第二十三章〜『新』と『旧』〜
「これでっ!!」
繚奈は『紅龍刃』を高速で振り翳し、黒い波動を放った。
彼女が駆使する剣術『邪爪連殺流』の尤も基本的な技――『瘴魔波刃撃』である。
黒い波動は手加減していた今までと違い、凄まじい速さで少年へと向かう。しかし彼は軽やかにそれを避けつつ、繚奈へと迫ってきた。
繚奈は素早く少年から距離を取り、書斎内を走りながら、『瘴魔波刃撃』を連発する。
だが少年は矢継ぎ早に放たれる黒い波動を鮮やかに回避し、または両の手に握られたクリスとダガーで弾きながら、彼女を追い掛けてくる。
これまで戦ってきた神士の中でも一際華麗なその動きに、繚奈は半ば感動めいた気持ちにもなった。
(凄いわね。やはり、こんな攻撃で倒せる様な相手じゃない……けど!)
頭の中で策を練りつつ、繚奈は絶え間無く攻撃を続ける。そんな彼女に痺れを切らしたらしい少年が、苛立った表情と共に叫んだ。
「っ……そんな攻撃で、勝てると思うなあっっ!!」
「!!」
器用にダガーを回転させ始めた少年の挙動に、繚奈は何か技を使うのだと判断し、足を止めて身構える。
その判断の正しさは、すぐに証明された。彼のダガー――『鵺』の神器から、大量の波動が放たれる。
それは繚奈の周囲を覆うかの様に飛散すると、円形の波動へと姿を変えた。
「く……何だ!?」
彼女は反射的に『紅龍刃』で波動を斬りつける。しかし、その斬撃は虚しく空を斬るのみだった。
「ちっ、これは一体……!?」
舌打ちする繚奈に、『邪龍』が鋭く告げる。
〔繚奈! 何か嫌な予感がします。回避を!〕
(分かってるわよ! でも、回避ったって……!!)
『邪龍』との会話の間にも、少年は次々と波動を作り出していく。そして瞬く間に繚奈の周囲は波動で埋め尽くされた。
どうやら直接的な攻撃力は無いらしく、触れた所で痛くも痒くも無い。だが、こちらの攻撃が効かない事も相まって、それが逆に戦慄を彼女に与えた。
(っ、完全に囲まれた……!)
僅かに冷や汗を流しつつ、繚奈は少年を睨みつける。すると彼は、勝ち誇ったかの様な表情を浮かべた。
「これはどうやったって防げないぞ! 食らえ!!」
絶叫と共に、少年はダガーを振り翳した。
すると次の瞬間、繚奈の周囲に配置された波動から、耳を劈く程の音響が発生する。そしてそれは他の波動にと共鳴し、更に殺人的な音へと変貌を遂げる。
これまでの『鵺』の『鳴き声』とは比較にならない音響攻撃に、彼女は成す術も無く両手で耳を塞ぐと悲鳴を上げた。
「う、うああああっっ!!」
〔繚奈!? 繚奈、しっかりしなさい!〕
『邪龍』が叱咤するが、その声すらかき消されてしまいそうな音響が、延々と繚奈の鼓膜を襲い続ける。
勿論それは耳を塞いだ所で軽減できる物では無く、やがて彼女はその場に蹲ると尚も悲鳴を発した。
「や、やめろ! やめろおおっっ!!」
苦痛に顔を歪ませながら、繚奈は我武者羅に『紅龍刃』を振るい、『瘴魔波刃撃』を少年に放つ。
しかし、そんな苦し紛れの攻撃が命中する訳も無い。彼は黒い波動を難なく避け、未だ地に伏せたままの繚奈に向けて叫んだ。
「こうなったら『幻妖剣士』も形無しだな!! さあ、これで終わりだ!!」
「くっ!……ああっっ!!」
少年が新たな技を放とうとしているのを察し、繚奈はどうにか体勢を整えようとするが、鳴り止まぬ不快音がそれを妨げる。
そんな彼女に少年は一切の容赦を見せずに、今度はクリスを回転させた。すると、その刀身から赤黒い炎が生まれ、すぐさま無数の弾丸となって繚奈へと襲いかかる。
彼女はそれに対して息を呑み、懸命に『紅龍刃』で防御の姿勢を取ったが、如何せん数が多すぎる。
(っ! ダメ、食らう……!!)
本能的に眼を閉じ、繚奈はダメージに備える。しかし、少年が放った赤黒い炎は、そんな単調な攻撃では無かった。
先程の音の波動と同じく、赤黒い炎が次々と繚奈を包囲していく。そして、訝しげにそれらを眺めた彼女に対して、少年が吠えた。
「これが、『新型』の神士の力だ!!」
彼のその言葉を合図に、炎の一つが瞬間的に爆発する。その直撃を受けて吹っ飛ばされた繚奈だったが、今度はその先に有った炎が爆発し、またも彼女を吹っ飛ばした。
「きゃああっっ!!」
〔繚奈!!〕
まるでピンボールの球の様に、彼女は連鎖して爆ぜる炎達に吹き飛ばされ続け、身体全体を傷つけられていく。
爆風を受ける度に彼方此方から血肉が飛び散り、皮膚が赤黒く変色していきながら天井近くまで飛ばされていった繚奈は、直後に爆発した炎で勢いよく床へと叩きつけられた。
「ぐっ……うっ……!」
全身から血を流しつつ、彼女は何とか『紅龍刃』を杖代わりにして身を起こす。
だが爆傷は激しく、少しでも力を入れると途端に激痛が奔る。加えて出血量も多く、辛うじて致命傷ではないが重傷なのが見て取れた。
〔繚奈、大丈夫ですか!?〕
(……何とか……ね)
不安を含んだ声で尋ねてきた『邪龍』に、繚奈はそう返事をすると、痛みを堪えて立ち上がる。
そんな彼女を見た少年は、勝ち誇った様な笑みを浮かべながら口を開いた。
「へえ……まだ立てるんだ。その気力は凄いと思うけど、だからと言ってそれで何か変わる訳でも無いよ」
「ちっ……ん?」
苦々しげに舌打ちし、少年を睨みつけた繚奈は、ふと妙な点に気づく。
彼の額に、いくつもの玉の汗が浮かんでいた。確かにこれまで彼も自分も戦闘で激しく動き回っていたが、それにしても尋常ではない量である。更に言えば、少年はどうもその汗に気づいてない様だ。
その時彼女は、ある考えに至った。咄嗟に『邪龍』に確認を取ろうとした矢先、向こうから声が掛かる。
〔っ! 見てください、繚奈。彼の様子、どうも変です〕
(ええ、私も気づいたわ)
自然と『紅龍刃』を握る手に力が入る。未だ激痛は収まっていないが、そんな事に構ってはいられない。
(これは、もしかして……ならば!)
僅かではあるが、確かに見えた光明。繚奈はそれを見失わない様にと、神力を『紅龍刃』に注ぎ込んだ。
どの道、今の身体の状態では長く戦えない。痛みは我慢出来るが、流れ続ける血を止める事は出来ないのだから。
信じるしかない、と彼女は思う。――――自分と『邪龍』が気づいた少年の異変。それが、思い描いたものであると。
「ふうん、それだけダメージを受けても戦えるんだ? 流石に『旧式』の中じゃトップクラスの実力者……とでも言おうか?」
「……好きにしろ。だが、一つ忠告をするのなら……」
嘲る少年に対して冷静に言葉を返しつつ、繚奈は徐に『紅龍刃』を鞘に納め、抜刀の構えを取る。
「相手が倒れていないのに、勝利を確信するのは愚の骨頂だぞ」
「っ! ボロボロの身体で偉そうに!!」
怒りの表情を浮かべて叫んだ少年は、再びダガーを回し始める。すると、依然として繚奈を取り囲んでいた音の波動が次々と消えていった。
一瞬、それらに注意を惹かれた彼女だったが、続いて発せられた少年の言葉にハッと彼に向き直る。
「今度こそ終わりにしてやる! この『フェンリル』で!!」
「……っ!!」
――――『フェンリル』
その単語に繚奈が反応すると同時に、少年は片手でクリスを回転させ、更にそのままの状態で眼前の空間を数度斬りつけた。
すると、その軌跡に炎が奔り鎖の様な形をとる。そして次の瞬間、炎の鎖で出来た空間から別の炎が出現し、それは瞬く間に狼の様な動物の姿へと変化した。
その姿に、繚奈は見覚えが有った。
―――真っ赤な毛で全身を覆った、自分にとっては縁の深い『神』……また、少年と相対する前に戦った獣。
(『爆狼』!? いえ、さっきの!?)
思わず眼を見張った彼女に、少年が追い打ちを掛ける様に叫ぶ。
「言っておくけど、これは量産型の『新獣』とは違うからな!! 灰すら残さず焼き尽くしてやる!!」
(『新獣』?……っ、そうか! あれは……あれは、そういう意味ね!)
ある事を思い出した繚奈の意識は一瞬、時を溯って記憶を呼び覚ました。
――――東暦2000年7月3日午後4時30分。
「……ああもう! 何処だったかしら?」
資料室に並べられた大量の本棚を前に、繚奈は自身の曖昧な記憶を頼りに『神幻獣図鑑』を探していた。
しかし、探す場所の規模が大きいのも手伝って、もう探し始めてから結構な時間が経っている。流石に苛立ちが隠せず悪態をついた彼女を『邪龍』が嗜めた。
〔繚奈、少し落ち着きなさい。それでは見つかる物も見つかりませんよ〕
「っ、分かってるわよ。でも、こうも見つからないと……あっ!」
思わず繚奈が声を上げた時、彼女の指先が『神幻獣図鑑』の表紙に触れていた。本棚の端、殆ど目立たない所に有ったそれを見て、繚奈は軽く息を吐く。
(……思い出したわ。確か昔も此処だった筈。きっちり元の間所に戻したのね。まあ場所を変えたり持ち出したりしたら、疑惑を持たれるからなのだろうけど……)
心の中でそう呟きつつ近くの椅子に腰掛けた彼女は、机の上に『神幻獣図鑑』を広げてパラパラとページを捲り始める。
「えっと、『鵺』のページは……あ、此処ね」
〔成程……確かに彼女が言っていた通りの走り書きですね〕
該当のページを探り当てた繚奈の言葉に続く様に、『邪龍』が呟く。その声に、繚奈もまた頷いた。
確かにあの職員の女性の言葉通り、『鵺』のイラストと簡単な解説の文章と合間に、薄く小さな文字で『フェンリル』と書かれてある。
他の箇所にも文字が書かれた痕跡が残っていた。それを確認した繚奈は、ある疑問を『邪龍』にぶつけた。
「ねえ『邪龍』、どう思う? 何故、義長はこの走り書きをそのままにしておいたのか……?」
〔さて、考えられる候補はいくつか有りますが……あの女性の言葉をそのまま信じるのであれば、研究者特有の異常行動とでもしておくのが一番ではないでしょうか〕
「……そうよね。色々とチグハグな点が有るし……せめて、この消された部分が少しでも読めれば……! 待って」
〔繚奈? どうしました?〕
何かに気づいた繚奈に『邪龍』が尋ねるが、彼女はそれには答えず持っていたペンを取り出す。
それがどういう意味なのか気づいた『邪龍』は、少しばかり呆れた様子で呟いた。
〔……それは無いと思いますよ、繚奈〕
「物は試し」
短くそう言った後、繚奈は痕跡の部分を軽くペンで塗り潰してみる。暗号遊び等で用いられる、消した文章を浮かび上がらせる方法だ。
しかし義長は別段筆圧が高くも無かったらしく、痕跡は綺麗に黒く塗り潰されていくばかり。大して期待してなかったのは事実だが、繚奈も『邪龍』も落胆の色を隠せなかった。
〔やはり無意味だったみたいですね〕
「もう、ハッキリ言わないでよ。ショックが大きく……ん?」
溜息交じりに『邪龍』に返事をしていた繚奈の手が、不意に止まる。なぜなら黒い背景の中に、白い文字が浮かび上がっているのを眼にしたからである。
慌てて彼女は注意深くその部分を塗りつぶし、義長が消したであろう文字を凝視した。
あくまで他の箇所と比べて筆圧が高かったというだけで、綺麗にとはいかなかったが、どうにか読み取る事が出来た繚奈は、その文字を声に出す。
「相性良しと思われ………新型の……試作一号……新獣……新獣?」
当然と言えば当然だが、走り書きであるそれは文章にもなっていない意味不明な物だった。しかし、その中でも彼女は特に最後の言葉に引っ掛かりを覚える。
――新獣。
初めて眼にした単語を前に、彼女は思わず眉を顰めた。
「何よ、新獣って? 『神獣』の書き損じかしら? 『邪龍』、知ってる?」
〔いえ、全く。けれども……単なる書き損じという気もしません。一応、彼らにも報告しておいた方がいいですね。繚奈、一旦休憩室へ戻りましょう〕
『邪龍』にそう言われ、繚奈はふと壁に掛けられた時計に視線を向ける。すると、間もなく午後5時になろうという時刻だった。
思っていた以上に、時間が早く過ぎていたらしい。その事に気づいた彼女は、『神幻獣図鑑』を閉じると、徐に立ち上がった。
「そうね。これ以上、手掛かりらしきものは無さそうだし……あっちも連絡が終わっているでしょうし」
……。
…………。
(あの単語から考えて、恐らくは……そんな事が出来るなんて信じられないけど、多分……)
〔繚奈! 来ます!!〕
「!!」
鋭い『邪龍』の叫びに、繚奈の意識は現在へと帰還する。それと時を殆ど同じくして、少年の獣が猛スピードで彼女に襲いかかった。
――――少年が『フェンリル』と呼び、繚奈にとっては『爆狼』という名の獣が。
「引き裂かれ、食い千切られ……焼き尽くされろ!!」
「くっ!!」
爪を振り翳し、牙を剥き出しにして襲いかかって来た獣を、繚奈は辛うじて回避する。
その際に無駄だとは感じつつも『紅龍刃』で一太刀を浴びせてみたが、獣は全くダメージを負った様子を見せず、再び彼女へと迫る。
かつて倒した『爆狼』とも、先程戦った獣とも違うその様子を見て、何かに気づいた『邪龍』が繚奈に向かって叫んだ。
〔繚奈! これはきっと『降臨術』です!!」
(え? それって、前に話してくれた……?)
心の中で尋ねながら、繚奈は『邪龍』と神化し神士となって間も無い頃の事を思い出す。
――――神士で有れば例外なく可能な技。しかし、極めて危険でもある技。
そう教えられたのが『降臨術』という技――その名の通り神を、この世に召喚して攻撃する技だ。
いや、正確には言えば少し違う。自らの神力を神化している神の形――『神獣』として具現化させ、対象を攻撃する技である。
似た様な物として『幻獣』が存在するが、実際にはそれと全く異なっている。
仮初とはいえ命を与えられた生物である『幻獣』とは違い、『降臨術』によって現れる『神獣』に命の概念は無いのだ。
故に死の概念も無く、一度具現化させれば『降臨術』を使った神士の意思以外で消える事は無い。つまり、不死身なのである。
そんな強力な技であるにも拘らず、使える様になる為の特別な修練等と言ったものは無い。ただ心の中で強く念じれば、神士になった直後からでも使える技なのだ。
但し、あくまでも『使える』だけで『使いこなす』となると話は別になる。『降臨術』に必要な神力が、通常の神の能力を使う時や『神器』を用いる時の比ではないからだ。
神士がこの世に生を受けた時から、神力は凡その量が定められている関係上、易々と使いこなせる者も居れば、どう頑張っても使いこなせない者も居る。
どちらかと言えば後者に属すると『邪龍』にかつて言われた事が有る繚奈は、これまで『降臨術』を使った事は無い。また、使う相手と対峙するのも今回が初めてだった。
しかし、だからと言って対処に困るという訳ではなかった。爪と牙で襲いかかって来る獣を紙一重で回避し続けながら、繚奈は『邪龍』に確認する。
(って事は、『邪龍』……こいつと戦っても埒が明かないのよね?)
〔はい、そうです。狙うのは彼……恐らく今なら、貴方でも力で抑えられるでしょう。例え、いかなる存在であろうとも、彼は少年なのですから〕
――――そう。『降臨術』最大の難点は、それだった。
自らの神力を『神獣』の形と具現化させ、攻撃する技。それは即ち、『降臨術』を用いている間、神士自体は殆ど神の力を失っている事を意味するのだ。
神の力が無ければ、神士は普通の人間と何ら変わらない。ましてや、相手は子供だ。純粋な腕力は高が知れている。
〔恐らく彼にとって、ああやって神器を回転させる事が『降臨術』発動の条件……精神集中の証でしょう。それさえ崩せば、必ず……〕
(成程ね)
〔それに……先程の事も有ります。とにかく、機を窺うのです〕
(了解!)
力強く返事をし、繚奈は迫りくる『爆狼』から回避し続ける。相変わらず全身の傷が痛むが、それでも何とか彼女は耐える事が出来た。
これまでの戦いで、何となくだが少年の性格は察しがついている。それから考えると、こうして回避し続けていれば、きっと何か行動を起こす筈だ。
そう判断し、血を流し続けながらも繚奈は獣の爪、そして牙から逃れ続ける。そのまま幾許かの時間が経過すると、遂に待ち望んでいた時が来た。
「ったく、すばしっこいな!! こうなったら……!!」
「!!」
苛立った様子で叫んだ少年が、回転させ続けるクリスの横で今度はダガーを回転させる。
それが何を意味するのか瞬時に察した繚奈は、一瞬心臓が凍る心地を覚えた。
(っ!? 『降臨術』の同時使用!? 『鵺』を呼び出す気!?)
〔まさか!? そんな型破りな事が出来る訳……!!〕
驚いた『邪龍』が否定の言葉を述べかけるが、現実は繚奈の言葉を肯定していた。
回転させたダガーで、少年が眼前の空間を数度斬りつける。するとその軌跡の中から、猿の顔に狸の胴体、更に虎の手足に蛇の尾を持つ獣が姿を見せた。
間違いない、と繚奈は思う。その獣はかつて『神幻獣図鑑』で見た『鵺』そのものだった。
「二体なら避けらないだろう!! さっさと倒れろ!!」
髪から大量の汗を飛ばしながら、少年が絶叫する。それを合図に、『鵺』の獣が大きく跳躍し、繚奈に襲いかかる。
『爆狼』の獣に比べれば緩慢な動きだったが、二体同時となると十分脅威だ。更に言えばいくら繚奈とて、『鵺』の獣の異形な姿には本能的な恐怖を覚える。
そして、その恐怖が僅かな隙を生んだ。一瞬ではあるが身を竦ませた彼女の肩に、『爆狼』の獣が爪を食い込ませ、怯んだ所に『鵺』の獣が二の腕を引き裂く。
「ぐっ!!」
〔り、繚奈!〕
「どうだ!! 今度こそ終わりだろう!!」
心配の余り上擦っている『邪龍』の声と、少年の叫びが繚奈の耳を打つ。しかし、その中に忙しない呼吸が隠れているのを、彼女は見逃さなかった。
(……今!!)
そう決断した繚奈は、敢えて『紅龍刃』を納刀し、そのままの姿勢で少年へと走る。
ハッとした彼が咄嗟に二体の獣を向けてきたが、それよりも僅かに彼女の動きが上回った。
少年に迫った繚奈は、素早く彼の両手首を掴んで捻り上げ、クリスとダガーの回転を止める。すると彼女が思っていた通り、二体の獣は瞬く間に姿を消した。
「なっ!? どうし……うわっ!!」
驚き、たじろいた少年から、繚奈は二つの『神器』を取り上げて無造作に投げ捨てる。当然、彼は繚奈の拘束から逃れようと抵抗したが、すぐにガクリと膝をつく。
その事が、酷く不思議に思えたのだろう。彼は荒く息を吐きながら、呆然とした口調で言った。
「あ、あれ? なんで……こんなに疲れて……?」
「どうやったのかは分からないが、疲労ぐらい認識する様にしてもらうべきだったな」
「な、何を!? あ……これ……僕の汗……?」
どうやら今になって、ようやく自分の身体の異変に気付いたらしい。眼を見開いて滴り落ちる汗を眺める彼に、繚奈は軽く溜息をついた後に言った。
「全く、機械みたいな子ね。まあいい、色々聞かせてもらうわよ」
すると途端、少年は驚いた顔でこちらを見やる。それが自分の言葉遣いの為だとすぐに分かり、彼女は思わず笑みを零した。
「……何よ? いきなり女口調になって、驚いた?」
「……さあね。それより、何が聞きたいんだよ?」
「あら、結構素直ね。話してくれるの」
「……別に、何も喋るなとは言われないから……あっ」
「っと! そうね、ならとりあえず……」
身体を崩れさせた彼をゆっくりと壁にもたれさせながら、繚奈は尋ねた。
「貴方の名前は?」
その問いに、少年は一瞬眼を伏せた後、小さく答える。
「…………双慈。……双の慈しみって書いて、双慈」
「グガアッッ!!」
〔避けろ、雄一!!〕
(!?)
切羽詰った『神龍』の呼びかけに、雄一は放心状態から立ち直り、今自分が危険な局面に居る事を再認識した。
咄嗟に彼は光美と共に身を低くし、『天上の庭』から出てきた獣の突進を間一髪の所で回避する。
そのまま素早く落としていた『龍蒼丸』を拾い上げると、雄一は今しがた襲いかかって来た獣を凝視した。
(こ、こいつ……何だ……? 幻獣?……いや、何か違う……)
――全身が黒い毛で覆われた、猛虎の様な獣。
鋭い牙を剥き出しにし、唸り声を上げているその様は、自然と背中に冷たい汗が流れる程の戦慄を覚えさせられる。
神士である彼さえこうなのだから、一般人である光美が感じる恐怖は凄まじいものなのだろう。
彼女は最早悲鳴を上げる声さえ出来ずに、引き攣った表情で荒い呼吸を繰り返しながら、雄一にしがみついていた。
「ふむ、もう立ち直ったか。流石にタフ……いや、単に然程気にならなかったのかな?」
「……っ……」
〔雄一、耳を貸すな!〕
「! あ、ああ……」
淡々とした義長の――今し方父親と知った男の言葉に動揺しかけた雄一だったが、即座に叫んだ『神龍』の声で、ある程度落ち着きを取り戻す。
しかし、やはり完全に平常心を取り戻したとは言えず、つい彼は眼前の獣から視線を外して『天上の庭』を見上げた。
(これが、俺の……それに……)
再び獣へと視線を戻した雄一に、義長が楽しそうに言った。
「まあ実の所、そうでなくては困るのだがな。私が生み出したこの獣……『新獣』の性能を試すのだ。腑抜けの状態でアッサリやられたとあっては、不都合というものだ」
「っ、『神獣』を生み出した!? どういう事なんだ!?」
獣を向き合ったまま、雄一は義長を一瞥しながら尋ねる。すると奴は軽く瞬きをした後、苦笑いを浮かべながら口を開いた。
「おっと失礼。説明も無しに言えば誤解するのも無理はないな。私が言った『新獣』と君が言った『神獣』は、全く別の物……そう、同音異義語という奴だよ」
「何?」
〔どういう事だ?〕
雄一と神龍は揃って疑問の言葉を口にしつつ、義長が『新獣』と称した獣を見据える。
「尤も、私が作った言葉なのだがね。強い神の力を秘めた、新しい生物……だから『新獣』という訳だよ」
「…………成程、私達が『旧式』とはそういう意味だったのね。そして、あの連中は…………にしても、『新型』の『神獣』と『神士』か。厄介なものを造ったわね」
「……あくまで、僕があの人から聞いた事を喋っただけだ。どこまでが本当かは分からないよ」
「分かってるわ。だけど、双慈」
「っ……何?」
今し方、教えたばかりの名を唐突に呼ばれ、双慈は一瞬たじろぎながら返事をした。
どうも、この『幻妖剣士』の性格が良く分からない。さっきまで戦っていた相手に、今はとても無防備な様を見せている。
おまけに言葉遣いまで変わっていて、どうにも変な調子になる。張り詰めていた気も、今は微塵も感じらなかった。
身体さえ普段通りに動けば、一瞬で仕留められそうだと、双慈は思う。――――そう、身体が動けば……。
「貴方……義長から何も聞いていないの? 自分の身体の事を」
「……聞いていたら、こんな負け方はしていない」
問い質すと言うよりも、心配する様な口調で尋ねてきた彼女から視線を外しながら、双慈は吐き捨てる様に言った。
「けど今の話じゃ、貴方は苦労の末に完成した『傑作』なんでしょう? なのに……」
「『造り方』さえ分かれば、後はいくらでも造れる……そんな所じゃないかな。どの道、僕は『傑作』と言えど、あの人の単なる『作品』の一つでしかないのさ」
――……でなければ、こんな身体にしたりはしないよな。
思い通りに動かない身体に苛立ちつつ、双慈は舌打ちする。
――――疲れを感じない……正確に言えば、神力が酷使しても、それを感じない身体。この戦いで初めて知った、自分の特性。
あの人――義長から、これについては一言も聞かされてなかった。それにどういう意図が有ったのか、自分には分からない。
単に教えるのを忘れていたのか、教える必要が無いと判断したのか、或いは教える事に不都合が有ったのか。
何にせよ、双慈には不愉快極まりないものだった。元々、好感情を抱いてはいなかったが、今では嫌悪の念が胸に募っている。
――――だからこそだろう。自分が知っている義長の事、そして彼の研究の事を躊躇い無く口に出来たのは。
「で? 聞きたい事は、もう終わり?……と言っても、もう僕が知ってる事は全部喋ったけど」
苛立ちを紛らわす様にそう尋ねると、『幻妖剣士』は形容し難い表情でこちらを見る。だが、それも束の間、小さく低い声で言った。
「一つだけ……確認しておきたいわ」
「何を?」
双慈が聞き返すと、彼女は軽く眼を伏せながら口を開く。
「昨日に起こった、刀廻町の『神連』の事は……本当なのね?」
「…………」
言われて彼は、昨日の事――義長に言われた『訓練』の事を思い出す。そして暫く経った後、徐に口を開いた。
「……信じる信じないかは、そっちが決める事。だけど、僕は嘘を言ったつもりはないよ」
「…………そう」
間を置いた後にそう呟くと、『幻妖剣士』は立ち上がり、双慈に背を向けて歩き出す。突然の事に驚いた彼は、思わず彼女に声を掛けた。
「ち、ちょっと!? 一体……」
「もう貴方と戦う気も意味も無いわ。理由は、それだけ」
こちらの言葉を先読みしたのか、歩みを止めぬまま繚奈はそう言う。
そして、道筋に落ちていた『鵺』のダガーと『フェンリル』のクリスを拾い上げながら続けた。
「自分じゃ分からないんでしょうけど、神力の酷使は貴方が思っている以上に身体への影響が大きいの。いくら貴方が『新型』とか呼ばれる物であろうとも、それは変わらないわ。
とにかく、今は此処で休んでなさい。これは後で返してあげるから」
スッとこちらに二つの『神器』を見せた後、『幻妖剣士』はそれを懐にしまう。
そのまま用が済んだとばかりに出口へと向かう彼女に、双慈は淡々とした口調で尋ねた。
「……あの人の所へ行く気? 場所も分からないのに?」
「そうね。だけど、放ってはおけないわ。光美と……あいつの事も気になるし、虱潰しに探すまでよ」
「……そんな体力が残ってるの?」
『幻妖剣士』の身体の彼方此方に有る包帯を眺め回しつつ、双慈は皮肉交じりに言う。敗れたのはこちらだが、傷の程度で言えば彼女の方が圧倒的に酷い筈だ。
その上、ちゃんとした治療もせず応急手当で済ましている現状、いくら『幻妖剣士』と言えど満身創痍である事は間違いないだろう。
――……他人の心配をしている場合じゃないだろうに。
双慈のそんな心の呟きが聞こえたのか、『幻妖剣士』は歩を止めるとクルリとこちらに顔を向け、小さな笑みを浮かべる。
「あら、心配してくれるの?」
「まさか」
間髪入れずそう答えると、彼女は軽く吹き出しつつ「そうね」と呟いた。
「冗談よ、気にしないで……それじゃ」
「…………」
笑顔のまま再び背を向け、『幻妖剣士』は歩き出した。そんな彼女の後姿を見て、双慈は言い様のない感情を覚える。
胸がざわつき、ジッとしてられなくなる。彼は無意識に身体を捩り、呻き声を漏らしつつ考えた。
(っ……やっぱり、休んでなんかいられないよな。あの人に……一言の文句でも言ってやらないと気が済まない)
結論を出した彼は我武者羅に力を入れ、鉛の様に重い身体を強引に立ち上がらせる。
元より、怪我らしい怪我は無いのだ。蓄積されている疲労を感じない以上、動かす事自体にはそこまでの労力は必要ない。
(問題は、後でどうなるかだけど……まあ、良いや)
自嘲気味に無声で笑った後、彼は独り言の様にポツリと呟いた。
「16階」
「えっ?」
耳聡くその言葉を聞きつけた『幻妖剣士』が、虚を突かれた様な表情でこちらに振り返る。そんな彼女に、双慈は繰り返した。
「多分、そこに居ると思うよ。専用のエレベーターを使えば、すぐに着くさ」
「……案内してくれる?」
一拍の間を置き、『幻妖剣士』が尋ねてくる。それに対して、彼は嘆息と共に答えた。
「そのつもりだから、こうして立ち上がったんだよ」