第七章〜夢での別れ、現実での再会〜
……。
…………。
――――東暦1991年2月5日午後3時。
「暇だなあ……」
病室のベッドの中でゴロリと寝返りをうちながら、光美は誰ともなしに呟いた。
「早く退院したいな。お父さんもお母さんも、心配性なんだから」
ブツブツ言いつつテレビのリモコンを握り、適当にチャンネルを回してみる。
何か暇つぶしになる様な番組はないかと探してみるが、やはり時間帯が悪いせいか子供が見る様な番組はやっていない。
ワイドショー、ドキュメンタリー、サスペンスドラマ――どれも光美にとっては、欠伸が出る程に退屈な番組ばかりだ。
「はあっ……ま、仕方ないか。もう少ししたら皆来るだろうし。何か適当な……」
そこまで言いかけて、光美はふとチャンネルを変えていた指を止める。
テレビ画面には森の中を歩いている警察の集団が映り、女性アナウンサーの解説が聞こえてきた。
『……依然として捜査が行われていますが、これといって発展は無く、動物等が住んでいる形跡は見当たらないとの事です。
尚、問題の少女達の内、三人は既に学校にも通っており、警察は後日改めて事情聴取を行う模様です。
残る一人は獣につけられたと思われる傷を負い病院で手当てを受けていますが、命の方に別状はなく近々退院して……』
「っ……」
やや乱暴にテレビの電源を切ると、光美はリモコンを布団の上に放り出す。
「……獣につけられた傷、か」
思わず自分の頬に巻かれた包帯に手を伸ばしつつ、ポツリと彼女は呟いた。
――――あの夜に起こった事が一体何だったのか、結局誰もよく覚えていない。
噂の真相を確かめるべく、深夜二時頃に森の入り口辺りを歩いていた自分達。
そして帰ろうとした時、近くの草陰から飛び出してきた化け物の様に獣に襲われ、バラバラに逃げ出した。
皆、覚えているのはここまでだという。尤も、光美はその後雄一と出会い、彼に右頬を斬られた所まで覚えていたのだが。
しかし、それ以降の記憶は全く無く、気がついた時には全員病院のベッドに横たわっていたのだ。
看護士の話によると、朝になっても帰ってこない事に心配して捜しに来ていた親達が、森の近くで気を失っている自分達を見つけたらしい。
その内三人は特に異常はなかったが、一人だけ左頬に無残な傷があったのだ。
――――言うまでもなく、その一人とは……光美の事である。
そして光美達は口々に大きな獣に襲われた事を話し、今現在、剣輪町は大騒ぎになっているのだ。
『以前から奇妙な噂のあった森に、人を襲う獣が潜んでいる』――そんな噂はこの小さな町に瞬く間に広まり、連日警察による山狩りが行われている。
特に左頬の傷が獣につけられたと思っている光美の両親は酷く彼女を心配し、すっかり過保護になってしまった。
これまで穏やかだった剣輪町の空気がガラッと変わってしまい、光美は悲しくならずにいられない。
(……どうなっちゃうんだろう? この町)
不意に暗い感情が押し寄せてきたのに、彼女はわざと声を出してみた。
「ま、いいか。ゆういっちゃんから話を聞けば、少しは何か分かるかも知れないし。あ〜あ、早く学校に行きたいな」
入院した昨日、友達や先生が大勢お見舞いに来てくれたが、その中に雄一の姿はなかった。
けれど光美は、それは当然だと然程落ち込んだりはしなかった。
詳しい事情はよく分からないが、あんな事があった手前、お見舞いになんか来れないだろう。
だから退院して学校に行ける様になったら、こっそり彼から話を聞けばいいと、光美は思っていた。
と、その時ノックをする音が聞こえ、彼女は間延びした声を出す。
「は〜い、どうぞ〜」
光美が答えるとドアが開き、父親の陽太と母親の蛍子が入ってきた。
「あ、お父さんお母さん」
「光美、具合はどうだ?」
陽太が尋ねると、光美は元気よく頷く。
「うん、もう大丈夫。明日からでも学校にいけるよ」
「またそんな事言って……もう暫く学校はお休み。女の子が顔にそんな包帯巻いてたら、笑い者にされるわよ」
窘める口調でそう言いながら、蛍子は光美を軽く睨み付ける。
やれやれまた始まった、と思いながら、光美は少々うんざりした顔つきで口を開いた。
「もう、お母さんってば。そんなの心配する事じゃないわよ」
「いけません。とにかく、学校に行くのは当分禁止です」
「そうだぞ、光美。お母さんの言う事を聞くんだ」
「……は〜〜い」
父親まで敵に回ったら、自分に勝ち目はない。
仕方なく光美は生返事をし、ベッドの倒れこみながらふと呟いた。
「早く、ゆういっちゃんと会いたいって思ったのに」
「「っ!」」
「……ん?」
瞬間、両親の表情が変わったのに、光美は気づく。光美は不思議そうに首を傾げながら、二人に尋ねた。
「どうしたの?……お父さん? お母さん?」
「「…………」」
陽太と蛍子はその問いには答えず、互いに顔を見合わせて顔を曇らせ、悲しそうに俯き加減になる。
(何? なんなの?……ゆういっちゃんがどうかしたの?)
急速に不安が心に広がっていくのを感じ、堪らなくなった光美はもう一度尋ねようとした。
「ねえ、二人共……」
しかし、それを遮って蛍子が口を開いた。
「光美……落ち着いて聞きなさいね」
「……えっ?」
「……雄一君……転校したんですって」
「っ……転……校……?」
――――その時光美の中で、ガシャンと何かが壊れる様な音がした。それは、今まで過ごしてきた雄一との思い出が、無残に壊れゆく音であった。
……。
…………。
――――東暦2000年7月3日午前8時。
「いやああああっ!!!」
光美は悲鳴と共に、布団をはねのける様に身を起こした。
「はあっ……はあっ……あれ?」
しかし、自分が今いる場所が病院ではない事に気がつき、ふと首を傾げる。
(ここ、何処? 病院じゃないし……アパート?……あっ!)
瞬間、彼女は自分がとんでもない勘違いをしていた事を理解した。
「やだ、私ったら。夢と現実が、ごちゃ混ぜになってたわ」
大きく息を吐いた光美はのそりと身を起こし、顔を洗うべく洗面所へと向かう。
今日は大学も休みだし、まだ寝ていても問題ないのだが、どうもそんな気にはなれなかった。
(久しぶりね……あの夢……)
彼女の脳に焼き付いて消える事のない、楽しかった日常が突然変わってしまった日の記憶。
その日から幾度と無く、夢の中で再現されてきた、消したくて消えなくて……そして消えて欲しくない記憶だ。
「昨日、思い出しちゃったからかな……ゆういっちゃんの事を」
そんな独り言を呟きながら、光美は洗面台の蛇口をキュッと捻り、流れ出した水を両手で受け止め、顔へと運ぶ。
真夏という事もあってか、お世辞にも冷たい水ではなかったが、多少の気晴らしには違いなかった。
彼女がそうして数回洗面を繰り返していると、突然聞き慣れたメロディが聞こえてくる。
「あっ、繚奈からメールだ」
急いで顔をタオルで拭い、光美は部屋に戻ると小さな机の上にある携帯を手に取った。
「何だろう? こんな朝から。それに珍しいな、向こうからメールなんて。えっと、何々……」
『ごめん、朝早くから。今日もし良かったら、お昼頃会える?』
昔から変わらない絵文字もデコレーションも皆無のシンプルな文章に、光美は知れず笑みを零す。
こんな他愛の無い事でも、今の彼女には十分な慰めだった。
素早く『いいよ、了解』と返信すると、光美はパチンと携帯を閉じ、何の気なしに窓のカーテンを開けた。
「久々だなあ、繚奈とお茶するのも。この前会った時、近く顔見せるって言ったけど、それっきりだったもんね」
――そう言えば繚奈、あの時ちょっと様子が変だったけど……大丈夫だったのかしら?
数日前、田んぼ道でバッタリ出くわした時の事を思い返し、光美は暫し思案に暮れる。が、それを中断させる様に、再び繚奈からメールが届いた。
『ありがとう。じゃ、私がそっちに行くから、あの喫茶店に十二時で良い? それと輝宏も連れてっても構わないかな?』
「へえ、繚奈、こっち来るんだ。あの喫茶店……うん、久々にいいかもね」
あの喫茶店――中学、高校時代に繚奈とよく通っていた喫茶店の事である。
大学生になってからは繚奈が引っ越し、光美自身も大学と距離が遠くなってしまったので疎遠になっていたのだ。
(にしても、まだ覚えてたんだ繚奈。私は、殆ど忘れかけてたのに……)
そんな事を思いながら、光美は『うん、OKだよ。じゃ、十二時にね』と返信する。
程なく繚奈から『了解。それじゃ』というメールが届いたのを確認すると、携帯を閉じて大きく伸びをした。
「さ〜〜てと! 予定も決まったし、朝ご飯食べようっと! あ〜〜早く会ってお話したいな。繚奈と輝宏君と」
――やっぱり、いなくなっちゃった人よりも、今いる人の方が大切だよね。
まるで自分にそう言い聞かせるかの如く心の中でそう呟きながら、光美は着替えをし始めた。
――――そうしなければ、また深く暗い考えに沈んでいくのを、止められそうにないと理解しつつ。
――――東暦2000年7月3日午前11時50分。
約束の時刻よりも少し早くに、光美は喫茶店の自動ドアをくぐった。
うんざりする外の熱気とは裏腹に、店内は少し強過ぎではないかと思うくらいの冷房が効いている。
急激な温度の変化に若干戸惑いながら店員の出迎えを受けた光美の耳に、繚奈の声が聞こえた。
「光美〜! こっちこっち!」
「ひーかーみ! こっちこっち!」
声の方に振り向くと、繚奈と彼女の膝に座っている輝宏が揃って手を振っている。
光美はそららに笑みを返しつつ、店員に連れである事を告げ、二人の座っている席へと着いた。
「今日はありがとう、光美。この間はごめんなさいね、変な態度とっちゃって」
「ううん、気にしてないわ、繚奈。……それにしても、ちょっと見ない間に大きくなったわね、輝宏君」
「えへへ」
嬉しそうに笑う輝宏の髪を、繚奈は優しく撫でる。
その顔は正しく自分の親友の顔で、この前に会った時の様なよそよそしさは何処にも無かった。
「本当にね。何の問題も無く育ってくれて嬉しいわ。生まれた当初は、どうなる事かと思ったけど……」
「そっか。確か、人工授精で産まれたんだったよね」
言いながら、光美は中学生の頃に繚奈が言っていた言葉を思い出した。
――……ねえ、光美? 私さ……男の人と付き合いたくは無いけど、自分の子供は欲しいのよ。………これって、やっぱり変な考えかな?
(……とんでもなく女癖が悪いって言ってたな……繚奈のお父さん)
その事が原因で家族がバラバラになってしまったのだと、さも何でもない事の様に話していた昔の繚奈の顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
――――それと同時にその声から感じられた、様々な感情も。
(三歳の頃にお父さんが女の人と駆け落ちして、六歳でお母さんが病死して、施設に入ったのよね。……そりゃ、男の人が嫌いになるのも、当然か)
――――男性への疑念……憎悪……恐怖。
一種のトラウマとも言うべきそれらが、無意識に繚奈が男性と一定の距離を保つ原因になっているのだ。
にも関わらず、彼女は自身の子供を産む事を強く望んでいた。その理由は、光美にも何となくだが分かる気がする。
(血の繋がり……なのかな、やっぱり)
繚奈には血縁者がいない。正確に言えば、いるかどうかも分からないのだ。
父親から見捨てられ、母親が死に、双方の両親も既に他界している。
自らと同じ血が流れる者が、誰一人としていない不安。繚奈が子供を切望する理由はそれではないかと、光美は考えていた。
(違うかもしれないけど……もしそうだとしたら、ちょっとは分かるな。私も似た様なもんだし)
だからこそ、彼女は繚奈の問いに対して、こう答えた。そんな事はない、と。どんな形であれ、子供を望むのは別段変な考えではない、と。
それを聞いた繚奈が感慨深そうに、「ありがとう」と言ったのを、光美は今でもしっかり覚えていた。
そうして数年後、彼女は『人工授精』という選択肢を選び、輝宏という子を設け、シングルマザーとして現在に至っているのである。
(まあ、これから先、輝宏君が成長していったら、色々問題も起こるだろうけど……繚奈なら、きっと大丈夫だわ)
――少なくとも、望んでも無い子供を身勝手に作っといて虐待している母親なんかより、ずっとずっと立派よね。
そんな光美の心情を知る由も無い繚奈は、光美の問いに笑顔で頷いた。
「ええ。実は低出生体重児だったのよ、輝宏。だから異常が発生するかもって医者が言ってから、心配してたけど……元気だもんね、輝宏は」
「うん! ねえ、まーま。おなかすいた〜」
「クス……はいはい。さて、何を食べよっか?」
すっかり母親が板についてきた親友の問いに、光美はメニューを捲りながら答える。
「う〜〜ん、めっきり来てなかったからなあ……メニューも大分変わってるし……あ! このパスタ、懐かしい。まだ、あったんだ」
「え?……ああ! 高一ぐらいの時、良く食べてたわね」
「そうそう。水音さんが勧めてきて、すっごく美味しくて。試験が終わった時とか、決まってこれだったじゃない?」
「ええ、覚えてるわ。……今頃どうしてるかしら? 水音さん」
「……そうだね。元気でいてくれれば、それで良いんだけど」
二人が高校三年生になって暫くした頃に、水音はこの店を辞めていた。
それ以来、繚奈も光美も彼女の姿を見ていない。辞めた理由も、全く分からなかった。
ただ、知り合いである光美にすら何も告げずに辞めたという事から、あまり良くない事が理由だとは推測出来たのだが。
「?……まーま? ひかみ?」
「っ?……あ、ああゴメン、輝宏! 何でもないの」
「そ、そうよ輝宏君、気にしないで。あ、は、早く注文しましょう! すいませ〜ん!」
暗い雰囲気を感じ取ったらしい輝宏に取り繕った笑みを向けながら、光美は慌てて店員を呼んだ。
――――東暦2000年7月3日午後1時。
「美味しかったあ! あのパスタ、昔と全っ然味変わってなかったね」
「本当。輝宏も良く食べたわね」
「うん!」
穏やかに我が子に話しかける繚奈に、光美は尊敬の眼差しを向ける。
「……それにしても、やっぱりすごいな繚奈は。しっかり母親やってるんだもん」
「クス、ありがとう。でもね光美、女性ってのは子供を持つと、自然にこうなるものなのよ」
「え〜? そうかなあ?」
「そうよ。貴方も子供が欲しいと思って、子供を設けたら……きっと分かるわ」
「……う〜〜〜ん……」
繚奈の言葉にどう返事をしたら良いのか分からず、光美は首を傾げながら頭を掻いた。
子供を設けたら、と言われても、今現在彼女にそんな予定は無い。
別に子供がどうしても欲しいとも思わないし、そもそも自分が母親になるというのが、イマイチ想像できなかった。
(ま、いっか)
ここでそう深く考えなければならない事でもないだろう。そう思った光美は、気持ちを切り替えて繚奈に尋ねた。
「それで繚奈、これからどうする? 流石にもうお開きって事はないでしょ?」
「勿論。でも、実は全く計画立ててないのよね。……アクセサリーショップでも覗いてみる?」
「へ〜意外! 繚奈、いつの間にお洒落する様になったの!?」
「い、いや、別にそういう訳じゃ……私は、光美から貰ったコレがあれば十分だし」
そう言いつつ繚奈は軽く頭を振り、両耳のイヤリングを揺らす。
光美もそれを見て、両腕に付けている二つのブレスレットを揺らし、少々おどけた口調で返した。
「あら、だったら私もコレでアクセサリーは足りてるよ? 二つ共、私の宝物だし」
「フフフ、そっか。それじゃあ……っ!」
突然、繚奈の顔が険しくなり、光美と輝宏は揃って不思議そうな顔をする。
「?……繚奈? どうしたの、急に?」
「まーま?……まーま?」
「…………」
しかし繚奈は二人の声が聞こえていないのか、何の返事もせずにある一点を見つめている。
それが丁度、自分の後方だと分かった光美は、何気なく後ろに振り返った。
「何? 私の後ろに何か……」
刹那、光美の周りの空気が凍りつく。騒がしかった周囲の喧騒が、瞬く間に遠のいていく。
――――彼女の瞳に映ったのは、先日ゲームセンターで出会った店員。そして…………。
(っ!?……あれは!……そんな……でも……間違いない!)
――――彼の胸元にある、青い龍のキーホルダー。
「ゆういっ……ちゃん?」
光美は知れず、そう呟いていた。まるで九年前のあの日に戻ったかの様に。