第二十章〜冒涜の記録〜

 

 

 

 

 

 

――――東暦2000年7月4日正午。

「……まだ、こんな時間か」

通路を歩いていた雄一は、ふと夜光機能付きの腕時計を眺めてそう呟く。それを聞いた繚奈が、怪訝そうに彼へ尋ねた。

「どうした?」

「いや何、一気に色々な事が起こったから、もっと経ってるかと思ってな」

「……そうだな。だが、それは好都合な事だ。この一連の事件……長々と時間を掛けて解決するといった、悠長な事はしていられないだろうから」

「ああ、全くだ。それに早く好野さんも探し出して、光美ちゃんも保護しなきゃなんないし……っと、此処か」

眼前の暗闇に扉が現れ、雄一は足を止めて知れず『龍蒼丸』を強く握る。

チラリと横に居る繚奈の顔を窺うと、眼があった彼女が光美を抱えている手に力を込めるのが見て取れた。

このラボに足を踏み入れてからの事を踏まえると、やはりこの扉の先にも何か厄介事が待っている確率が極めて高い。二人が警戒するのも、無理からぬ事であった。

しかし、扉を開けるべく数歩足を進めた雄一は、幾分ハッキリと見えてきた扉に思わず言葉を漏らす。

「あれ?」

「何だ、気の抜けた声を……ん?」

繚奈もまた、扉を間近で見て疑問の声を発した。

それもその筈で、二人の前にある扉は至って普通――邸宅内に備えられるノブ付きのドアだったのである。

この通路を隠していた扉、そしてそれがあった研究室の入り口の扉とは明らかに違う物だ。当然ながら近くにセンサーの類は見つからず、更にノブを見てみると鍵穴すら付いていない。

「これは……大して重要な部屋じゃないのか?」

「だったら、わざわざ通路を隠す必要は無いだろう。気をつけろ、きっと何か特殊なロック機能が有るに違いない。……とりあえず、回してみろ」

「あ、ああ」

繚奈に促され、雄一はドアノブに手を掛けると徐に右方向へと回した。

流石にすんなり回らないと思っていた彼だったが、そんな考えとは裏腹にノブは緩やかに回転する。

(えっ?)

雄一は戸惑いつつもノブが止まるまで右に回すと、恐る恐る奥へと押しやる。すると、何の異常もなくドアは開かれた。

呆気にとられた彼は、一瞬中の様子を認識する事を忘れて硬直する。それが解除されたのは、後ろから動揺した繚奈の声を聞いた後だった。

「この部屋……誰かの書斎か?」

「だろうな、多分」

彼女に相槌を打ちながら、雄一はゆっくりと室内へと足を踏み入れる。中は仄かながらも照明が灯っており、全体の様子は十分に把握出来た。

大型のロールトップデスクを囲む様に多数の本棚が設置され、その内の一つの上部には簡素なティーセットが置かれている。

繚奈の言う通り、誰かの書斎の様だった。尤も、部屋全体が埃だらけである事から推測するに、もう随分と長い間使われていないのだろうが。

雄一は何となしに近くにあった本棚に歩み寄ると、収納されている本を眺める。

どうやら全てケース付きの本らしいが、それにしてはケースにタイトルが一切書かれておらず、どれもこれも何の本なのか見当もつかない。

不思議に思った彼は、本の内容を確認しようと適当に本棚から一冊を取り出したが、その途端に不審な点を見つけ眉を顰めた。

「ありゃ?」

「どうした?」

「これ、空だ。中の本が無い」

「空だと?」

雄一の言葉に、繚奈も別の本棚から一冊を取り出して中を確認し、やはり彼と同じく眉を顰める。

「これもか……まだ断定は出来ないが、この分だと此処の本棚全ての中身が持ち去られている可能性は高いな。となるとやはり、重要な書物だったと考えるのが自然か。

 ケースには何も書かれていないし、恐らくは本ではなく何かの記録簿とか……か」

「それが一番有力だな。しかしまあ、人間のやる事だ。一冊くらい忘れてたって事もあるし、もう少し調べてみるか」

そう言い終えると、雄一は手当たり次第に本棚を調べ出した。だが、些細な希望も空しく、それらは全て空で何も残っていない。

「ちっ、几帳面だな全く。少しぐらい残しといても良いだろうに……ん?」

微かな苛立ちを抱き始めた彼は、ふと埃だらけのロールトップデスクに眼を留める。と、その視線に気づいた繚奈が口を開いた。

「……正直、期待は出来ないと思うがな」

「いやいや。案外って可能性も十分有るぜ」

「はあっ……どれ」

楽天的な意見をした雄一に溜息を返した繚奈が、光美を抱えたまま片手でデスクの引き出しを開ける。一段目は空だった。

続けて二段目、三段目と順々に開けていくが、彼女の言葉通り中は多少の埃が残っているだけで、紙切れ一つ有りはしない。

そして最後の五段目を開け、これまでと同じく空であったのを眼にした二人は、思わず落胆の表情を見せた。

「結局、何も無しか」

「ああ。それだけ重要な物という可能性は強まったが、素直には喜べないな。ちっ……」

「……ん……」

繚奈が舌打ちすると同時に、その腕の中で気を失っていた光美が微かな声を上げる。

ハッとする二人に見守られる中、彼女は苦しそうに顔を顰めた後、ゆっくりとその眼を開けた。

「……あれ?……ゆういっちゃん?……繚奈?」

「光美ちゃん、気が付いたのか。まっ、此処ならさっきの所よりは安全か」

「どこか痛くない? 光美」

安堵する雄一とは対照的に、繚奈は心配そうに光美に尋ねながら彼女を下ろし、その場に立たせる。

すると光美は、まだ意識が覚束ないのか、少しよろめいて額を押さえながら答えた。

「うん……何だか頭がボンヤリするけど、平気。でも私、一体どうして?……っ!」

キョロキョロと辺りを見回していた光美が、ふと雄一に視線を向けると驚いた表情と共に息を呑む。

「? どうした光……っ!……あ、こ、これは……えっと……」

怪訝に思った雄一は口を開くが、直後に光美の動揺の原因が自分の握っている『龍蒼丸』だと気づいた。

とはいえ、気づいただけで一体どうしたらいいのか分からない。上手い言い訳が見つからず、雄一は言葉を失う。

そんな彼を光美は暫く複雑そうな表情で見ていたが、やがてふと思い出した様に口を開いた。

「?……ねえ、好野さんは……?」

「っ! 好野さんを知ってるのか?」

思いがけない光美の発言に、雄一は驚愕しつつも尋ねる。すると彼女は「うん」と軽く頷いた後、記憶を探る様に額に手を当てながら話し始めた。

「えっと、確か……ゆういっちゃんや繚奈と別れてから私、暫くブラブラしてて……夕方ぐらいに剣輪町に戻って……そこで好野さんと出会ったの。

 最初は好野さんって気づかなかったんだけど、向こうが私の事を覚えてたみたいで……私の名前を呼んで……それから何だか顔色を悪くして行っちゃって……

 それから少しして、私その人が好野さんだって気づいて追いかけて……それで……」

たどたどしいながらも一気にそこまで話すと、光美は雄一の顔をじっと見つめる。その視線を受け止めた雄一は、彼女がその先に言おうとしている内容を察した。

「俺の事……か?」

「うん……でも好野さん、何も答えてくれなくて……そしたら急に……何か、動物の鳴き声みたいなのが聞こえて……それから……」

「「っ!?」」

光美の言葉に、雄一と繚奈はサッと表情を変え、どちらともなく顔を見合わせる。

――まさか……!?

声に出さずとも、お互いにそう思った事がハッキリと分かった。雄一は背中を冷たい汗が流れるのを感じつつ、繚奈に尋ねる。

「……奴だと思うか?」

「十中八九、そうだろう。恐らく光美まで連れ去ったのは成り行き……本命は彼女か……」

「? 繚奈、彼女って好野さんの事?……っ!? り、繚奈!? な、何でそんな物を持ってるの?」

「そんな物?……っ!……あ、こ、これはね……その……」

繚奈は携えていた『紅龍刃』を両手で握りしめると、先程の雄一と同じく返答に詰まる。

そんな繚奈を見かねた雄一は、そっと光美の肩に手を置き、彼女が驚いて振り返るのと同時に口を開いた。

「ごめん、光美ちゃん。今はゆっくり話してられる状況じゃないんだ。早いとこ好野さんを見つけて、此処から出ないと行けないから」

「っ……ゆういっちゃん……」

光美はポツリとそう呟くと、暫くの間ジッと雄一を見つめていたが、やがて小さく唇を震わせながら言った。

「何だか今、凄く大変な状況なんだね……?」

「あ、ああ……そうなんだ」

雄一がそう言うと、光美はゆっくりと眼を閉じ、そして同じくらいの時間を掛けて眼を開ける。次いで、僅かに笑みとも取れる表情を浮かべた。

「……分かった。それじゃ、今はもう聞かない。だけど……だけどね……」

そこで一旦言葉を切り、光美は俯いて表情を隠す。だが、それも束の間、再び彼女が顔を上げると、その瞳にはジワリと涙が滲んでいた。

思わずドキリとした雄一だったが、そんな彼に構わず光美は言葉を続ける。

「此処から出たら……一息ついたら……ちゃんと話してくれる?……全部」

「ぜ、全部?」

「うん、全部。今の事も、あの時の事も……全部」

その言葉に、雄一は迷う。けれども、すぐに答えは出た。

観念とも言うべき答えではあったが、彼は大きく頷きながら言った。

「っ……分かった。あんたも良いよな?」

「えっ? わ、私も?」

「そうだよ。どうせ、話してなかったんだろ?……色々と」

「それは……っ」

雄一の言葉に、繚奈は口籠りながらチラリと光美の顔を見やる。すると光美も、何かを訴える様な眼差しで繚奈を見つめた。

それに対して暫く繚奈は狼狽えていたが、やがて光美が小さく「繚奈……」と呟くと、大きく息を吐いた。

「分かったわ。いずれ……話さなければならないとは、思ってたから。終わったら、全部……光美、それで良い?」

「……うん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……じゃあ、あの夜に?」

「うん、しっかり覚えてる。1991年の2月4日、深夜2時くらいだった。友達と以前から噂のあった森に入ったの。……その森の事は、知ってるよね?」

「それは、まあ……」

――……どういう事だ?

先刻、赤い獣を見た時の様子について光美に尋ねた雄一は、彼女が話した事に酷く驚いた。

九年前のあの夜――自分が彼女の頬に傷を残す事になった夜に、あの獣を見たというのである。

それを聞いた彼は、思い出したくもない……されど微塵も薄れていない記憶を呼び出しながら考える。

(確かあの時、俺は幻獣討伐の任を受けたんだよな。それであの森……聖泉森に行ったんだ)

『聖泉森』――あの時は全く知らなかった、剣輪町にある森の名。その森は一匹たりとて動物が生息せず、得体のしれない『何か』が住んでいると噂されていた。

その噂が正確ではないが的外れな物でもないと雄一が知ったのは、どちらかと言えば最近の事になる。

何でもあの森は遥か昔から、神がこの世界にやってくる際の通り道の一つになっているらしい。

これまで、何千何万回にも及ぶ神々の往来があの森で行われ、自然と森全体が神々の影響を受け続けた結果、不思議な力を帯びた森になったと言うのだ。

その為か聖泉森は、神は勿論として神士や幻獣にも影響を及ぼす、所謂パワースポットと言うべき場所――それが二、三年前に判明した聖泉森の詳細である。

あの夜、異常なまでの数の幻獣が発生していた理由も、それであったのだ。

(けど、あの時……『爆狼』が居るという報告は受けてなかった筈。それに、あれだけの数の幻獣を相手していた俺が出くわしていなし、『神龍』も気づいた様子は無かった。

 となれば、そいつは神でも幻獣でもないって事も考えられる。つまり、それは……)

腕組みをしながら首を傾げ、雄一は考え込む。と、そんな彼を『神龍』が注意した。

〔雄一。今は考えるより彼女の話を聞こうぜ〕

「え? あ、ああ……そうだな」

「?……ゆういっちゃん?」

「! な、何でもない。独り言だ。それより光美ちゃん、話の続きを」

つい癖で、『神龍』への返事を口に出してしまったらしい。

ありふれた誤魔化しの後、彼が光美を促すと、彼女は「う、うん……」と頷いた後、再び話し始めた。

「最初は何も出なくて、皆がっかりしながらもホッとしてて……二十分くらいだったかな? それぐらい経った時、そろそろ帰ろうって話になったの。

 それで帰ろうとした時、突然近くの草がガサガサって揺れて……それから私、何だか凄く気持ちが悪くなって……そして……」

トラウマを思い出したのか、光美はそこまで言うと辛そうに俯き加減になり、胸に手をやる。そんな彼女の肩を労わる様に抱きながら、繚奈が尋ねた。

「本当に、さっきの奴と同じ獣だったの?」

「……だと思う。あの時は混乱してたから、ハッキリ覚えてる訳じゃないけど、あの真っ赤な全身は……っ……」

「!……光美、無理に思い出さなくていいわ。貴女を疑ってる訳じゃないから」

苦しそうに両手でこめかみを押さえた光美を宥めた後、繚奈は雄一を見やる。その視線を受け止めた雄一は、徐に頷きながら口を開いた。

「やっぱりあんたも、今回の事件と関係あると思うか?」

「恐らく。私が『爆狼』を始末したのは今から三年前だ。故に光美が見たのが本物か奴の幻獣か、あるいはさっきの複製物なのかは分からない。

だが無関係だとは、私にはどうしても思えない」

「同感だな。とにかく、早いとこ好野さんを見つけ出して神連に戻ろう。想像以上にスケールのでかい話になってきたし」

雄一がそう言うと、繚奈も「そうだな」と相槌を打つ。と、その時、ふと何かに気づいた光美が口を開いた。

「あ、そういえば二人共、此処で何してたの? 調べもの?」

「え?……あ、そうよ光美。と言っても、何も残ってなかったから収穫はゼロだけど」

「何も?……本棚には、本が一杯収まってるよ?」

「そいつは全部ケースだけだよ。ついでに、あの机の中も空っぽ。完全にもぬけの殻って訳さ」

「机……? あ、あれね。…………!」

光美は雄一の言葉を聞き、初めて机の存在に気付いたらしく、ポツリと呟く。

しかし、それも束の間、不意に彼女は何を思ったのか、ゆっくりと繚奈から離れて机に近づいていく。突然の事に驚いた雄一と繚奈は、眼を瞬かせながら光美の後を追った。

「光美ちゃん?」

「光美? どうしたのよ?」

「うん、ちょっと……ねえ、本当にこの机も調べたの?」

「え? ええ、私が全部の引き出しを開けて。だけど、何も……」

「その奥は?」

「……奥?」

光美の言葉に、繚奈は気の抜けた声を出す。そんな彼女の横で雄一は、「ああ、そっか!」と両手を叩きながら声を上げた。

「そういやあ、さっきは引き出しの奥は見てなかったな。たまにあるよな、乱雑に物を入れてると引き出しの奥に物が落ちる事」

「でしょう? 私も学習机使ってた時に、結構やってたから。ひょっとしたらと思っ……て!」

そう言いながら、光美は引き出しの一段目を勢いよく手前へ引っ張った。数十センチ引っ張られた所で、ガコンと言う音と共にレールが外れる。

すると光美は外れた引き出しを雄一に預け、ヒョイとその中を覗き込み、次いで「あっ!」と嬉しそうな声を出した。

「有ったよ、二人共! 何かノートみたいなのが!」

「!……本当なの、光美!?」

「うん!」

「よっしゃ! そうと分かれば他の段も外して取るぞ。 光美ちゃん、ちょっと離れて」

雄一はそう言って光美を引き出しから遠ざけると、荒っぽく全ての引き出しを外す。

そして現れた奥の空間――その中に落ちている一冊の古びたノートを見つけると、思わず顔を綻ばせなら、それを手に取った。

「へへ、此処は盲点だったな。まっ、こんなのでも何も見つからないのとじゃ大違いだ」

「そう言うのは、中身を確認してからにしろ」

「……っ……」

冷淡な口調で水を差してきた繚奈に、雄一は彼女に聞こえない様に舌打ちをする。

――せっかく情報源を見つけたんだから、少しぐらい喜んだっていいじゃねえかよ……。

そう愚痴りたくなったが、そんな事を口にすれば更に嫌味を言われるのは明白だ。

仕方なく彼は、グッと言葉を飲み込むと大仰に咳払いをして気持ちを静め、ノートの1ページ目を開きながら繚奈に言った。

「……とりあえず、読んでみようぜ。ほら」

「ああ、そうさせてもらう」

「わ、私も」

頷く繚奈の隣で、光美が遠慮がちに閲覧を申し出る。

一般人である彼女にこのノートを見せていいのかと、雄一は一瞬逡巡したが、すぐに結論を出した。

(どうせ後で全部話さなきゃならないんだし、ここまで関わってて今更部外者扱いも変だしな)

一人納得すると、彼は「じゃあ、皆で見るか」と言いつつノートを机に広げ、読みやすくするべく左手に炎を出現させた。

それを見て光美は少し驚いた様だったが、特に取り乱す様子もなく、ノートへと視線を凝らす。その隣で繚奈もまた、食い入る様にノートの文面を凝視した。

 

 

 

 

 

 

 

 

ノートは随分と余白を残す使い方をされていた。1ページには上部からほんの数行までしか使われておらず、罫線もあまり気にしていない書かれ方だ。

そんなノートの最初に書かれていた文章は、こうだった。

『10月4日

 先生のサポートも有り、ようやく最初の実験の準備が出来た。施設との交渉は難航したけど、最終的には十分な量を貰えた訳だから良しとしよう。

 でも、大変なのはここから。とにかく慎重に行わなければならない。何せ、命を扱う実験なのだから』

「これって……日記?」

戸惑った様な光美の声に、雄一はもう一度文章を読み直しながら答える。

「みたいだな。日付が書かれてるし。けど、この内容……」

「ああ、どうも穏やかじゃなさそうだ」

繚奈に続きを言われた雄一は、彼女に小さく頷くと光美を一瞥する。

どうやら思っていた以上に、このノートに書かれている事は過激な様だ。それは『命を扱う実験』という単語から容易に想像出来る。

だとすれば、このまま光美にこれを読ませるのは不適切ではないかと考えたのだ。多少無理強いにでも、読ませるべきではないのではないか、と。

すると光美はそんな彼の思惑に気づいたのだろう。一瞬の笑みを浮かべた後、毅然とした表情で彼に頷いて見せた。

「大丈夫だよ、ゆういっちゃん。私が自分で読みたいって言ったんだから」

「でも……」

尚も渋る雄一だったが、ふと光美がジッと自分を見つめている事に気づく。

心臓が激しく脈打つのを感じながら、彼が「光美ちゃん……?」と尋ねると、彼女は言った。

「それに……何だか私、これを読んだ方が良いと思うの。何故そう思うのは分からないけど……だから、お願い」

「っ……分かったよ」

雄一が僅かな溜息と共にそう口にすると、光美はパッと表情を輝かせる。

そんな彼女を見て自然と笑みを浮かべた雄一だったが、隣で繚奈がわざとらしく咳払いをしたのに、慌てて我に返った。

「と、とにかくページを捲るぜ。続きが気になるからな」

「……」

何やら言いたそうな繚奈の視線が痛かったが、雄一は敢えて無視してページを捲る。すると、日付が一気に飛んでいた。

『10月29日。

 今日、最初の実験が行われた。結果は……まずまずといった所。[天上の庭]は上手く機能したけど、出来上がったサンプルが平凡だったのだ。

 並よりも少し上といった所。せっかく[天上の庭]を使うからには、それこそ規格外の物ではなくては意味が無い。

 サンプルを然るべき所に移したら、そのデータを元に次の実験に取り掛からないと』

『11月13日。

 ようやく二回目の実験。けど前回より上とは言え、まだまだ不十分な出来だった。やっぱり簡単ではないのかと私は落ち込んだが、先生が優しく励ましてくれた。

 そう、挫けるのはまだ早い。これから回数を重ね、少しずつ改善していけば良いのだから。それと、今回からサンプルの事を[神の種]と呼ぶ事にした。

 ちょっと大袈裟な気もするけど、最終的にはその名に相応しい物にする。それが今の私の目標だ』

『11月30日。

 三回目の実験まで、まだもう少しかかりそう。[神の種]の移動場所が、中々見つからないのだ。

けど、こればっかりは仕方ない事だ。絶対に粗末には出来ない。この研究を行う前から、ずっと決めていた事だから』

『12月24日。

 三回目の実験は来年へと持ち越された。次の配合が決まらず、苛々が募りだした私を見かねた先生の判断だ。

 確かにこの所ずっと同じ研究ばかり行き詰まってたし、丁度良いかな。なので私は代わりに、〔神の種〕の応用プランを練る事にした。

 本命がまだパッとしていないけど、どうせいつかはやろうと考えていた事だし、構わないだろう』

ノートには、延々とそんな文面が続いていた。1ページにつき、たった一日の記録。それが飛び飛びの日付で続いている。

中身の方も、研究を行っていたという事は分かるが肝心の内容が殆ど書かれていない。それに文面も砕けた調子である事から、これは正規の研究日誌では無いと雄一は判断した。

恐らくは研究者の、個人的な不定期の日記だろう。だが、それでも気になる箇所はいくつか有った。

(……『天上の庭』……『神の種』……)

どちらも雄一には、全く聞き覚えの無い単語だ。ただ文面から、どちらも大体どんな物かという予想は出来る。

――――研究に使う装置が『天上の庭』で、研究に使うサンプルが『神の種』

それはまず、間違っていないだろう。しかし、研究の内容が分からない以上、これらの全貌は見当もつかなかった。

「何の研究だったのかしら? 命を扱うって最初に書いてあったし、モルモットか何かの動物実験……?」

ふと光美が誰に尋ねるでもなくそう漏らす。その独り言に対して、雄一は「いや……」と首を横に振った。

「それにしちゃサンプルについて、えらく過敏に書かれてる。一概には言えないが、モルモットとかでこうは書かないと思う」

「じゃあ、もしかして……」

光美はそこで一旦言葉を切ると、僅かに息を呑む。そして雄一、繚奈と順に顔を見やりながら口を開いた。

「人体実験……とか?」

「……多分」

「その可能性は、高いわね」

二人が各々相槌を打つと、光美はギュっと胸の前で右手を握りしめる。しかしそれも束の間、強張った表情で雄一に言いた。

「ゆういっちゃん……ページを」

「そうだ、早くしろ」

「……ああ」

 

 

 

 

 

 

 

 

『1月25日。

 三回目の実験はまだ行われず、研究は完全に手詰まり状態。私も先生も、かなり精神的に参ってきている。私に至っては、生理まで乱れてきている。

 一度凍結させるべきかと、そんな後ろ向きな考えも頭に浮かんできていた』

『2月8日。

 配合が決まらない。いや全く案が無い訳じゃないけど、それらは[神の種]に多大な負荷をかけるものばかりだ。

 やはり人口的に作るのなんて、無理だったのかもしれない。けれども先生も励ましてくれるし、もう少し頑張ってみよう』

『3月11日。

 最近、先生の様子がおかしい。どうも、この前私が練っていた[神の種]の応用プランを試そうとしているみたいだけど、何だか凄く切羽詰まってる感じだ。

 きっと疲れてるんだろう。ずっと協力して貰ってるんだから、無理もない。でも流石に悪いから、暫くは私一人で研究に取り掛かろうと思う』

『3月20日。

 渋る先生を、強引に家へと帰し、暫くの休暇を取らせた。少し後ろめたかったけど、先生はまだ新婚。奥さんの傍にいるべき夫なのだから。

 それに奥さんと居れば、きっとリラックス出来るだろう。私なんかと居るよりも、ずっと』

ここまで読み進めた時、また光美がポツリと呟いた。

「この日記を書いてる人、この『先生』が好きだったのね」

「みたいだな」

「ええ」

それは雄一も繚奈も感じ取っていた。この研究者は、明らかに『先生』という人物に好意を持っている。

薄々気づいていた事だったが、最初は尊敬の念だと思っていた。しかし読み進めた今、それだけでは無いと三人は察する。

――――この日記を書いているのは女性。そして、彼女は『先生』に愛情を抱いていたのだ。

その事を認識した途端、雄一は自分が他人の日記を読んでいる事を思い出し、ふと居た堪れない気分になる。

(まさかとは思うが……ここからドロドロの愛憎劇とか書かれてないだろうな?)

この先を読むのに抵抗を覚えた彼だったが、ここまで来て引き下がる訳にはいかないと思い直して次のページを捲る。

幸いにも不安は外れた。しかし、それはまた違う不安を誘う文面が、そこに有った。

『3月30日。

 やっぱり駄目だ。先生が居ないと、どうにも捗らない』

『4月3日。

 全然進まない。これはもう、本気で凍結を考えるべきかも』

『4月7日。

 辛い、苦しい、疲れた。書いてても仕方ないけど、他に書く事が無い』

極端に短くなった文章。内容も暗く、女性の精神が病んできているのか容易に理解できた。

そして次のページに眼を通した時、雄一は……恐らく繚奈も光美もだろう。そこに書かれてあった文章に、底知れぬ恐怖を感じた。

『4月10日。

 気晴らしに〔天上の庭〕を改良してみた。結果、素晴らしく性能が向上した。

肝心の部分はまだ不完全だけど、これはもう神を作り出す奇跡の装置といっても差し支えないだろう。もうじき先生も戻ってくるし、早く実験したい』

「神を……作り出す?」

怖々と呟いた光美が、両腕で自身を抱きしめる。そんな彼女を一瞥した雄一の脳裏に、嫌でも先程の装置が浮かんできた。

そして、それは繚奈も同様だったらしい。静かに光美の肩に手を添えつつ、繚奈が口を開いた。

「さっきの装置の事か?……気になるな、続きを」

「あ、ああ……」

言われて雄一はノートを捲る。

そこから先は今までと文面が一変していて、ある意味では研究者らしい内容が続いていた。

――――『先生』の帰還。『天上の庭』改良の報告。喜ぶ『先生』と『私』。凍結していた研究の再開。並行して研究される様になった『神の種』の応用プラン。

相変わらず研究内容については深く書かれていない。けれども『神の種』の事を第一に考え、慎重さを説いていた最初に比べ、明らかに『私』の考えが変わってきているのが見て取れた。

『5月1日

 もうすぐ。もうすぐ誰も開く事が無かった扉が開かれる気がする。いや、違う。私がこの手で開くんだ。その為には、もっと多くの〔神の種〕を用意しなければ。

 幸い、それは容易い事。とにかく進めたい。そんな気持ちを私は抑えられない』

『5月3日

 これまでで最高の結果が出た。けども、まだ私は満足できない。もっともっと完成度を高める事が出来る筈。

 それにしても最近、〔神の種〕の移送が面倒になってきた。処分してしまいたいという先生の気持ちに、段々共感してきている』

研究の為なら如何なる犠牲も厭わない、所謂マッドサイエンティストな気質が見え隠れしてきていた。

心理的に不快感を覚えた三人は、いつしか無口になりながらページを追い続ける。そして、再び恐怖を感じた。

希望と自信に満ち溢れていた文面が、ある日を境に突然翳り出し、絶望と後悔の感情で埋め尽くされた文章が現れたからである。

『5月28日

 私は、何をやってたんだろう? こんな事、絶対にしちゃいけない事だったのに。どうして?』

『5月29日

 何で私は、こんな事をしてしまったんだろう? こうなっちゃいけない、こうならない為に研究をする筈だったのに。何で?』

『5月30日

 研究を中止しよう。そう私は思ったが、果たして今更中止して何になるんだろう? もう〔天上の庭〕は完成している。そしてきっと、先生の方も〕

『5月31日

 先生は変わってしまった。いや、私が変えてしまったというべきか。もう全てが終わりに思える。本当に、どうしてこんな事に?』

『6月1日

 先生がとんでもない事を言い出した。私が嫌だと言っても聞き入れてくれない。そりゃあ私だって、ある意味望んでいた事だ。

 でも、それは決してこんな形じゃない。こんな、こんな最悪の形なんかじゃ』

ノートはまだ十分に残っていたが、日記は此処で終わっていた。雄一は出現させていた炎を消し、暫し動きを止める。

光美が緊張を吐き出す様な溜息をつき、繚奈は何かを考える様に最後の文面を睨みつけている。

そんな二人を横に、何やら息苦しさを覚えた雄一は無意識に胸元のシャツを握りしめていた。

(何だ、この日記?……何か……何か、とても……)

その先の言葉が見つからない。とにかく彼は、酷く不吉なものを感じ取っていた。

ゆっくりとノートを閉じ、雄一はそれを手にすると繚奈へと振り返る。

「肝心な部分は分かんねえけど、重要な資料には間違いないな。神連に持ち帰ろう」

「ああ、異存は無い。さて、残るはお前の……」

繚奈がそう言いかけた時だった。

突然、大気を劈く程の爆音が三人の耳に聞こえたかと思うと、同時に爆風が襲いかかって来た。

「きゃああっっ!?」

光美が悲鳴を上げ、雄一はそんな彼女を庇いつつ左へ飛び退き、繚奈は『紅龍刃』を抜刀しつつ右へと飛び退く。

反応が速かった為、かろうじて負傷は免れた三人だったが、部屋の方はそうもいかない。

爆風を受けた本棚が一瞬で吹き飛ばされ、残った残骸が音を立てて燃え始める。

見る影も無くなった書斎部屋を見渡しつつ、雄一は光美を抱き締めながら苛立った声を上げた。

「な、何だ!? 一体、何が起こったってんだ!?」

「これは……まさか!?」

何が起こったのか理解できない彼に対し、繚奈は驚愕に満ちた表情で浮かべ、すぐさま『紅龍刃』を構える。そしてハッと我に返ると、鋭く声を飛ばした。

「気をつけろ! 恐らく、神士だ!!」

「神士!?……痛っ!!」

思わず叫んだ雄一の耳に、不気味な獣の鳴き声が響き渡る。反射的に両耳を押さえた彼の眼に、同じく苦痛を感じている繚奈と光美の姿が映った。

痛みに顔を顰めつつ、雄一は背中に冷たい汗が流れるのを感じる。――――聞き間違える筈も無い。これは……。

(『鵺』の鳴き声!……奴か!?)

刀廻町の神連での出来事を思い出し、義長が居ると判断した雄一は爆煙に包まれている入り口付近を見やる。

しかし、彼の予想に反して聞こえてきたのは、酷く幼い少年の声だった。

「ちょっと弱かったか。やっぱり、まだ慣れてないな……上手く調節できない」

(っ……子供!?)

驚いて息を呑んだ瞬間、頭に響いていた鳴き声が止んだ。よろめきながら雄一は立ち上がって光美を支え、その横で繚奈もヨロヨロと身を起こす。

そして直後、徐々に薄れつつある爆煙の中から現れた人影に、彼は眼を見開きながら声を発した。

「き、君は……!?」

――――手荒く洗っているだけなのが良く分かる、無造作な髪型の黒髪。そして少し赤黒い肌の男の子。

見覚えがある。数日前、ゲームセンターで見かけた子――自分に向けて殺気を放ったのではないかと感じた子だ。

彼の左手には赤黒い刀身のクリス、そして右手には『鵺』の神器であるダガーが握られている。

(何故だ……また違う人間が、『鵺』の神器を……?〕

自分が倒した神士、義長、そしてこの少年。神器が三人もの人間に次々と渡っているという、信じがたい事実を目の当たりにし、雄一は困惑する。

しかし、そんな彼に追い打ちをかける様に、繚奈が叫んだ。

「今の技……そのクリス、『爆狼』の!?」

「何っ!?」

驚いて雄一は彼女に振り向くが、その瞬間に少年がクリスを振るい再び爆発が起こる。

先程のとは違い一瞬眼を覆ってしまう程度の物で大した事は無かったが、雄一は心の強い衝撃を受けた。

―――それは、繚奈の言葉の肯定を意味する行為であったから。

(一体……どういう事だ!?)

まるで化け物に見るかの様な眼で、雄一は少年を見やる。すると少年は、二つの『神器』を構えながら淡々とした口調で言った。

「……『覇王剣士』に『幻妖剣士』……」

「「っ!」」

彼がハッキリと自分達を認識している事に、雄一と繚奈は思わず身構える。そんな二人に、少年は不可解な言葉を口にした。

「『旧式』の中でも最上位の実力……見せてもらいますよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  

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