第十六章〜理由なき理由〜
……。
…………。
――――東暦1997年2月1日午前零時。
蛇口から最大の勢いで水を出しつつ、繚奈は念入りに両手を洗い流していた。
「……っ!……」
真冬の水は痛みを感じる程に冷たく、既に何分も洗い続けている繚奈の手には凍傷の跡が見られる。
だというのに、彼女は凍りつく水を止めようとはしなかった。
痛みと冷たさに顔を歪ませ、時折苦痛の呻き声を口から漏らしながらも、繚奈は乱暴に両手を擦り合わせる。
そんな彼女を見かねた様に、ふと『邪龍』が鋭い声を発した。
〔繚奈!……もう止めなさい。そんなに洗った所で、何の意味もありません〕
「……みたいね」
不機嫌さを隠そうともしない声で繚奈は返事をし、感覚の無くなりかけていた手で蛇口を捻る。
程なくして水は止まり、それを見届けた彼女は何気なく両手を顔へと近づけた。
「…………」
――――僅かに……否、気のせいかもしれないが……ずっと手にこびりついているとしか思えなくなった、血の香り。
今まで全く嗅いだ事が無かったという訳ではない。
しかし、最近になって……神士になってからというもの、嫌でもこの香りに過敏になってしまう自分がいた。
――――流し……流され……そしてまた流し……身体に染み付いていった香り。
(不快だわ……とっても……)
痛みの残る両手を拭いた繚奈は、やるせない気持ちで大きな溜息をつく。
そして、ふと傍に置いてあった『紅龍刃』に視線をやると、心底羨ましそうに呟いた。
「良いわね、あれは……どんなに血を浴びても、汚れたりしないんだから」
〔……『神器』ですからね。人間の血がいくら付いた所で……あっ……ごめんなさい、繚奈……〕
「別に構わないわ。気にしないで」
気まずく謝罪した『邪龍』に、繚奈は苦笑しつつ首を振る。
「それと……安心して。神士を止めるなんて言わない。続けるわ、これからも。それに……」
彼女は一旦言葉を切った後、緊張気味の声で言った。
「まだ、出会ってすらないものね。私の……『因縁』の相手と………」
〔っ……繚奈……〕
「……」
頭の中から聞こえる『邪龍』の声が、何故か酷く遠くから聞こえる様に感じる。
『因縁』――その言葉を口にした瞬間、反射的に繚奈の脳裏に先日『邪龍』が話した事が浮かび上がってきたのだ。
――この私、『邪龍』が統べる世界である魔界。その裏側……つまり、自然界と呼ばれるこの世界を統べる神、『神龍』……。
普段にも増して厳かな口調で、『邪龍』はそんな話を自分に聞かせた。
――自然界と魔界、この二つは決して相容れぬもの。故に『神龍』と『邪龍』は、その世界を統べる者として戦わねばならない運命。
そこまで聞いた時、繚奈は既に感じ取っていた。この話が、自分にも大いに関係があるものだと。
そして『邪龍』は、彼女のそんな考えを裏付ける様に、更に言ったのだ。
――即ちそれは、神化している神士にも当てはまる事。酷な話ですが繚奈、貴方もまた……この『因縁』を背負わなければならないのです。
(酷な話……か)
確かにそうではあるのだろうと、繚奈は他人事の様に思う。次いでそんな自分に戸惑いを覚え、静かに目を伏せた。
(自分で自分にこんな事を言うのも何だけど……妙ね、私って)
実の所、『邪龍』からその話を聞かされた時も、今現在に至っても、彼女は不思議と『因縁』を重荷に感じずにいた。
一つの世界を統べる程の『神』と、それと神化している『神士』。これまで斬り捨ててきた連中とは、比べ物にならないくらい強大な敵。
しかも『神』はともかくとして、『神士』の方は自分と同じく元は唯の人間だった存在。
罪を犯した訳でもなく、ただ『因縁』というもの為に命の遣り取りをする…………酷な話なのは間違いないだろう。
だからこそ繚奈は、その事実を至極あっさりと受け入れている自分に疑問を感じずにはいられなかった。
――――自分は思っていたよりも冷酷な人間なのか?それとも、既に人の命を奪うという行為に抵抗を感じなくなってしまったのか?
答えの見つからない自問がグルグルと頭の中を廻り、不快な頭痛を感じた繚奈は思わず顔を顰めた。
「っ……」
〔?……繚奈? どうかしましたか?〕
「……大丈夫、何でもないわ。っと、忘れてた」
軽く首を振って『邪龍』に返事をした後、繚奈はある事を思い出して『紅龍刃』を拾い上げる。
水平にそれを構えた彼女は静かに眼を閉じ、柄と鞘を握り締めながら呟いた。
「……戒清……」
繚奈の身体と『紅龍刃』が赤く輝きだし、程なくして巨大な眩い光へと変化する。
そのまま赤き光は繚奈の身体を包み込むと音を立てて拡散し、後には半ば放心状態となった彼女が残された。
「ふうっ……毎回これをやらなきゃいけないのが、面倒なのよね」
〔仕方ないでしょう。戒清を行わなければ、この『紅龍刃』はいずれ貴方をも傷つけかねないのですから〕
嗜める『邪龍』に「分かってる」と返しながら、繚奈はふと『紅龍刃』の鞘を抜いて刀身を眺める。
――――さながら血の様に、真っ赤な紅。一体この刀身は、これまでどれだけの生命を奪ってきたのだろう?
人に限らず全ての『生』を斬る事により、その鋭さを増していく刀……それが『神器・紅龍刃』だった。
しかし、それに比例して持ち主の力――神力もより欲する様に諸刃な武器。
定期的に先程の儀式――『戒清』を行わなければ際限なく斬れ味を増し、持ち主の神力を食らい続ける危険な側面を持ち合わせているのだ。
――――……だからだろうか? 自分はどうしても、この『紅龍刃』に良い感情を持つ事が出来ずにいる。
神士となってからの幾度と無い修羅場。それを潜り抜けてこられたのは、間違いなくこの刀のおかげだ。
確かな事実だとそれを受け止める事は出来ても、時折考えずにはいられない考えが、呪縛の様に彼女の中に存在している。
――これは『神器』なんて神々しい物じゃない。それとは正反対の……言うなれば『魔器』よ。
命を奪い、血を吸い、死を与える刀。そんな武器に『神器』なんて名は相応しくないと繚奈は思っていた。
と同時に、こうも思う。――――だからこそ、自分には相応しいのかもしれない……と。
(魔界の力を使い、殺める行為を続ける……光美が知ったら、どんな顔するかな?)
自然と繚奈の口に、自嘲を含んだ笑みが浮かぶ。それと同時に、手が無意識に耳のイヤリングへと伸びた。
――――親友からの大切な贈り物……それに触れるだけで、僅かであるけれども気分が和らぐ様に思えて。
〔あ……そうそう、繚奈。先日、貴方が話していた事ですが……〕
「えっ? 話していた事……?……あっ……」
不意に『邪龍』に呼びかけられ、記憶を探った繚奈であったが、直ぐに答えへと辿り着く。
そして暫く沈黙した後、彼女はおずおずと『邪龍』へと尋ねた。
「許可……してくれる?」
〔……まあ、構わないでしょう。自ら弱点を作る様な行為だと私は思いますが……貴方には、心の支えが必要な事も確かですし。
ですが、今すぐと言う訳には……〕
「うん、それは分かってる。学校を卒業してからじゃないと、色々面倒になるから……」
〔そうですね。時期的には、それ以降が賢明でしょう〕
納得した様に言った『邪龍』に、繚奈は「良かった」と安堵の表情で呟く。
しかし、次いで発せられた『邪龍』の言葉に、すぐにそれは消えうせてしまった。
〔けれども繚奈、一つ疑問なんですが……〕
「何?」
〔どうして貴方は、こんな方法を使ってまで求めるのですか?〕
「…………」
主語の抜け落ちた言葉だが、意味はハッキリと伝わる。それ逆に、繚奈には辛かった。
――――その問いかけに、上手く自信が無かったから。
だから彼女は、曖昧なのを承知の上で、ただ心に感じた事そのままの言葉を、『邪龍』に言った。
「……欲しい……具体的な理由は分からないけど……どうしても、欲しいの」
〔……そうですか〕
そこで一旦黙った後、感慨深そうに『邪龍』が呟く。
〔それが新たな命をその身に宿す、女性としての本能なのかもしれませんね……〕
……。
…………。
――――東暦2000年7月4日午前10時30分。
剣輪町は閑散とした場所の多い町であるが、ここは特に静かな場所であった。
晴れた日だというのに殆ど陽が差さない程に木々が生い茂り、動物の鳴き声も聞こえない。
ほんの少し前まで住宅街を通ってきたとは思えないくらいに、この辺りの雰囲気は異様であった。
「何なんだ、この場所は?……薄気味悪い……こんな所にラボなんて建てるものなのか?」
自分の数歩前を走る雄一に、繚奈は問いかける。すると、すぐに答えが返ってきた。
「こんな所だからこそ……じゃないか?」
「何?」
「ラボを建てるのは当然研究者だろ? 得てして研究者ってのは気難しくて神経質で、自分の世界を邪魔されたくないもんさ。
周りに何も無い場所の方が、自身の研究にのめり込みやすいんだろうよ」
「成程……確かにそうかもな。で、どんなラボなんだ、そこは?」
「さあ、俺も詳しくは知らない。データで見ただけで、実際に行った事は無いからよ」
「そうか……」
曖昧に返事をしつつ、繚奈はふと雄一の背中を凝視する。
(あの輝宏の懐き様……まさかとは思うけど……)
それは違うと思いつつ……否、願いつつも、彼女の頭を一つの考えがグルグルと駆け巡る。
――――異常が無い。それ以外は一切吟味せずに選択した、あの事。
不快なのかそうでないのか、自分でも分からない気持ちに襲われ、繚奈は小さく頭を振った。
(ダメ……今は、こんな事を考えている場合じゃ……)
「お、見えてきたぜ!」
「!?……あれか!」
雄一の声に我に返った繚奈が前方を凝視すると、白一色の建築物が木々の間から見え隠れしている。
外装らしき外装も無い、至極シンプルなデザインの小さな建物。
自身の研究を第一に考える研究者らしい物だと、繚奈は漠然と思った。
「これが、ラボか」
玄関に辿り着いた彼女は、徐に『紅龍刃』を鞘から抜きつつ呟く。
特に何の気配も感じないが、それとは別の物――自身の勘がそうする様に告げたからだ。
そんな繚奈の後ろでラボを見上げながら、雄一が言う。
「随分と長い間、手入れされていないな。あちこち塗装が剥がれているし、蜘蛛の巣も張り放題だ。……の割には……」
「ああ……」
意味深な彼の言葉に、繚奈は足元へと視線を落とした。
――――至る所に散乱している、泥や土。
身を屈めてその一塊を手に取った彼女は、指先で弄くりながら口を開く。
「……詳しく分析するまでも無いな。色からして、これらはこの辺りの物じゃない。恐らく、ここに来た人間の靴に付着したのが取れた物……」
「つまり、まだ人の出入りがあるって事だな。廃棄されたラボなのに……だ」
言いながら雄一も、『龍蒼丸』を抜刀する。そんな彼に、繚奈は尋ねた。
「お前、データは見た事あると言ってたな。どんなデータだったんだ?」
「あ〜……確かここらに生息する、動物の生態研究とかだった気がする。だが、実際に此処に来た今、それは表向きとしか思えねえがな」
「同感だな。こんな虫の声一つ聞こえない様な場所で、生態研究なんて出来るものか。……!?」
――……まさか……?
一瞬、脳裏を掠めた考え。思わず繚奈が雄一の方を見ると、向こうもこちらを見返していた。
その刹那、彼女は悟る。彼も、自分と同様の考えが頭に浮かんだという事を。
「関係……有ると思うか?」
ややあっての雄一の問いに、繚奈は僅かに嘆息しつつ答える。
「有ると言い切るには、証拠が無さ過ぎる。だが……無いと言い切るには、どうにも不安が拭えないと言うのが正直な所だ」
「だな。……っと、此処で長々と話してても仕方ない。とりあえず入ってみようぜ!」
言うなり雄一は、勢いよく玄関を潜り抜ける。
瞬く間に奥へと消えていった彼の背中に、繚奈は不機嫌そうにポツリと呟いた。
「……仕切ってんじゃないわよ」
照明の類が一切無いラボ内部は外に輪をかけて薄暗く、異世界に迷い込んだ様な錯覚に襲われる。
不自然な点が見られた玄関とは違い、この辺りは廃棄された建物らしく感じられた。
研究器具も家具も無い、埃まみれのガランとした空間――それらを一通り見渡した繚奈は、誰ともなしに呟く。
「外と違って、特に不自然な気配は無いな。それに、何の気配も感じない」
「ああ。でも、『OCWF』が作動したんだから、どっかに好野さんの……あの人は専用端末だったかな?あれが有る筈なんだが……」
小首を傾げた雄一が、彼方此方に視線を飛ばしつつ奥へと進んでいく。
そんな彼の後を何となく追いながら、繚奈は徐に口を開いた。
「…………罠か?」
「いや、それはちょっと考えにくい。罠にしても仕掛ける理由が分からないし、第一俺はともかくとして、あんたまで此処に来る保障は……っ!」
「っ、どうした!?」
左右に枝分かれした廊下に着いた途端に雄一の表情が変わり、繚奈は反射的に彼の視線の先に眼を向ける。
――――右側の廊下の突き当たり。そこに置かれてある、一つの黒い端末。
「「…………」」
繚奈と雄一は、思わず無言で顔を見合わせる。
だが、それも束の間、雄一は慎重な足取りで端末に近づくと、それをゆっくりと拾い上げた。
「間違いない……好野さんのだ」
「っ……わざわざ口にするのもバカらしいが…………怪しいな」
溜息混じりに呟いた繚奈は、雄一の近くに歩み寄ると、身を屈めて丹念に床を調べ始める。
すると不自然な点は、呆気なく見つかった。――――そんな簡単には見つからないだろう……そんな彼女の考えとは裏腹に。
「これは……」
繚奈はそっと指の腹で、足下の板の継ぎ目をなぞる。
真っ直ぐな直線を描いている筈のそれが、微妙ながらもズレている箇所を見つけたからだ。
同じく雄一もしゃがみ込んで線をなぞり、次いで壁や床を触りながら忙しなく視線を飛ばす。
「大抵こういう場合、どっかにスイッチか何かが…………ん?」
「どうした?」
何かに気づいた様子の雄一に繚奈は尋ねるが、彼は何も答えず壁の一点を凝視していた。
――――別段変わった所のない、周りの壁と同様に真っ白な壁。
至って普通なその一点を食い入る様に見つめている雄一に、繚奈は尋ねる。
「其処がどうかしたのか?」
「……いや……ひょっとして……」
ブツブツと呟きながら、雄一が壁に片手を押し当てた。
すると突然、その部分がガコンを立てて窪み、次いで何かが動き出す音が鳴り響く。
ハッとした二人が咄嗟にその場を飛びのくと、先程不振に思っていた箇所――板の継ぎ目がズレた床が移動し、地下への階段が姿を現した。
「やっぱな、思った通りだぜ」
「お、思った通りって……何で分かったんだ?」
驚いた繚奈が尋ねると、雄一は軽く笑みを浮かべながら答えた。
「そんな難しいもんじゃないさ。この部分だけ、ちょっとザラついてたんだ。恐らく、手垢とかの汚れがこびりついてたんだろう。
……それよりも…………」
笑みを消した雄一が、階段へと視線を向ける。
「鬼が出るか、蛇が出るか…………行くか?」
「聞くまでも無いだろう。何が出るか分からんが、手掛かりの一つや二つくらいは……有ると思う」
「だな。よし、んじゃお先に……っと!?」
「? どうし……」
〔繚奈。少し待って下さい〕
不意に変な声を出した雄一に尋ねかけた繚奈を、『邪龍』が呼び止める。
今まで無言を貫いていたパートナーが、いきなり言葉を発した事に一瞬面食らい、彼女は彼と同様に変な声を出してしまった。
「うあっ!?……じ、『邪龍』! どうしたのよ?」
〔いえ、何か不思議な気配……と呼んでいいのか分かりませんが……どうも嫌な予感がします、この先からは〕
「この先から気配?……幻獣?」
〔それは分かりません。この様な感じは初めて……〕
「はあ? 何だそりゃ?」
素っ頓狂な声が聞こえ、思わず繚奈は雄一の方へと振り向く。
すると、彼女の視線に気づいた彼が、バツが悪そうに口を開いた。
「あ、ああ、悪い。『神龍』が何か訳の分からない感じがするって言ってきて……」
「!……そっちもか?」
「そっちもって、あんた……じゃない『邪龍』もか?」
「……そうだ」
徐に頷いた繚奈は、心の中で『邪龍』に声を掛ける。
(どうやら、貴方の気のせいという訳でもなさそうね)
〔……の様ですね。繚奈、注意を怠らないで下さい〕
(ええ、分かってるわ)
念を押す『邪龍』に答えると、繚奈はゆっくりと雄一と視線を合わせ、口を開いた。
「分かってるな?……気を抜くなよ?」
「へいへい。あんたもな」
軽口を叩きながらも、雄一の表情は引き締まっている。
その様子から少なくとも油断はしてないと理解した繚奈は、珍しく彼に笑みを向けた。
「……なら良い」