第十三章〜幼き約束、今へと繋がる志〜
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…………。
――――東暦1986年8月15日午後0時。
「それじゃ雄一、この辺で遊んでてね。すぐに戻ってくるから」
「は〜〜い」
間延び返事と共に雄一が手を振ると、好野は満足そうに笑い車に乗り込む。
程なくしてエンジンがかかり、耳障りな音を立てて走り去っていく車を見送ると、彼は近くにあった石に腰掛けた。
「うわあ、涼しい!」
頬を撫でる穏やかな風、淀み無く流れ続ける水の音、それから感じる冷たさ。それらが何とも言えず心地よい。
木漏れ日の眩しさに眼を細めながら、雄一は両手を上げて大きく伸びをした。
「気持ちいいな〜〜。……だけどよしのさん、何で急にこんな所に連れてきたんだろう?」
出掛けるから支度する様に言われたのが一時間程前。そして連れてこられたのが、この渓流だ。
余りにも突然すぎる事に、子供ながら疑問を感じた雄一は好野に尋ねたが、彼女ははぐらかせるばかりで答えらしい答えは返ってこなかった。
納得がいかない彼ではあったが、ふと好野が出掛けていった理由を思い出すと、全ての意識はそちらに流れる。
「早く帰ってきて欲しいなあ、よしのさん。バーベキューやろうって言うのに、お肉忘れるなんて慌てんぼうなんだから」
――ねえねえ、よしのさん。ここで何をするの? ねえねえ?
――えっと……そうね、とりあえずお昼にしましょうか。雄一の大好きなバーベキューよ。
――本当!? やったあ!!……ってあれ? どうしたのよしのさん?
――いっけない! お肉を家に忘れてきた……ごめん雄一、すぐに取ってくるから、ここで待っててくれる?
先程の会話を思い返し、雄一の口から自然と呆れ気味の笑みが漏れる。
(普段はしっかりしてるけど、時々ドジなんだよね)
と、途端に雄一の腹の虫が盛大に空腹を告げた。
「う〜……お腹空いた」
時間を考えれば当然の事であるが、生憎と好野が戻ってくる気配はまだない。
このままずっと待っているのも苦痛だと感じた雄一は、腰掛けていた石から立ち上がると、靴を脱いで川に足を入れてみた。
途端、僅かな痛みを帯びた冷たさが感じられ、彼は思わず短く叫んだ。
「わっ、冷たい!!……夏なのに凄いな、この川」
童心ながらに自然の偉大さを感じた雄一は、そのままそっと川の浅い所を歩いてみる。
ゴツゴツとした砂利石が足に痛みを与えるが、彼はそれを苦に感じる事はなかった。なぜなら、それを感じさせない程に楽しい事があったからである。
「あ、小さい魚だ!……っと、これは確かザリガニ?……だったっけ?」
川の中に居る様々な生き物に興味を引かれ、雄一は水面をジッと眺めながら川の中を歩き回る。
「へえ〜〜色んなのがいるんだな。あっちには何がいるんだろう?」
表情を輝かせながら中腰で生き物を探す内に、いつしか彼は自分が空腹だった事も忘れていた。
更には時間の経過さえも忘れ、ひたすら小さな探索を続けていた雄一だったが、ふと何かの影によって視界が暗くなった事に動きを止める。
「あれ? 何だ……雲?」
眼を瞬かせ、彼はひょいと視線を上へと向けた。……そして一瞬の沈黙の後、これ以上ないくらいに眼を見開いて悲鳴を上げる。
「う……うわああああああっ!!??」
激しい水飛沫を上げて、雄一はその場に尻餅をつく。ジワジワとズボンに冷たい水が染み込んでくるが、それを不快に感じている余裕は無かった。
自分の視線の先――雲一つない青空に居る『それ』は、ただじっとこちらを見つめている。
「あ、あわわわわわ……」
――――青空とは似て非なる『蒼色』をした生物。
それが空想上の生物である『龍』だと雄一は知らなかったが、何か神々しい生き物だという事は理解できる。
自分を真っ直ぐに見ている二つの瞳から発せられる、鋭い眼光。雄一はそれに射抜かれた様に、龍から眼を離せないでいた。
〔……へえ〕
「ひっ!」
突然聞こえた声に、彼は竦み上がる。
いや、聞こえたというのは適切ではない。頭の中で声が再生されているかの様な不思議な感覚だった。
〔どうやら、俺の姿が見えている様だな。まだ、そこまで強く具現化していないのに見えているという事は……割と相性がいいという事か?〕
「ぐ、ぐげんか? あ、あいしょう?……な、何、それ?」
おっかなびっくりしつつ雄一が尋ねると、上空の『龍』は眼光を緩め、いきなり愉快そうな笑い声を上げる。
〔ははは、こりゃいいや! 俺の声もしっかり聞こえてるみたいだな。相性は申し分なしだ。随分と幼いのが気にはなるが……まっ、大丈夫だろ〕
「え?……えっ?」
何やら向こうが勝手に満足しているのを感じ取り、雄一は頭上に無数の?マークを浮かべながら首を傾げる。
まだよく分からないが、どうもこの生物は自分に危害を加える気はないらしい。というよりも、何か自分に話がある様な素振りだ。
いつしか雄一の中から未知の生物への恐怖心は薄れ、逆に少しばかりの好奇心が芽生え出す。
相手のいる青空に視線を固定したまま、彼はヨロヨロと尻餅をついていた川から立ち上がり、口を開いた。
「あ、あの……僕に……何、か?」
〔おっと。悪い悪い、置いてけぼりにしちまってたな。お前、名前は?〕
「え、あ……た、たけさねゆういち……です」
〔たけさねゆういち、ね……割と格好良い名前じゃないか。『神士』としても悪かねえ〕
「し、しんし……?」
またしても初めての言葉を耳にし、雄一は再度首を傾げる。
そんな彼を見て、上空の主は〔あ〜〜〕と面倒気な声を出した。
〔……色々と説明しなきゃなんないんだがな……お前はまだ幼いし、全部話しても到底理解できないだろうし……とりあえずだ、ゆういち、
俺と一緒に戦ってくれ〕
「えっ? た、戦う!?……な、何と?」
〔……そう尋ねたって事は、嫌ではないと思っていいのか?〕
「へ?……あ……その……」
先程までとは違い、厳かな口調でそう言う生物の眼は、最初の様に鋭い眼光を放っている。どうやら、何かの冗談といった訳でもない様だ。
しかし、だからといって戸惑いを隠しきる事は、雄一には出来なかった。
第一、突然戦ってくれと言われても、自分は極々普通の子供。そんな自分に、どうして戦え等と言うのだろうか?
困惑の色を全身に滲み出させながら、雄一は何も言う事が出来ずにたじろぎ、無意識に顔を俯かせる。
だが、次に聞こえた向こうの言葉に、ハッとして顔を上げた。
〔戸惑う、か。……当然だよな。大人でさえ、俺達『神』と『誓約』を交わし、『神化』して『神士』になるには大いに迷う。けどな、ゆういち、
俺はお前と一緒になって、戦わなきゃならないんだ。最近になって増えてきている、悪しき『神』や『神士』をどうにかする為にも。
いきなりで悪い事は十分理解している。だが……頼む!〕
「……っ……」
雄一は知れず息を呑む。
相変わらず自分の知らない言葉だらけで、あちらが何を言いたいのか殆ど分からなかったが、たった一つだけ理解できた事があった。
――この生き物は困っている……そして、僕に助けを求めているんだ。
『困った人には、力になってあげなさい』……常日頃から好野に言われている言葉が、彼の耳に蘇る。
今、自分と眼を合わせているのは人ではないが、それは些細な問題だろう。
『戦う』という言葉に不安や恐怖は尽きないが、自分が力になれるのであれば力になりたい。
そう思った雄一は、真っ向から頭上の生物を見返しつつ、小さく、しかし確かに頷きながら口を開いた。
「うん。まだ、よくは分からないけれど……僕で良かったら力を貸すよ。えっと……あ……と……?」
〔っ、ありがとよ。そういや、自己紹介してなかったな。俺の名前は『神龍』ってんだ〕
「し、しんりゅう?」
〔そうだ、神の龍で『神龍』ってね。まあお前には、まだ難しい言葉だろうがな。……じゃあ、ゆういち、早速だが俺と『誓約』を交わしてくれ〕
「せ、せい……やく?」
〔あ……なんて言やいいかな? あ〜〜っと……あれだ! その……俺と一緒に戦うお前には、これから先にどんな事があっても守らなきゃならない
決まりを作らなきゃならないんだ。……それが、『誓約』だ」
「えっと、つまり……約束って事?」
雄一が不安そうに尋ねると、『神龍』は肯定の返事をする。
〔そうだ。別にそんなに難しい事じゃなくていい。ただ……それは絶対に守らなきゃならない事なんだ。もし、それを破ったら……〕
途端、『神龍』は言葉を切って黙り込む。
暫くはそのうち続きを言うだろうと待っていた雄一だったが、『神龍』がずっと黙ったままなのに、怪訝そうな声を出した。
「しんりゅう? どうしたの?」
〔……いや、何でもない。とにかく、何でも良いから決めてくれ。絶対に守れる自信がある物を……な〕
「うん……じゃあ……」
とりあえず返事をしたものの、雄一は考え込む。
(約束と言っても……一体何を約束すればいいんだろう? 戦うのに必要な約束なんだから、やっぱり戦いに関係ある約束だよね。う〜ん……あ!)
暫しの思考の末、雄一の脳裏に一つの約束が浮かび上がる。それが良いと判断した彼は、嬉々とした表情で口を開いた。
「決めたよ、しんりゅう! 僕はね……これからどんな敵と戦う事になっても……絶対に……」
……。
…………。
――――東暦2000年7月3日午後5時。
〔……一…………おい、雄一!〕
(……う……ん…………?)
微かに誰かが自分を呼んでいるのが聞こえ、雄一はまどろみの中から現実へと戻る。
しかし意識が覚醒するまでには至らず、未だ付き纏う眠気を払うのは困難であった。
(眠い……)
重い瞼を開ける事が酷く億劫に感じられ、身体もロクに動かない。心身とも、睡眠を求めている何よりの証拠だ。
相変わらず自分を呼ぶ声が聞こえているが、彼は心の中で都合の良い謝罪を呟く。
(誰だか知らないけど……今は寝かしてくれ)
そして再び眠ろうとした雄一だったが、次の瞬間、後頭部に鈍い衝撃が奔り、絶叫と共に飛び起きた。
「っだあ!? な、何だ何だ!?」
「何だじゃない!! 何を暢気に寝てるんだお前は!!」
「ああっ!?」
痛む頭の箇所を摩りつつ彼が怒声のする方に顔を向けると、そこにはこちらを睨み付けている繚奈の姿があった。
その手には鞘に入れたままの『紅龍刃』が握られている。どうやら、その柄の部分で自分を叩いた……いや、殴った様である。
荒っぽいにも程がある彼女の起こし方に、雄一は不機嫌で顔を歪めながら口を開いた。
「あんたなあ……いくら敵だからって、もう少しマシな起こし方してくれてもいいだろう? 加減によっちゃ致命傷だぞ、今の」
「知った事か。こんな時に惰眠を貪っているお前が悪い」
「……どういう理屈だよ?」
思わず悪態をついた彼に、呆れた様な相棒の声が聞こえる。
〔だからさっきから起きろって言ってたんだよ、全く〕
(……『神龍』……そっか、さっきの声はお前か)
〔そうだよ。彼女が物凄い顔でお前を睨んでたから、何かされる前に起こしてやろうと思ったのに……やれやれ〕
(ああ、そうか。そいつはすまなかったな。……しかし…………)
――……随分と懐かしい夢だったな。
雄一の脳裏に、先程の夢の内容が蘇る。今はもう遠い昔、自分と『神龍』が初めて出会った日の事を。
あの時に交わした『誓約』……その内容は今から考えれば、余りにも綺麗過ぎる志だ。
にも拘らず、これまでどうにか遵守してこれた事に、彼は安堵とも呆れとも取れる溜息を漏らす。
(人の命を奪わない、か……確か、好きだった何かの本かアニメでの台詞だったっけか?)
当然ながらあの時の自分は、その『誓約』を守る事がどれだけ難しく、またどれだけ矛盾に満ちている物なのか、知る由もなかった。
戦いとは、自分と敵対する物を傷つけるもの。そして時には、生命を奪うもの。どれだけ建前を並べようが、それは未来永劫、不変の真実だ。
その真理を否定すれば……傷つけ、斬り捨てる事を拒めば、自分自身が傷つき、そして生命を奪われてしまう。
だが、雄一が交わした『誓約』は、その真実を頑なに否定する物だった。だからこそ、今までの苦難があったのだと、彼は思う。
――――これまで幾度、自分と敵、双方の命を天秤に掛けなければならない場面があっただろうか?
自分が奪わなくとも、救えなかった命……自分がそこまで追いやった命も少なからずある。
その度に悩み、苦しみ、傷つき、それでもまだ雄一は『誓約』を守り続けてきていた。
恐らくそれは、自らが手にする『神器』である『蒼龍丸』があったからこそだろう。
自らの意思で、その刃の鋭さを自在に変化させられる刀。この刀があったから、どうにか『誓約』を守れてこれたのだ。
――――そして、もう一つ。自分の中に未だ燻る……。
「っ!……だああっ!?」
いつの間にか思考の海に沈んでいた雄一の頭上に、勢いよく『紅龍刃』の鞘が振り下ろされる。
間一髪で彼が回避すると、相変わらず険悪な表情を浮かべていた繚奈が小さく舌打ちした。
「チッ……避けたか」
「避けたか、じゃねえよ!! 本気で殺す気だっただろう、今!? 見ろよ、この凹んだ跡! もうちょっとでこれが俺の頭につく所だったぞ!?」
再度の攻撃で流石に苛立った雄一は、机の一部分に出来た繚奈による攻撃の跡を指差す。
――――常人の視点から見れば、鈍器を力一杯振り下ろした跡としか思えない物。
こんな物が頭に襲い掛かれば、いくら神士と言えども確実に昇天だ。
冷や汗を流しながら繚奈に食って掛かる雄一であったが、当の彼女は事も無げに物騒な言葉を口にする。
「当然だろう? 元々、私はお前を殺すつもりなんだからな」
「……ったく!……それよりあんた、例の走り書きの確認は終わったのか?」
「終わったから此処にいるんだろう。お前の方こそ、神連への連絡は済んだんだろうな? よもや、それもせずにのうのうと……」
「ち、ちゃんとしたっての! とりあえず此処の神連での状況、それとあの人の今後の対応を伝えといた」
言いつつ雄一は、休憩室の奥にある仮眠室のベッドで眠っている職員の女性を指差す。
こちらに背を向けているので表情は見えないが、規則正しく盛り上がった掛け布団が上下しているのを見るに、安らかに眠っているらしい。
その様子を見た繚奈が、小さく安堵の溜息をついた。
「……どうやら、少しは落ち着いたみたいだな。ショックと恐怖で半狂乱にならないかと心配したが……それで、彼女は?」
「ああ、一時的にだが剣輪町の神連に転属だとよ。それと今回の事は、催眠療法を施すらしいぜ」
「そうか。まあ、妥当だろうな。一般人にとって、今回の事は忘れた方が今後の為だ」
「だな。……っと、忘れてた。あんたも同じく転属だとさ。…………んで、非常に不満だろうが、暫く俺と組んで行動する様にって」
「なっ、どういう事だ!? 転属の件は分かるとして、どうしてお前と……」
「仕方ないだろう? この件に関与してるのは、俺とあんたしかいないんだから。
他の指令は当分回さないから、この事の真相究明と解決に全力を注いでくれってさ。まっ、それだけヤバイって判断したんだろうよ」
「……確かに、そうなるのも不自然ではない、か。……で? 今後、私達はどう動く様にと?」
「追って連絡するって言われたから、待ってたんだが……もう一時間近く経ってるな。少し、遅すぎな気が……」
壁時計を見やりながら、雄一は呟く。
前例が無い上、頭に『大』がつく程の事件が起こったのだから、あちらの神連も相当混乱しているであろうとは、容易に想像がつく。
だから今後の指示についても、どうするべきか結構な時間が掛かると考えていたのだが、それにしても掛かり過ぎな気もする。
一抹の不安を覚えた彼がその事を口に出すより先に、繚奈が僅かに懸念を含めた声を出した。
「……何か、あったんじゃないのか? 向こうの神連でも」
「それは……考えたくないが…………まさか……?」
最悪の事態を思い浮かべた二人の顔が、自然と強張っていく。
居心地の悪い沈黙が流れ、お互いに息苦しさを感じ始めた頃、部屋の通信機から電子音が鳴り響いた。
ハッとした雄一が慌ててそれに駆け寄り回線を開くと、慌てふためいている見知った職員の男性がモニターに映し出される。
「あ、ゆ、ゆ、雄一さん! すす、直ぐにこちらに戻ってきて下さい!」
「っ!……何かあったんですか!?」
嫌でも数時間前の通信が蘇り、胸騒ぎに襲われた彼は男性に尋ねるが、向こうは完全に冷静さを失っていて答えようともしない。
「とと、とにかく戻ってきてください! それから繚奈さんも! 急いでください、お願いします!!」
「落ち着いてください! それに私達がそちらに行ったら、こちらに残っている職員の方が……」
「その方についてはこちらから使いを出します! ですから早く!!」
見兼ねて宥めようとした繚奈が言い終わらない内に、男性が悲鳴混じりに叫び、同時に通信は切られる。
「「…………」」
漆黒になったモニターを暫らく呆然と見詰めていた雄一と繚奈だったが、やがてどちらともなく部屋から飛び出した。
その手に各々の『神器』を握りしめ、焦燥を濃く顔に浮かばせながら。