第十七章〜禁断へと変わり果てた地〜
地下への階段は、二人が思っていたよりも長く続いていた。
進めば進む程に元より弱々しかった微光も届かなくなり、漆黒の闇が広がっていく。
夜目が利くとはいえ多少の不安を覚えた繚奈は、無意識に呟いた。
「暗いな。灯りが有れば良かったんだが……」
「有るぜ」
「……えっ?」
驚いた彼女が問いかけるよりも早く、数段先を降りている雄一が指をパチンと鳴らす。
すると彼の左手の掌から、小さいながら赤々と燃える炎が出現した。
「どうだい? これで少しはマシになったろ?」
「あ、ああ……って待て! お前、あんな響く音を立てて灯りまで点けたら……」
「大丈夫だって。刺客とかの類はどうやらいなさそうだって、『神龍』も言ってるし」
「だからって……!」
〔繚奈。確かに、彼の言う通りです〕
暢気に言った雄一に食って掛かろうとした繚奈だったが、それよりも早く『邪龍』が彼女を制す。
(……どういう事?)
〔言葉のままです。先程から感じるこれは……どうも気配ではなさそうなのです〕
(気配じゃない?……そう言えば、さっきも曖昧な言い方だったわね。でも、気配じゃないなら一体何なの? やっぱり単なる予感?)
〔予感……そんな不確かな感じでもないのですが……今の段階では、そう表現するしかないですね〕
「……そう……」
出会って以来初めて見た『邪龍』の不安気な様子に、繚奈は少々同様しながら返事をした。
いつも理知的でハッキリとした物言いをする『邪龍』が、ここまで困惑しているにはどうしても不安を感じてしまう。
――――もしかしたら、この先には『邪龍』すらも知らない未知なる物が有るのではないのか?
自然とそんな考えが脳裏に浮かび、無意識に恐怖を覚えた繚奈は反射的に『紅龍刃』を強く握った。
(っ……何を怯えているのよ、私。例え何が有ったとしても、必要ならば斬るのみ……いつもと変わらないじゃない)
と、自らを奮い立たせる彼女だったが、前方から聞こえた間の抜けた声に、思わずつんのめりかける。
「なんか不気味だなあ。幽霊とかそんなの居たりしねえだろうな……正直そういうの免疫無いし」
「……お前、もう少し緊張感……いや違う、現実的な考え……でもないな。っ、とにかく、もう少し毅然とした態度が出来ないのか?」
「って言われてもなあ……『神龍』だって『分かんねえけど嫌な感じすんだよなあ……』って言うばっかだし、不安にもなるっての」
「……『神龍』というのは、そんな物言いをする神なのか?」
「ああ、そっか。あんた知らないんだっけ? まあ、あんたの相棒に聞けば分かると思うぜ」
雄一の言う相棒とは間違いなく『邪龍』の事だろう。すぐにそれを理解した繚奈は、訝しげに『邪龍』に尋ねてみた。
(そうなの?)
〔ええ。その力とは裏腹に、性格は自由奔放で無責任で暢気者……本当の事でしょう?〕
(……えっ?)
〔あ、気にしないでください、繚奈。向こうが文句を言ってきたもので……私は至って普通です。貴殿が変わっているのですよ〕
繚奈に言葉を向けた『邪龍』であったが、すぐにまた見えない誰かへの返事をする。そして、そのままいつになく饒舌に喋り始めた。
多分『神龍』と会話してるのだろうと思った繚奈は、チラリと雄一を見やる。すると彼も、彼女に視線を合わせて呆れた様に肩を竦めた。
「ふうっ。暫く続きそうだぜ、この言い争い」
「そう……だな」
どうやら雄一は、『神龍』と『邪龍』がこんな風に会話しているのを不思議には思わない様だ。
対する繚奈は普段と懸け離れていた様子の『邪龍』に戸惑いを覚えたのだが、彼の態度から推察するにこの事は珍しくもないらしい。
(『神龍』と話す時、こんな感じなのね『邪龍』……)
初めて知った『邪龍』の意外な一面に、繚奈は妙な気分に襲われる。
しかし、それが一体何なのか考えるよりも早く、雄一が短く声を上げた。
「おっと、着いたみたいだな」
彼が言い終えると共に長かった階段も終わりを告げ、真っ直ぐに伸びた狭い通路が現れる。
最後の段を降り終えた繚奈は、ふと後ろを振り返り頭上を仰ぎながら呟いた。
「随分と下まで降りたが……道中は何もなかったな。進入者を知らせるセンサーぐらい、有ると踏んでたんだが」
「確かにな。けど、好野さんの端末があんな目立つ形で置いてあったんだ。あの人がいるにせよ罠にせよ、ハズレって事は無い筈だ」
「……それは分かってる。『邪龍』も、お前の『神龍』も妙な気配を感じてるんだし。まあ、どちらにせよ……」
繚奈は言葉を切ると、眼前に伸びている通路を睨みつける。
数メートル先から黒一色となっているそれは、まるで死の世界へと続く道の様に見えた。
「この先に答えがある。きっと」
「……だな」
雄一が相槌を打った所で、二人の会話は途切れる。
各々の得物を強く握り締めながら、繚奈と雄一は静かに通路を奥へと進んでいった。
異常なまでに長かった階段とは裏腹に、通路は数分歩いた程度で終わり、厳重な自動ドアが二人の前に姿を現す。
そのドアの隣に見覚えのあるセンサーを見つけた繚奈は、訝しそうに口を開いた。
「これは……神連で使用されている物と同タイプのか?」
「え?……って事は、指紋照合の奴か? こうやって掌を置く……」
言いながら雄一が、何の気なしにセンサーに掌を乗せた直後だった。
突然、辺りに電子音が響き渡り、驚いた二人は小さな悲鳴を上げつつ反射的に後退る。
すると今度はセンサーが発光し、近くにあったモニター上で何やら意味不明のアルファベットが高速で流れていく。
十数秒程度それが続き、やがてセンサーもモニターも停止したかと思うと、今度は光が自動ドアの中心を真一文字に駆け抜けた。
直後、ドアは呆気なく左右に割れ、中から闇に慣れていた二人には眩しすぎる光が襲う。
咄嗟に両眼を覆い隠した繚奈は、恐らく自分と同じ行動をとっているであろう雄一に声を掛けた。
「くっ……眼が慣れるまで暫く掛かるか。しかし、お前……何をしたんだ一体?」
「う、分かんねえよ! 掌を置いたら勝手に……あ〜眼が痛え!」
そんな苛立った彼の言葉を聞き終えた頃、繚奈はようやく眼を開ける事が出来た。
眩しさに慣れた事を確認した後、彼女は改めて視線を開け放たれたドアの向こうと移す。
そして次の瞬間、内部のあまりにも異様な光景を見た彼女は、思わず素の口調に戻って呆然と呟いた。
「何よ、これ……?」
「?……どうしたってんだ? らしくも無く女性口調で……これは……?」
遅れて視力を取り戻した雄一が繚奈に問いかけるが、その途中で彼女と同様に声を失う。彼もまた、内部の光景に眼を奪われたからだ。
――――そこは、正しく研究所と呼ぶに相応しい場所だった。
吹き抜けの構造である為、全体の様子はよく分かった。
円形の部屋の中央には一本の太い柱があり、その前には巨大なモニターを携えた装置――恐らく制御システムである物が置かれている。
頭上にはリング状にガラス張りの廊下が何層にも連なっていて、天井付近は眩しい照明でよく見えなかった。
部屋の至る所には小型の装置が等間隔で無数に置かれており、見上げてみると上階も同様らしい。
それら装置の一つ一つからは幾つものコードが伸びていて、中央の巨大装置へと繋がっていた。
繚奈と雄一は無言で顔を見合わせた後、どちらともなく近くにあった装置に歩み寄る。
詳しくは分からないが、どうやらそれは何も入ってはいないものの保存装置の様だった。
カプセル状の形をした中で、無色透明の液体が時折コポコポと気泡を作っている。
上部には数個のボタンとモニターがあり、そのモニター上で二人には全く理解できない文字や数値が次々と映し出されていた。
「これは一体……?」
装置の表面に手を置き、内部を凝視しながら呟いた繚奈の横で、雄一が首を傾げながら口を開いた。
「何にも入っていないのに装置は生きてるみたいだな。中の物はもう持ち去った……のか?」
「だったら、これはもう用済みだろう。わざわざ作動させたままでいるのには、それなりの理由がある筈だ。しかし、この装置……」
雄一の言葉に反論しつつも、繚奈は困惑を覚えて部屋を見渡す。
自分達が今居る階だけでも軽く数十個……上階にある物を含めれば、もしかすると千を超えているかも知れない。
それらに何やら言い様の無い薄気味悪さを感じた彼女は、ふと部屋の中央にある柱に眼をやった。
「あれは……上階へのエレベーターか?」
「多分そうだろ、他に階段とかも見当たらねえし。う〜ん、そうだな、とりあえず上の方も調べてみるか」
言いつつ雄一が柱の方へと歩き出したので、繚奈も彼に続く様に装置から離れて歩き出す。
――――……だから気づかなかった。今まで見ていたその装置の中で、異常に大量の気泡が現れた事に。
二人の思った通り、中央の柱はエレベーターシャフトだった。
丁度部屋のモニターがあった面の反対――入り口から死角になっている後面に入り口がある。
その横にはエレベーターに付き物の上下を示すボタンがあり、繚奈が上のボタンを押すと、程無くシャフト内を籠が降りてくる音が聞こえた。
音の大きさからして、どうやら籠は最上階で停まっていたらしい。
割と遅めのスピードで降りてくる籠を待つ二人は、何の気なしに言葉を交わした。
「どうする? 下から順に調べていくか? それとも一旦、最上階まで行って上から調べるか?」
「そうだな……このエレベーターに何かトラップが仕掛けられてないとも限らないし、とりあえず下から一階ずつ順番に……」
雄一がそこまで言った時、籠が到着した事を知らせるチャイムが鳴る。
そして開かれた扉の中――籠の内部が眼に入った瞬間、二人は思わず息を呑んだ。
「「っ!?」」
そこには、一人の女性がグッタリと床に横たわっている。その女性は、繚奈にも雄一にも覚えのある人物だった。
――――そう、左頬に傷のある彼女は間違いなく……。
「光美!!」
「光美ちゃん!!」
心臓に冷水を浴びせられた様な心地で、二人は光美に駆け寄る。まさか罠なのではないかと、考える事も無かった。
そうだとすれば『邪龍』か『神龍』が止めるだろうし、それ以前にそこまで思考していられる余裕は二人には無かったのだ。
「光美ちゃん!……くっ!」
僅かに早く光美に駆け寄った雄一が、懸念の表情を浮かべながら彼女の脈を測る。
「どうだ……!?」
「…………ふうっ、大丈夫。気を失ってるだけみたいだ」
尋ねた繚奈にそう答えると、彼は心から安堵した様子で息を吐く。
釣られる形で繚奈も安堵の笑みを浮かべるが、ふと大きな疑問に気づいて表情を消した。
(けど何故……光美がこんな場所に?)
どう考えても迷った等という理由で来られる様な場所ではないし、彼女が倒れていた事情も気になる。
まさか彼女が義長の手先で、これが罠だ等という事は考えたくは無いが……やはり一応、考えには入れておかねばならないだろう。
となると、ここで光美を起こして両方或いは片方が一旦引き返すというのは得策とは言えない。
「やっぱり……連れて行くしかないか」
思わず漏れた彼女の言葉は、どうやら疑問系に聞こえたらしい。雄一が「そうだな」と頷きつつ、光美を抱き上げた。
「本当なら起こして事情を聞くのが良いんだけど……俺もあんたも、それは勘弁願いたいだろ?」
「っ……不本意だが、そうだと言っておく」
「だと思った。……にしても……っ……」
軽く笑った後、雄一は複雑な表情で光美の顔を見やる。
「?……どうした?」
「いや、随分時間が経ってんだなって……あれから」
「あれから?……そう言えば確かあの時、九年前とか光美が……」
言っていたな、と繚奈が続けようとした時だった。
突然、外からガラスの割れる派手な音が聞こえ、二人は弾かれた様に顔を上げる。
「な、何だ!?」
「この音……まさか、さっきの装置か!?」
「……う……ん……?」
焦りと不安で口々に叫んだ二人の声に紛れて、光美が苦しそうな呻き声を出し、次いで薄っすらと眼を開けた。
「え?……ゆういっちゃん?……それに……繚奈?」
「光美ちゃん!? 眼が覚めたのか。マズイな、この状況で……うおっ!?」
「こ、この足音は……!」
――――音からして四足歩行。そして激しさから言って、明らかに疾走しているもの。
間違いなく人間ではないと判断した繚奈は、慌てて外に出て『それ』が何か確認しようとする。
しかし、それよりも早く『それ』が、二人……いや三人を逃がすまいとするかの如く、エレベーターの出入り口に立ち塞がった。
――――全身が炎の様な赤い毛に覆われ、今にもその鋭い牙を剥かんと、ルビーの様な紅の眼でこちらを睨み付けている獣。
見覚えのある『それ』に眼を見開いた繚奈の隣で、雄一が驚きを露にしながら叫んだ。
「っ……幻獣だと!?」
「違う! こいつは……どういう事、『邪龍』!?」
彼の言葉を即座に否定しつつ、繚奈もまた驚愕に陥りながら『邪龍』に尋ねる。
すると『邪龍』もまた、動揺した様子で口早に叫んだ。
〔これは『爆狼』!?……いえ、違います! 神の気配ではなく、幻獣の気配……?……しかし、酷く微弱……一体!?〕
そう。繚奈の眼前にいるのは、かつて自身が倒した筈の『神』だった。
神化していた神士を事切れるまで翻弄し、その後も見苦しく逃げ続けていた、爆発を駆使する神。
確かにあの時――光美の両親の葬儀があった日に見つけ出し、始末した筈であったのだが……。
困惑する繚奈だったが、『邪龍』の言葉にも引っかかりを覚え、心の声で尋ねる。
(どういう意味? こいつは『爆狼』じゃなくて、『爆狼』が生み出した幻獣って事!?)
〔いえ……そうではありません。上手く表現できませんが……言うなれば、『爆狼』の複製物とでも……〕
(複製物!? それって……)
繚奈は更に尋ねようとしたが、直後、耳を劈く様な悲鳴が聞こえ、そちらに注意を奪われる。
「い……いやーーーーっ!!!!!」
「っ!? 光美!?」
繚奈が光美の方に振り返ると、彼女は雄一に抱かれたままの姿勢でガタガタと身体を震わせ、涙を滲ませながら金切り声を上げていた。
「いやっ!……た、食べられ……いやーーーーっ!!!!!」
「ひ、光美ちゃん! 落ち着いて!!」
当然だが、雄一も狼狽しつつ光美を抱き上げている。そんな彼女の様子が、繚奈には酷く怪訝に映った。
一般人がこんな生物を眼にすれば、ある程度は恐怖で取り乱す事は不自然な事では無いが、今の彼女はその度を越している。
まるで、辛いトラウマを呼び起こされた様な……そこまで考えた繚奈だったが、慌てて我に返るとそれ以降の思考を中断した。
――――今は、そんな考えに囚われている場合ではない……!
自分にそう言い聞かせた彼女は、瞬時に今置かれている状況をどう切り抜けるかという事に頭を切り替える。
そして、その考えはすぐに纏まった。繚奈は咄嗟に壁にあったボタンの中で最も大きい数字である『15』が書かれたボタンを叩く。
そのまま自身は『紅龍刃』を構えて閉まり出したドアを潜り抜け、半ば呆然としていた雄一に振り返った。
「光美を頼む!」
「えっ? た、頼むって……おい!!」
何か言いかけた彼だったが、そこでドアは完全に閉まり、次いで籠がシャフトを上へと昇り始める。
それを確認した後、繚奈は『爆狼』に向き直った。
「まあこいつが何であろうと、一度倒した相手に遅れを取る様な真似……この『幻妖剣士』は絶対にしない!」
――すぐに片をつける……!
確かな自信の若干の焦りを胸に、繚奈は『紅龍刃』を強く握り締め、『爆狼』に突撃していった。
――――この時、まだ彼女は気づいていなかった。眼前の敵が、自分の知っている敵とはまるで異なる敵だという事に……。