
――…………生!……んな………どうし…………子を…………!!
――何を…………野君……こそ……求め…………傑作じゃないか!
「っ……!」
途端、好野は凄まじい胸の痛みと吐き気に襲われた。
ヨロヨロとしながら近くのトイレに駆け込み、洗面所で喉元まで迫っていた不快物を洗い流す。
「……はあっ……はあっ……はあっ……」
暫くしてようやく落ち着いた彼女は荒く息をつき、熱さとは違う物が原因で浮かんでいた額の汗を手の甲で拭った。
久しぶりに来たと、好野は思う。ある時から、自分は幾度と無くこの痛みと吐き気に襲われてきた。
恐らくそれは、死ぬまで解放されぬであろう物。否、死ぬまで抱えなければならない物。
どれ程嘆こうとも、どれ程疎んじても決して消えはしない物。そう理解し、今まで背負い続けてきた物。――しかし……。
(こんなのは……何の償いにもならない……)
流した水が作り出した鏡に映る自分を、彼女はやりきれない思いで見つめる。
どれだけ己を責めたとしても、それで罪が軽くなる訳でも、ましてや消える訳でもない。
単純明快で、永久不変の真理。されども、それ以外で贖罪の仕方を見つけるというのは、簡単と言えるものではなかった。
――――どう償えばいい?……どうしたら……?
――――やはり………無いのか?………自らが傷つき、苦しみ以外には……?
「……っ……」
「……あの?」
「えっ?」
水面に居る自分と対話をしていた時、ふと好野は後ろから声を掛けられた。
それに驚いて振り返った彼女の眼に、左頬に無残な傷をつけ、少女の色を残した女性の姿が映る。
(!……この娘……)
――――何処か見覚えのある顔……聞き覚えのある声……嫌でも眼につく左頬の傷。
彼女が誰であるのかを一瞬で察した好野の口から、無意識に言葉が漏れた。
「光美ちゃん……?」
「え?」
キョトンと表情で眼を瞬かせる女性を見て、好野は己の失言を後悔し、口を手で覆う。
――――会うべきではない……会わない様にと願っていた、かつての少女である女性。
彼女もまた、自分が招いた悲劇に運命を狂わされてしまった一人なのだ。――――そう、彼と同じく心に深い傷を負わす事になってしまった……。
「あの……小母さん、何処かでお会いしました? どうして……私の名前を?」
「え、いや……」
小首を傾げながら尋ねてくる光美を直視出来ず、好野は彼女から眼を逸らしつつ言葉を濁す。
どうやら向こうは、自分の事をすっかり忘れているようだ。
無理も無い。面識があるといっても、自分と彼女が顔を合わせたのは数える程だ。余程の事が無い限り、覚えている方が普通でないだろう。
好野からすれば、そんな『余程の事』があったからこそ光美を覚えていたのであるが。
「……ごめんなさい、気にしないで。知り合いが、貴方に似ていたものだから」
「そうですか……でも、大丈夫ですか? 何か、顔色が悪いですけど?」
「っ、大丈夫よ。少し気分が悪かっただけだから。……それじゃ」
「あ、はい……さようなら」
戸惑いながら別れの挨拶を返した光美に軽く手を振り、好野はその場を後にした。
――――……何かから逃げる様に、自然と速くなる足と共に。
慣れた足取りで神連へと歩きながら、好野はボンヤリとそんな事を思う。
(光美ちゃん、綺麗になってたわね……でも、あの娘の傷……まだ消えていなかったなんて……)
――――九年前に、雄一が彼女につけた……つけてしまったという頬の刀傷。
女性の顔にある物としては、余りにも見るに耐えない物だ。それが九年経った今でも、あんなに鮮明に残っているとは……。
と、そこまで考えた好野の頭に、ふとした疑問が浮かぶ。
(でも、妙ね。いくら『龍蒼丸』でつけられた傷とはいえ、あの時の雄一の力からして、そこまで深い傷じゃなかったと思うけど……
何にせよ、雄一があれほど錯乱してたのも無理ないわね……酷い物だったわ)
重い気持ちで嘆息し、好野はあの時の息子の様子を思い出す。
元々そこまで明るい性格でもなかった雄一だったが、あの事件の後は何かに憑かれた様に暗い雰囲気を漂わせていた。
度々胸を押さえては苦しい表情をし、寝食も十分にとらず、ただ只管に『神士』としての活動に没頭する……その繰り返しだった。
――――……全てとは言えないが、ある部分では自分が望んでいた姿だったかもしれない。
そんな考えが浮かんだ瞬間、好野は自分に対して、凄まじい嫌悪感を抱いた。
(っ、何を考えてるのかしら、私は……愚かにも程があるわ)
――――……そう、愚かだったのだ。あの頃の自分は………。
またしても後悔の念が押し寄せ、好野は強く唇を噛み締める。
幼い頃から『神士』として活動していた雄一。その背景には、彼女の願い……そして恐怖がちらついていた。
未だ告げてはいないが、余りにも過酷な『業』を雄一は背負っている。下手に告げれば、その重さに耐えかねて押し潰されてしまう程に深き『業』を。
それを背負わせている元凶である好野に出来たのは、雄一を心身共に鍛えさせ、業に押しつぶされないだけの器を持たさせる事だけだった。
だからこそ、彼女は彼に『神連からの指令』と言う名目で修行をさせていた。『神士』としての幾多の戦い。それを通じて、強くなってくれる事を願って。
無論、それは雄一の身を案じての事ではある。しかしそれ以上に、好野自身の為でもあった。
(もし『業』の事を口にすれば……きっとあの子は私を憎むでしょうね)
それ自体は、何の苦でもない。どれだけ雄一に憎まれ、よしんば危害を加えられたとしても構わない。
だが、その憎しみが原因で、彼が彼自身を憎む事だけは避けたかった。
――――彼が己を呪い、自暴自棄になってしまうのは……そんな彼を、自分が見なければならない事になるのは……。
もしそうなれば、自分は嫌でも自身の犯した過ちと向き合わなければならない。それが好野には、とても怖かったのだ。
しかし結果として、自分がそんな考えだったからこそ、あの悲劇が生まれたのかも知らない。
――――無理して作り上げようとしていた器に、大きなヒビを入れてしまった、あの悲劇。九年前の、深夜の悲劇を。
(…………光美ちゃん)
大切な人を、自らの手で傷つけてしまった雄一。その傷が未だ癒えぬ彼に『業』を背負わせる事など、好野には到底出来なかった。
原因が自分にあるというのなら尚更だ。そこまで考え、三度自己嫌悪に陥りかけた好野に、ふと後ろから慌しい足音が近づいてくる。
「……?」
それに対して振り返ろうとするよりも早く、彼女の耳に先程の声が聞こえてきた。
「すいません! 待ってください!!」
「っ!」
――――光美だった。
何やら思い詰めた表情で駆け寄ってくる彼女を見て、好野は今すぐ逃げ去りたい衝動に駆られる。
まさかと思い、浮かんだ考えを頭の中で処理するよりも先に、自分の近くまで駆け寄ってきた光美が、息を切らせながら口を開いた。
「はあっ……はあっ……あ、あの! もしかして、小母さん……けほっ……よ、好野さんじゃ……?」
「っ!」
反射的に好野は息を呑む。
当たりたくも無い予想は当たった。自分が呟いた彼女の名前、それが光美の中にあった朧気な記憶を呼び覚ましてしまったらしい。
「!……やっぱり、そうなんですね! あの、私……好野さんに聞きたい事があるんです!」
「あ、え……っ………」
自分の反応を見て、確信を得た光美が詰め寄ってくる。それに対して上手く対応できるだけの余裕等、今の好野には無かった。
思う様に体が動かず、喋る事もままならずに狼狽する彼女に、光美は畳み掛けて質問を連発する。
「あの日……九年前のあの日、ゆういっちゃんは何であんな所にいたんですか!? 何で、何で引越ししちゃったんですか!?……後……
ゆういっちゃんは私に何を隠してるんですか!?」
「ひ、光美ちゃん……その……それは……」
当然その問いに答えられる筈もなく、好野はどうにかして光美を落ち着かせようとする。
……そして、その事だけに精一杯だった彼女は、自分達に近づく人影に全く気づかなかった。
――――次の瞬間、好野と光美の耳に獣の鳴き声の様な音が聞こえ、二人の意識は同時に途切れた。