第六章〜始まりの暗闇〜

 

 

 

 

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――――東暦1991年2月3日午後4時。

今週最後の学校を終えた光美は、仲の良い友達数人と帰路についていた。

一概に週最後の放課後というのは、普段のよりも格段に喜びが大きい。明日、明後日の休みをどう使うか……誰もが、そんな事を考える物だから。

無論、光美達も例外ではなく、二日の休日をどう過ごすのか話しながら歩いていた。

そんな中、一人が不意に何かを思い出したかのように立ち止まる。

「あっ、そうだ!」

「?……どうしたの?」

「ねえ、みんな! 明日、朝早い?」

「え?……ううん、そんな事ないけど?」

「私も。明日はお昼ぐらいまで寝ようと思ってたんだけど……光美は?」

「あ、うん。私もそんな事ないわ。別にどこか出掛ける予定もないし」

「本当!? だったらさ、今日の深夜にちょっと、出掛かけない?」

「「「……はい?」」」

言い出した一人を除き、その場にいた全員が素っ頓狂な声を上げた。

――――何で小学生しかいない場で、『深夜に出かける』なんて話になるんだろう?

誰も口には出さないが、同じ疑問を抱いた三人は無言で顔を見合わせる。そんな三人に、発言者の少女は尋ねた。

「みんな、聞いた事ない? この町の森の中で、深夜になると妖怪が出るって話」

「ああ、それなら知ってる。……って、もしかして肝試し? やめときなさいよ。そんな噂、嘘に決まってるわ」

「そうそう。大体、草がガサガサ動いたぐらいで妖怪って言うんなら、世界中に妖怪がいる事になっちゃうじゃない」

「う、うん。私もそう思う」

友達の意見に賛同して、光美は頷く。この町――剣輪町の森の噂は、以前から彼女も知っていた。

丑三つ時ぐらいになると時々、森の中から草木が揺れる音や何かの足音が聞こえるという話である。

夜行性の動物か何かの仕業なんじゃないかというのが通説だが、この手のお決まりというべきか尾鰭が次々とついて怪談になっているのだ。

少なくとも、光美はそう考えている。否、そうであると願っている。お化けとか妖怪とか得体の知れない存在が、彼女はとても苦手なのだ。

――――そういうのは、物語の中だけにいて欲しい。

そんな思いを胸に抱えた光美を含む、消極的な態度を見せる面々に、件の少女は不服そうに頬を膨らませる。

「別に肝試しに行きたいんじゃないわ。ただ、ちょっと気になるのよ。ほら、あの森って『狩猟者注意』の看板が一枚も立ってないでしょ?

 私、他の森にはあるのに変だなあって思ったから、この前お祖母ちゃんに聞いて見たの。

そしたらあの森って、昔から動物が全然いないんですって。……これって凄く、不思議だと思わない?」

「う、うん。何か、ありそうな気は……するわね」

「た、確かに……光美はどう思う?」

「え!? わ、私は……よ、妖怪とかは怖いから、いないでいると嬉しいなって」

自分の気持ちを正直に吐露した彼女に、怪談少女が宥める様に言った。

「そんな怖がる事ないじゃない、光美。それにね、噂じゃあの森にいるのは妖怪だって言うけど、本当はもっと別の何かなんじゃないかと思うの」

「別の何か?」

「そう。具体的に言うと……神様がいるんじゃないかって思ってるの、あの森には」

「「「か、神様ぁ!?」」」

先刻よりも数段に素っ頓狂な声を出し、光美達は唖然とした表情をする。

暫くの間、そのままポカンと口を開けていた光美だったが、やがて複雑な表情で口を開いた。

「神様って、あれでしょ? 姿は見えないけど私達の周りにいて、すっごい力を持ってて、時々人に乗り移ったりするって言う……でも、それは

御伽話だって、お母さんが言ってたよ?」

「私の親もそう言ってたわ。けどね、もしそうだとしたら、とっても素敵な事だと思わない?

『あの森の噂の真実……それは、神の仕業だった!』とかさ!!」

「あ、貴方って……そういうの、好きだったのね」

「ほ、本当……ちょっと、意外」

「……うん」

友達の新たな一面を目の当たりにし、一同は呆然として足を止める。

――――どちらかと言えば活発そうな少女が、こんなオカルトな話題が好きだったとは……。

そんな事を考えて、何とも言えない顔をしている彼女達に、少女はハシャぎながら言った。

「ね? だからさ、一緒に行きましょうよ。流石に夜遅くに長い間歩き回る訳にはいかないから、三十分ぐらい森の中を歩くだけだから。

 勿論、そんな奥にも入らないし」

「そうねえ……親が許してくれたら、行ってもいいけど」

「私も。ちょっとだけなら、興味あるし。……光美は?」

「み、みんなが行くっていうんなら、私も行こう……かな?」

曖昧な笑みを浮かべながら、光美は友達に返事をした。

本当は行きたくないという気持ちの方が強いのだが、友達との付き合いも無下にしたくなかったからである。

「OK! それじゃあ、今夜一時半ぐらいに私の家にきてね。持ってくる物は懐中電灯が必須として、草なんかで肌を切るかもしれないから、

 絆創膏や消毒液も出来れば準備して。お菓子は持ってきてもいいけど、その場合は必ずゴミ袋を持ってくる事。

 神様が住んでるかもしれない所を、散らかしちゃマズイからね」

「「了解」」

「り、了解」

――――こうして光美達四人は深夜、『神』がいるかも知れない森へと出向く事になった。

……。

…………。

 

 

 

 

 

 

 

――――東暦2000年6月30日午後7時。

「ただいま……」

空しく響き渡る帰宅の挨拶をしながら、光美は自分のアパートの玄関で靴を脱ぐ。

そして持っていた買い物袋の中身を取り出し、台所に並べながら呟いた。

「さて、夕飯の支度支度。今日はお肉が安くて沢山買えたから、肉じゃが一杯作ろうっと」

別に誰かに話しかけてる訳でも……そもそも話しかける相手もいないのに、態々声に出してこんな事を言う必要は元来無い。

しかし、胸の内から溢れ出そうになる寂しさを抑えるには、こうでもしないと到底出来ないと光美は思っていた。

――――両親が事故で他界してから、もう早三年。

あの日から、こうして家事を全て自分でこなすのが当然になった。いや、ならざるを得なかったというのが正しい。

それに対して不満が無いという訳ではないが、光美は特に現状には悲観していない。と言うより、この現状は自分で選んだ物でもあったのだ。

両親が無くなった際、光美には遠くの町に住んでいる親せきの所で世話になるという選択肢も存在した。

しかし、彼女はその選択肢を選ばなかった。理由は簡単、この町――剣輪町を離れたくなかったから。

自分が生まれ、自分が育ち……そして、思い出に満ちているこの町を離れるのは、どうしても避けたかったのだ。

結果として親戚の人にも理解され、金銭面の援助を受けつつ、光美は一人になった今でも剣輪町に住んでいるのである。

「それにしても……あの店員さん、どうしたんだろう?」

手際良くジャガイモを一口大に切りながら、彼女はつい一時間程前の出来事を思い返す。

――――久しく行ってなかったゲームセンターに、何の気なしに遊びに行った今日。

せっかくフィギュアが取れたのに機械が故障し、途方にくれている自分に男性店員が声を掛けてきた。

不意に声を掛けられビクリとしながら振り返った瞬間、向こうも何か信じ難い物を見た様な表情をしたのを、光美は覚えている。

(あの時、あの人……何か言った気がするんだけど……私の勘違い……? それにしても、何で私の顔見て驚いた顔したんだろう?

 ……あ! 私のこの傷見て、ビックリしたのかな?)

その後、何も言わずに機械を修理して去っていった彼だったが、そう考えれば納得がいく。

「ま、仕方ないよね。……酷い傷だもん、我ながら」

光美はスッと傷跡をなぞり、自嘲気味な笑みを浮かべる。すると、不意に眼元に涙が滲み、彼女は慌ててそれを拭った。

「あ、やだ。何でだろう? タマネギ切ると涙が出るってのは知ってるけど、ジャガイモで涙が出るなんて変なの……」

 

 

 

 

 

 

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…………。

――――東暦1991年2月4日午前2時。

不意に周囲を駆け抜けた風の音に、四つの懐中電灯がビクリと跳ね上がる。

「っ……うう、疑心暗鬼ってこういう事を言うのかな? ただの風の音が、何かの鳴き声みたいに聞こえるわ」

「そうね、これが噂の妖怪の鳴き声だったりして……ま、私としては神様のだったら嬉しいんだけど」

「私はどっちも嫌だよ〜〜!」

「う……わ、私も」

幸運にも全員親の許可が下りた光美達は、件の森の中をおっかなびっくり歩いていた。

『草木も眠る丑三つ時』という言葉通り、辺りは不気味なくらいに静まり返っていて、聞こえてくるのは風の音だけである。

この森に動物が生息していないというのも、強ち嘘では無い様だ。しかし肝心の妖怪、或いは神といった類の物は、一向に姿を見せない。

そういった物が出そうな雰囲気ではあるのだが、あくまで雰囲気で終わっている。

元々余り乗り気ではなかった光美を含む三人は勿論、提案した少女の顔にも、段々と疲労の色が浮かび上がっていた。

そしてついに、彼女が切り上げの言葉を口にした。

「ううん、これで一通り森の入り口辺りは見て回ったわね。……ちょっと早いけど、そろそろ帰ろっか?」

「えっ、いいの? 三十分ぐらいは粘るって、夕方言ってなかった?」

光美が聞き返すと、オカルト好き少女は苦笑しつつ答える。

「ええ、そのつもりだったんだけど……これ以上奥に入るのは私も怖いし、かといって入り口付近はもう歩いてない所はないしね。

これ以上いても仕方ないでしょ?」

「そうね、私もそれに賛成。ま、それなりにスリルはあったし、悪くない経験だったかも」

「うんうん。今度はもっと大勢で肝試しをしてもいいんじゃない? 勿論、夕暮れ時とか、もっと早い時刻にね」

「い、いいかもね。……さ、さあ帰りましょう!」

――もし、そういう事になったら、その時はハッキリと断ろう……。

心の中で決心の言葉を呟きながら、光美が皆に同調した時だった。

「「「「……っ!?」」」」

不意に近くから草の揺れる音がし、四人はビクッと体を振るわせた後、一斉に懐中電灯をそちらに向ける。

小刻みに揺れる四つのライトが草薮を照らすが、別段に変った所は無い。それを確認した一同は、怖々と会話をしはじめた。

「な、なによ……ただの気のせい?」

「そ、そうじゃない? 現に何も無いし。……き、きっと風で揺れた音だったのよ!」

「……でも、今風吹いてないよ?」

「……だよね……?」

「「「「………」」」」

――……まさか?……まさか……!?

光美の脳裏に、嫌な予感が浮かぶ。

一刻も早くこの場から逃げ出したいのに……一刻も早く顔を逸らしたいのに、全身が金縛りになった様に動かない。

「きき、きっと何か小さな動物でもいたのよ、やっぱり。草って、そんなのでも結構揺れて音がするし……」

「で、でも……今の時間に起きてる動物なんて、この辺にいるの? 夜中の二時だよ?」

「うん……って事は、やっぱり……これは妖怪か……または神様か……」

「や、やめてよ! 変な事言わないで!!」

怖さが最高潮に達した光美が、悲鳴混じりに叫ぶ。

いや、ただ怖いだけではない。何かこう、とてつもなく嫌な事が起こりそうだと、彼女の中の何かが伝えていた。

(……何よ、これ……何でこんなに、寒気がするの?……何でこんなに、気持ちが悪いの?)

こんな息苦しい感じになったのは初めてだ。一体、何があってこうなってしまっているのか分からず、光美は困惑する。

――もう嫌! 早くここから離れたい!!

そう思った彼女が友達に話かけようとした刹那、眼前の草が激しく揺れた。

「「「「っ!?」」」」

――――これはもう、明らかに『何か』がいる。

そう直感した四人は、無意識にジリジリと後退りをし始めた。

それに比例するかの様に、草が大きく激しく揺れ、音を立てる。そして次の瞬間、そこから『何か』が飛び出した。

「……グオオオオオオッッ!!」

「「きゃああぁぁっっっ……!?」」

「「い、嫌ああああぁっっっ……!?」」

犬、いや虎……否、それらよりも遥かに大きな生物が、雄叫びと共に彼女達の頭上を飛び越える。

悲鳴を上げる共に尻餅をつきながら、光美達は『それ』を凝視した。

尻餅をつく時に落としてしまった懐中電灯が、全身をハッキリと映し出している。

――――全身が炎の様な赤い毛に覆われ、今にもその鋭い牙を剥かんと、ルビーの様な紅の眼でこちらを睨み付けている獣。

こんな生物を、光美は勿論、誰も見た事は無いだろう。それはとても神々しく……そして、禍々しい獣だった。

「グルルルルル……!!!」

「「「「……っ!」」」」

――――食べられる……!!

同時にそう直感した四人は、落とした懐中電灯はそのままに、それぞれ一目散にその場から逃げ出した。

何処へ、等と考えている余裕等無い。とにかく、この獣から逃げ切る事。それだけを考えて……。

……。

…………。

 

 

 

 

 

 

 

「……痛っ!」

不意に手元が狂い、軽く自分の手を切ってしまった光美は、ハッと我に返った。

「いっけない……考え事してて、ボンヤリしてたわ」

水道で傷口を洗いつつ、彼女は軽く首を振って気を持ち直す。

昔から、ふと気がつけば思い返してしまう記憶。忌まわしい様で、決して忘れてしまってはいけない気がしてならない記憶。

「事実は小説より奇なりって言うけど、あの時はそう痛感したな」

出血が止まった傷口に絆創膏を貼りながら、光美はポツリと呟く。

――――あの時……自分は、とても怖かった。けれど、本当に怖かったのは……。

「……あの後の出来事、だよね」

呟くと同時に、彼女は無意識に瞳を閉じる。

――――そう、あの後……あの後に起こった出来事は、今でもハッキリと覚えている。

あの怪物から必死で逃げた後、自分は何処かの茂みに身を隠していた。

そして暫く経った後、何かの足音が近づいてくるのが微かに聞こえ、生きた心地もせずに数分息を殺しつづけた。

やがて何の音も聞こえなくなり、そっと茂みを掻き分けて様子を伺った自分に、振り下ろされた一筋の線。

その線は自分の右頬を駆け抜け、一瞬の間を置いて激痛と出血を残していった。

――――……あの時に一体、何が起こったのか。今でも光美には分からない。

分かっているのは唯一つ。その線を自分に刻んだ主が、一番大切な存在である男の子――雄一であったという事だけだ。

何故、彼だと分かったのか。それすらも、光美は分からずにいる。

何もかもが不可思議で、不条理な記憶。それでも、確かな実感を持つ記憶であった。

「今……どうしてるかな?……ゆういっちゃん」

そっと右腕のブレスレット――雄一が贈ってくれたブレスレットを眺める光美の瞳に、再び涙が滲み出る。

あの時、自分が微かに彼の名を呼ぶと……彼は、逃げる様に背を向け、暗闇に中に消えていった。

自分が雄一の姿を見たのは、それが最後である。まるで、最初からいなかったかの様に、彼は自分の前から姿を消した。

今まで共に過ごした時間が全て幻であったかの如く、雄一はいなくなったのだ。

「……何……で……?」

一粒、また一粒と、涙の雫が俎板の上へと落ちていく。

「何で……? 何でいなくなっちゃったの……?……ゆういっちゃん……」

次々と溢れる涙を拭おうともせず、光美はひたすらに涙を零す。

その涙に秘められた感情は、右頬を斬られた事による憎しみでも、謝罪もなしに去っていかれた事による怒りでもない。

ただ純粋なる、寂しさと哀しさ。勝手な想いかも知れないが、ずっとずっと続いていくと思っていた物が、一瞬で無くなった事によるものだ。

「……また……会いたい……な」

そう呟いた後、光美は久しぶりに声を上げて泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  

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